【小説】愛も夢も手に入れた後(第1話)
【あらすじ】
愛も夢も手に入れた後(第一話)
「赤い線、2本あるね…」
穂乃果が妊娠検査薬を持ったままつぶやくと、悠也はへなへなとその場に座り込んだ。穂乃果は何かの間違いと信じて疑わず、宙を見たまま立ち尽くしていた。自分が妊娠しているわけがない。何の自覚症状もないのだから。
生理が2か月も来ないからこうして検査をしてみたというのに、往生際が悪く、穂乃果はそう思っていた。妊娠検査薬が間違っていることだってあるだろう。明日産婦人科で検査してもらおう。考えるのはそれからだ。穂乃果は手に持っていた妊娠検査薬を、畳んだティッシュの上に置いた。妊娠…しているのだとしても、今は生むことはできない。
「抱かせて」
悠也が穂乃果の肩に手をまわす。どこか人ごとのように思っている穂乃果とは違って、悠也の目は切羽詰まって涙目になっている。
「とにかく明日、病院に行ってみるよ。それから考えよう」
穂乃果が言うと、悠也は小さく頷いた。
「妊娠していますね」
次の日、産婦人科で検査をしてもらうと、医師は迷わずそう告げた。
「えっ…」
今更動揺している穂乃果に、医師は超音波検査の画像を印刷した紙を見せた。
「これが赤ちゃんです。胎嚢も確認できましたよ。予定日は…4月6日ですね」
「あのっ…」
取り乱す穂乃果を見て、怪訝な表情で医師は言った。
「…産みますよね?」
「…それが…」
「あ、産まないの?」
「…あの…はい」
医師は無表情のまま、今まで説明していた超音波検査の紙をくしゃくしゃに丸めて、円筒状の缶のゴミ箱に投げた。カン、という鈍い音がした。
私の赤ちゃんを…、悠也と自分の子を投げ捨てられたような気がして、穂乃果は胸が痛んだ。同時に、それより遥かに残酷な決断をしかけている自分に、穂乃果は吐き気がし、同時に胸が締め付けられる思いがした。
どのように帰って来たのか思い出せないほど、穂乃果は茫然としていた。どうにか産める方法はないのか考えてはみたが、2か月後に留学することが決まっている穂乃果には、その余地はないと思われた。あるいは留学を断念して、このまま日本で子育てをするか。
4年間勤めた会社を辞めて、みんなに盛大な送別会を開いてもらって、留学を応援してもらって、準備も整ってきた矢先の妊娠。もう後に引けないところまできていた。ずっと憧れていたロンドン留学が、もう少しで叶うといった時に、こんな失態をしでかすなんて。
穂乃果は、結婚したいくらい悠也のことを好きだった。それに結婚したら、子どもは欲しいと思っていた。このタイミングでなかったら、迷わずに産んだだろう。なぜこのタイミングなのだろう。しかも、妊娠するようなことはしていないのに…。
いや、それは語弊がある。普通のカップルがするように、セックスはしていた。でも避妊はきちんとしていたはずだった。なぜ妊娠したのだろう…。コンドームは最初から装着していたか。…そうか、それだ。最初からは着けていなかった。そのせいか…。まさかこんなに簡単に妊娠するなんて。穂乃果は24歳の健康な女性である。十分にその可能性はあるだろう。認識が足りなかった。その一言に限る。こんなに大事な時に、こんな過ちを犯すなんて。
悠也は4年間勤めた会社の同期だった。穂乃果は短大卒、悠也は一浪して大卒での入社だったため、歳は3つ違いだった。入社研修の時から同期を笑わせていた、明るくユーモアの溢れた悠也に、穂乃果は密かに惹かれていた。その時は穂乃果にも学生時代から付き合っていた人がいたし、悠也にも関西の大学時代から付き合っていた遠距離恋愛中の彼女がいたので、何も起こらなかった。
しかし4年後、お互いに当時の恋人とは別れていた。穂乃果は留学が決まって会社を辞めることになり、同期に挨拶まわりをしたり、送別会を開いてもらったりしているうちに、悠也と意気投合し、付き合おうと言われた。
「でも私、5か月後には日本からいなくなるのだけど…」
交際を申し込まれたことは心底嬉しかったが、現実的に考えると無理ではないかと思い、穂乃果はそう返した。
「5か月でもええやんけ」
関西の大学に行っていた悠也からは、時々関西弁が飛び出すことがある。
「まぁ、そうだけど…」
あっさりとそう言われた穂乃果は、受け入れる以外に選択肢はないと思った。確かに5か月でも悠也と付き合えるのは嬉しい。それに、うまくいけば遠距離恋愛を経て、ずっと付き合っていけるかもしれない。そんな考えも頭をよぎった。
「じゃ、決まり!」
悠也にそう言われて、穂乃果は嬉しかった。今までの彼氏はどこか物足りなかった。いつか別れると思いながら付き合っていた。今回は違う。悠也には本気で惹かれていた。本当に好きだと思える人と付き合うのは、初めてだと思うと心が躍った。今年、私は夢も、愛する人も、両方を手に入れたと穂乃果は思った。
それなのに…。私はその愛する人の赤ちゃんを殺そうとしている。そんなことはできるのか。やはり何を投げ打ってでも生んだ方がいいのではないか。色々な思いが錯綜する。
「妊娠してた」
夜になって悠也に電話をした穂乃果は、開口一番そう告げた。
「そうか…」
悠也はわかってはいたが、万が一の可能性に賭けていたようだった。
「俺たち、将来、結婚しようか」
悠也から続けて出て来た言葉に、穂乃果は度肝を抜かれた。
「え、でも私、産まないと思うんだけど…」
「それはわかってる」
「じゃあ、どうして今…」
「おまえとなら、やっていけると思って」
「それは…赤ちゃんが出来たから、そう思ったの?」
「まぁ、きっかけはそうだけど、それで色々考えたら、そう思えた」
穂乃果は混乱した。もちろん心の底では嬉しかった。でも今その喜びを噛み締めるのは、不謹慎のように思えた。赤ちゃんは諦めるのに、私たちだけが幸せになってもいいの?
