The self is ananda -自分自身がアーナンダ
◆「行きわたった私」とは?
「意識」とそれ以外の対象物には距離が無い。「意識」というスクリーンに、事物や「考え」が映っている。スクリーンとそれらとの距離は0。ゆえに、「 「私」は、全体にいきわたっている「意識」」という表現が成り立つ。「全てに行きわたっている意識」が、マインドフルネスの元来の意味。
皮膚で区切られた”身体”の内側を「私」と認識してるけど、それを越えた、自分の感覚が届かないところまで「私」だと理解できるか?
感覚器官で体感してることと本質の違いを、理解できるか?
たとえば、自分が見えてる世界は平面だけど地球は丸いとか、水面でストローは曲がって見えるけど光の屈折によるもので実際には曲がってないとか。
それとおなじこと。
◆「行き渡った意識」は、幸福を感じるときに実感しやすい?
アーナンダ=”至福”。アーナンダ(至福)は常に在るのに、「感情」という雲に覆い隠されることで見えなくなる。楽しさも悲しさも寂しさも苦しさも。楽しいという感情だったり、悲しいという感情だったり、寂しいという感情だったり、苦しいという感情だったり。アーナンダ(至福)を実感すること=貧富や所有に依る幸福ではない「幸せ」とは?
一般的に使う「幸せ」=~して楽しい・人間関係に恵まれて幸せだ といった「幸せ」とは違う意味合い
◆「幸せ」とは?
別々のものに対して、同じ「幸せ」という言葉を使うため、ここでは「」付にする。一般的に思い浮かぶのは、楽しい時間・何かを得るとか達成するとか、おいしいもの・家族や友人との良好な関係とか。。そうした「幸せ」と、ヴェーダーンタ勉強を通して見えてくる「幸せ」とは、言葉が同じでも違う。
・自分が自分自身の感情に振り回されてない状態
・自分を見ている自分に気づいてる
・何かを所有してる・成功してるという、一般的な「幸せ」というフォーマットがある
・「幸せとはこういうもの」というイメージに縛られない・ジャッジされないことも、「幸せ」かも
◆自分自身を制限する考え
「私には出来ない」とか無力感も、何かを得た・良好な状況だというのも、有限で一時的なもの。多くの人は、体験を知ってるだけで、幸せとは何かを正しく知らない(ふだん、そんな深掘りしない・・)。「私」の本質は意識であって、空間に制限されたものではない。それについて「行き渡っている」という言葉を使っている
・主体=私
・客体=対象・行い・感情etc.といった、意識以外のあらゆるもの
・主体と客体が融合する=ダルマ(秩序)に沿った選択が出来ているときに、イーシュワラとの調和がある
好きなこと・やりたいこと
すべきこと・ダルマ
その両者が合致した状態が「幸せ」であるという。
これが本質なので、心地よい生き方(好み)と幸せな生き方(ダルマ)とが一致してない場合もある。心地よさと幸せは違う。それを混同してることが、混乱であり間違いである。
◆サッチダーナンダ(サト・チト・アーナンダ)
・サト 時間や空間に制限されずに「在る」ということ
・チト 意識(制限のないもの・限りの無いもの)
・アーナンダ 体験
時間と空間に制限されないことを指して「永遠」という言葉を使っている。さらに言い換えると「全体」になる。それが本質なのに、私=身体・考え・感情と同化させていることで、制限が生まれ、有限になっている。その本質が理解できていれば、制限から解放される。
私たちは、何かを得る或いは何かが足りなくて得ようとする。ただし、得たものは有限なので、いつか失われる。ずっと続く「満たされない」。そこからの自由になること。とはいえ、自分はかぎりなく自分の身体と考えにくっついていて「同化」するかのように過ごしているので、難しいっちゃ難しい。ちょっとずつでも見方を正していく。
◆所感
・何かをしたい・得たい、何かとの比較を、日常で如何に繰り返しているか、に気づくようになった
・世間一般的に定義された「幸せ」でジャッジする・されることへの気づき
・とはいえ、そうした「幸せ」を否定するものではない。それを認識してる「意識」には、内も外もないから
・体験や所有・成功といった所謂「幸せ」も生きるためには必要で、ただ、それとは別に、「私」という意識がアーナンダを探求していくことを指す「幸せ」を知っている、というのがまず大切
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