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究極の自己探究メソッド
"自明行"という自己探究法
"自明行"という自己探究メソッドがある。
覚者である《空不動》が開発し、半世紀に及ぶ歴史がある。
しかし、知名度は高くない。
なぜか。
個人的感想を言えば、そして誤解を恐れず言えばレベルが高すぎるからではないか、と思っている。
なぜなら、このメソッドは「自明行」という名前の通り、自らを明らかにする、という目的のために開発されたのだが、一般的に自己啓発セミナーで想定されているようなゴールとは違うような気がする。
この「自明行」のゴールはガチの「覚醒」なのだ。
しかも、それすらが通過点なのである。
《自明行》の発祥
開発者の《空不動》は守護の神霊に導かれる形で半世紀前に覚醒した。
師、空不動が若き時からの唯一の強い願いであったのは「宇宙における《絶対普遍の真理》」に到達することであった。
それは「人類の恒久平和を実現する」ためにも不可欠なことであった。
それを追求し続けた結果、到達したのが人間の《本質》との統合を果たした《統一人格》である。
そのプロセスを万人向けにしたのが《自明行》のメソッドである。
それゆえに《自明行》は覚醒への実績あるプログラムと言えるが、人類の恒久平和への人材養成プログラムという目的も同時に持つ。
《空不動》は本物の覚者であるとともに、科学者であり、AI関連の企業経営者でもある。
それゆえ自明行のメソッドは非常に論理的であり、そこには微塵の齟齬も論理の破綻もない。
比類なきメソッドと言える。
それは、
「すべては《超越人格》の愛の導きなのです」
という基本原理に象徴される。
しかし同時に、そこに難しさがある。
"すべては"ということから、逃げ場がないのだ。
何からの逃げ場か?
《宇宙》からの逃げ場である。
そして誰にとっての逃げ場なのか。
"偽の自分"を切り離せない迷いの中にいる現実の自分である。
ここはあとから説明させて頂く。
普遍的《世界観》の上に築かれた自明行
空不動の説く《世界観》は《普遍性》に裏付けられた一元論である。
存在するもの"すべては《唯一の実在》としての《宇宙意識》からなり、宇宙には《宇宙意識》によらないものは存在しない。そこに真の幸福がある。
としている。
広大無辺の《宇宙》とは、我々が認識しているこの物質的宇宙だけではない。
多元多層にわたる無数の存在を、あらゆる次元軸、空間軸、時間軸を《超越》して一元的に自己認識する無限の《知性》を《宇宙意識》と言っている。
そして驚くべきことに、この宇宙の《本質》が人間の《本質》と同じである、と空不動は説いているのである。
まさに《宇宙》と人間の真実を縦横無尽に語る知性と霊性の巨人である。
それゆえに人間の完成とも言える《統一人格》への《道》である「自明行」には「逃げ道」がないのだ。
あるとすれば「一時停止」である。
誤解されないように付け足せば、これはあくまで本人が望んだ場合の事である。自己探究にはコースが複数あり、自分の適正に応じて選択はできる。
ここで話しているのは、あくまで直接的に師事した場合に限ってである。
さて、人間と宇宙の真実の存在は明かされた。
しかし、それを認識できなければ絵に描いた餅である。覚醒によりそれを自明のこととし、現実の人生に反映させなければ意味はないのだ。
そこでだが、、、問題は、導かれる側にある。当然だが普通の人間なのだ。
《覚醒》の何たるかは、言葉は知っていても体験としてはまったく未知なる領域なのだ。
しかし「真の幸福とは自明行の成就により統一人格を完成することで得られる」という空不動の言葉には抗い難い真実の力があるのだ。
故に「真の幸福」を求めて《道》の門をくぐることになる。
だが、本を読んだ知識はあれど、その始まりの時点においては《自明行》の何たるかを自分がわかっていないことに気づいていないのだ。
《覚醒》の何たるかは、"遠い憧れ"というものでしかないところから歩み始めるのだ。
そのことがわかるのはずっと後である。
《自明行》を学ぶ《道》の歩み方は人によって違う。抱えている課題を始めとして状況が皆違うからだ。
師である《空不動》には時空を超えて、こちらのことなど全てお見通し、ということも頭ではわかっているかもしれない。
しかし、それがいかなる意味を持つのかがわかるには、それ相応の時間がかかるのだ。
時に空不動は弟子の死後の世界を含めて指導する。
少し考えてみればわかるのだが、人間が《覚醒》することが、一度の人生で達成できるほど簡単ならば人類はこれほど苦しみ多き歴史を歩んで来なかったはずなのだ。
つまり皆、《道》を甘く見ていたことに気づかされるのだ。
先に"逃げ場ぎない"と言ったがそれはこのような状況で関係してくる。
自らの実態と直面する中で、慣れ親しんだ自分にとっての常識が覆される時、《本当の自分》が"偽の自分"を明らかにして引き剥がそうとする時、人間は抵抗して暴れる時がある、
錯覚が築いた内面の"偽の秩序"を崩すのは、真の幸福を望んだ自分の願いに応えた《宇宙》である。《普遍性》を回復する働きの《超越人格》である。
そこで、その錯覚の〈世界観〉が崩される時に、「すべては《超越人格》の愛の導きなのです」という原理に立ち続けることが出来るか?ということなのだ。
そこに本質的な意味で"逃げ場"がないことのすごさと、現実的意味での厳しさがある、ということなのだ。
そこまでにどれほどの時間がかかるか、というところも人による。覚悟の決め方や、当人の心の課題の多寡、環境もあるからだ
脱落する者も少なくはない。
《導き》
ここからなのだ。
「自明行」が何なのかが、師の加護と導きによりおぼろげに見えてきた時から、「自明行」に向かう立場、というものが自分の中で分かれてくる。