「だから、今回の子は産めなくても、おまえがロンドンから帰って、何年かしたら結婚して、それから子どもをつくろう」
「う…ん…」
穂乃果は心底嬉しいはずのプロポーズを、こんな複雑な思いで受けていることに、釈然としない思いを抱いた。
「なに、嫌か?」
「ううん、嬉しい。でも私、この子のことも産みたい」
「えっ…でもおまえ、留学は」
「行くよ。妊娠を隠して行って、1年じゃなくて半年で帰って来て、日本で産むのはだめかな…」
穂乃果は昼間に一瞬考えたことを言ってみた。
「それは…無謀だろ。無理だよ」
「そうかなぁ」
「そうだよ」
「…堕ろすなら…、今日ね、先生に言われたんだけど、もし堕ろすなら、もう少し赤ちゃんが育ってからだって」
「そっか…」
「だから、まだ少し考える時間があるね」
「…うん」
中絶以外にどんな結論があるのかと言いたげに悠也は答えた。
「今日、産まないって言ったら、先生に超音波検査の紙を丸めて捨てられたの。私、悲しかった…」
「そうか…」
「私、やっぱりもう少し考えたい」
「うん、もっとよく考えて、納得した答えを出そう」
「うん」
このタイミングで妊娠したことは決してよいことではないが、妊娠したのが悠也の子でよかったと穂乃果は思った。まだ付き合って4か月ちょっとだったが、本気で悠也を愛していると心から思えた。それに5か月しか付き合えなかったかもしれなかった悠也との関係が、永遠のものになろうとしている。穂乃果は5か月に賭けてみてよかったと思った。
9月の出発の日まで約1か月半。妊娠中絶手術予定日まであと3週間。予定通り中絶をしたら、その3週間後には日本を発つことになる。友人たちとの送別会もまだたくさん予定されている。
妊娠したことは、もちろん両親にも友人たちにも一切言っていなかった。穂乃果は妊娠した身体で、送別会ではアルコールも飲みまくったし、ダンスも躍った。頭のどこかに、流産してくれたら自ら殺さなくて済む、なんて虫のいい考えがよぎった。でも赤ちゃんは丈夫だった。
8月に穂乃果は25歳の誕生日を迎えた。お腹の子と悠也と過ごす、最初で最後の誕生日だった。お腹の中に愛する人の子どもを宿している。それがこんなに幸せな気持ちになるなんて。穂乃果はそう考えると、感動すら覚えるようになった。でも産むかどうかはまた別の話だった。
東京タワーが見えるホテルに一泊し、ホテルの屋外プールで過ごしていたその時、穂乃果は悠也に指輪をプレゼントされた。結婚指輪とも婚約指輪とも取れるような、シンプルなデザインの、穂乃果の誕生石ペリドットをあしらったリングだった。
悠也が穂乃果の左手の薬指にリングを付ける。私はこの人と結婚するのだ、と穂乃果は実感した。
「これ、婚約指輪?」
穂乃果は悠也に聞いた。
「それはまたの機会に。これはお守り代わりにロンドンにして行って欲しいと思って選んだ」
「そうなんだ。ありがとう」
愛する人から予期せぬ指輪のプレゼント。真夏の日差しに指輪を掲げてみると、キラキラと涼しげに光る黄緑色の宝石。バックに空を泳いでいく飛行機が見えた。
自分も1か月ちょっとしたらブリティッシュ・エアウェイズの飛行機に乗って、ロンドンに旅立つ。それを考えると、今のこの状況が現実的には思えなかった。指輪をつけた左手で、まだ膨らんではいないお腹にそっと触れてみる。赤ちゃんの動きはまだ感じられない。でも確かにここにいる。自分と愛する人の子が、ここに…。
それなのにもうすぐお別れしなければならない。我が子を殺すのと引き換えに、自分は幸せを手に入れる。本当にそんなことが自分にできるのか。穂乃果は外国に一人で旅立つ前に、大きな決断を実行しなければいけないプレッシャーと、準備や送別会の忙しさで、身体がおかしくなっていった。つわりなどはまったくなかったが、どんどん痩せていったのだ。それとは反対に胸はどんどん大きくなった。妊娠するとこんなに身体が変わるのだと実感した。
「あんた、痩せてきたんじゃないの? 送別会ばっかり行ってるけど、ちゃんと食べてるの?」
留学まで数えるほどの日数なのに、家にいる時間が短すぎる穂乃果に、母親が言った。穂乃果はドキッとした。
「食べてるよ。大丈夫」
穂乃果はそう言うと笑って見せた。妊娠を悟られたのではないかと思ったが、そうではなかったらしくホッとした。
(第2話へつづく)
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