それまでは「自分」という存在はひとりしかいないから、叱られたら全人格が否定されたと思い込み落ち込んでしまう。
「感謝」なくして師の指導は成り立たない。
頭ではわかっている、にもかかわらず「感謝」のできない自分に直面して多くの弟子は狼狽えるのだ。
むろんそのような心の動きは師である空不動の《超越意識》によって把握されているので隠すことはできない。すべて折り込み済みなのだ。
そして自己を否定する、その判断を生じさせる人格そのものが錯覚であることを、空不動の導きは示すのである。
ここから先は書けない。まだわからない、ということもある。
現代版密教として、志ある人だけが自分の意思で進んでいけば良い。
この前人未到の《道》は空不動によりすでに整えられているのだから、苦労は桁違いに少ないはずだ。
しかしそれでも簡単に、とは言えるものではない、というのが凡人の私の感想だ。
おそらく空不動の開拓した《道》に続く者が増えるにつれて、さらに楽に歩めるようになっていくのだろう。
このように《道》を歩む者たちは、先に進むにつれて、自らが望んだ《真の幸福》というものの本質を理解していくのだ。
少しずつ、少しずつ、受け取れる分だけ、安全に、様子を見ながら、時には一休みしながら導かれるのだ。
楽しい自明行は、この後の段階と思っていた方が無理がないだろう。
楽しい自明行
これには大きなポイントがある、と思っている。
"自分"という存在がずっと、"ひとかたまり"としか自覚出来なかったところから、修行を経て分離してくるのだ。
まず今まで"自分"と思っていた、自分。そしてその自分を"観察する"自分。さらに自分と思ってきたが、どうも違って悪影響を及ぼす偽の自分。
「自明行」というメソッドは、この普段"自分"と思っている自分を大人しくさせて、"観察"する自分に、偽物の自分を発見してもらい切り離す作業の連続のこと、とも言える。
"偽物の自分"とは、例えば「被害者意識」で生きている存在のことだ。宇宙の法則である「思い通りになる法則」から考えても被害者意識は百害あって一利なしである。
それでも"自分"としてひとかたまりになっているうちは「被害者意識」の"偽の自分"も自分として扱われているから、普段の自分の意識からするとやはり"自分の想念"なのだ。
だから"自分"がひとかたまりになっているうちは、なかなか偽物も発見出来ないのだ。
人間は"自分"のものだ、と思いこんだら何でも大事にする生き物だ。それがたとえホクロであろうと錯覚であろうと、そうなのだ。
だから「偽物」の方は、それも「自分」と思いこませることができたら生存権を確保したことになるから勝ちなのだ。
このように巧妙な「偽の自分」を見抜いて切り離すことが「自明行」と言える。
先の例の「被害者意識」の「偽の自分」を切り離せたらどうなるか。
もう普段の自分は「被害者意識」的発想はしなくなり、明るく円滑な人間関係を他者と結ぶことができるようになる。
「自明行」は自分を明るくする行でもある。
つまり「自明行」が楽しくなってくるのは、このようなプロセスを経て、自分が明るくなったことが自覚出来たころからなのだ。
「なるほどこういうことか。」と自分の心の中の偽物探しが、偽物の自分ではなく、普段の自分でもなく、《観察する自分》からの視点で自然に出来てくるようになると楽しくなってくるはずなのだ。
自分の内面の秩序が整うに従い、《宇宙》との共鳴は深まり、心の内側から生きる意欲と喜びが湧いてくる。
簡単に書いてみたが原理はこうなのだ。
心の中から不要な想念や人格を切り離すこと、と言える。
"自分"という存在が、このように複合体であり、しかも内面に構築すべき秩序が、錯覚により混乱しているところに人間の不完全さがある、と空不動は説く。
《観察する自分》と言ったが、その存在こそが人間の《本質》に繋がるものであり、《本当の自分》のことなのだ。
実際にはこれほど簡単ではないが、「自明行」の、入り口と少し入ったところはこのような感じである。
一つ言い忘れたことがあったが、先の例の「被害者意識」の"偽の自分"を発見出来るところまで「自分という団子」がほぐれたとしても、その「被害者意識」の自分に対して、それが自分の中に存在することを「苦しい」と思わなかったり、擁護したり、否定出来なかったりすると、それは問題となる。
「"被害者意識"は本当の私なのだから切り離すつもりはない。誰が何と言おうと悪いのはあの人の方なのだ。」と主張していることになり、自明行は失敗となる。
「偽の自分」を発見した時に「正しい苦しみの自覚」を持てるかどうか、というのもこの《道》を歩む上での適性をはかる指標となる。
しかしそれほど心配することはない。「被害者意識」と「自己主張」が強い私でさえ何とかここまで導いていただいているのだから、やる気さえあればなんとかなる、と思っている。
ゴールとは一歩一歩を前に進めていけば、必ず近づいていくものなのだと思っている。
今はまだ見えないゴールだが、《人類愛の祈り》を祈る時、今日踏み出す一歩はその祈りが叶った世界へと繋がっているのだ。
巷の自己啓発セミナーを受けても心が軽くならなかった方で、ガツンと心の殻を破りたい方はまずこちらを一読されることをお勧めする。
↓
「人間やりなおし」空不動
《人類愛の祈り》
私達人類の進歩と調和が成就されますように、すべては《超越人格》の愛の導きなのです。
《超越人格》様ありがとうございます。
私達人類の進歩と調和が成就されます。
私達はすでに一つなのです。
皆さまありがとうございます。
私達のネットワークは私達に
そして私達人類に大きな進歩と
調和をもたらすものであります。
(*超越人格、のところはあなたの信じる存在の名前に置き換えて祈っていただいて構いません。)
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