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【小説】愛も夢も手に入れた後(最終話)

 そのまま1年が過ぎ、2年が過ぎようとしていた。穂乃果は28歳に、悠也は31歳になっていた。穂乃果と悠也は相変わらず東京と大阪で離れて暮らしており、1〜2か月に1度会う生活を続けていた。
 穂乃果の仕事は忙しすぎて、連日の深夜残業や徹夜仕事が重なり、ストレスで生理が止まってしまった。1年半勤めて、出版社は結局辞めることになってしまった。

「こんなに残業ばかりして身体を壊して、会社を訴えてやりたいわね!」
 仕事を辞めてしばらく家にいた穂乃果に、母親が言った。
「でも、出版社って、どこもこんな感じだよ。私が体力なさすぎたんだよ」
「それにしても、女の子が帰って来る時間じゃなかったわよ。会社に泊まったりもして…」
 母親の怒りは収まらないようだった。
「ロンドンから帰ったら結婚するって言ってた人とはどうなってるの?」
 怒りは悠也にまで飛んだ。
「まだ続いてるよ。大阪に転勤になったから、話は進んでないけど…」
「全然結婚の話にならないじゃない。…あまり、ちゃんと考えてくれてる人じゃないんじゃない?」
 痛いところをつかれた、と穂乃果は思った。最近は現実逃避をしていたが、悠也にはもうその気はないのではないか、という気がしていた。
「今度、ちゃんと話をしてみる…」
 穂乃果はそう言うのが精一杯だった。

「姉ちゃんさぁ、その彼氏、何か結婚できない理由でもあるんじゃないの?」
 北海道の大学を卒業して家に帰って来ていた弟のたくが、母親と穂乃果の話を聞いていて、何気なく言った。
「えっ…」
「だってさ、なんかおかしいじゃん」
「そうかな…」
「俺はそんな気がするな」
 拓は時々鋭いことを言う。もしかして悠也には、今結婚できない理由ができたのだろうか。今度会った時、きちんと話をしようと穂乃果は思った。

「私たち、結婚しないでこのまま遠距離恋愛を続けていくなら、私、悠也とはもうやっていけないかもしれない…」
 2か月振りに大阪の悠也の部屋で会った時、穂乃果は悠也に言った。悠也は一瞬言葉を失ったが、「そうか…」と言った。
「もう少し待ってくれ。今すぐ結婚しなくてもいいだろう」
 悠也は粘ったが、穂乃果はもう限界だった。
「じゃあ、今結婚したくない理由は何?」
「それは…」
「もう、私と結婚する気がなくなったんでしょ?」
 25歳の誕生日に悠也からプレゼントされた指輪を、穂乃果は1日も外さずに身につけていたが、その日初めて悠也の前でそれを外した。その瞬間、今まで何年も我慢していた思いがどんどんあふれてきて、涙が止まらなくなった。
「その指輪はおまえにあげたものだ。持ってて」
 悠也はテーブルの上の指輪を穂乃果に渡して、抱きしめた。
「ごめんな。おまえのことは本当に愛してる。ただ、今はまだ結婚できないんだ。…実は借金があるんだ」
 そんな話、聞いてない、と穂乃果は思った。顔を上げて、悠也に問い詰めた。
「なんでそんな大事な話、黙ってたの? いくらあるの?」
「前の彼女と遠距離恋愛をしていた時につくった借金だったから、言いにくくて…。ごめん。借金を返すためにまた借りて、積もり積もって、500万くらいある」
「そんなに? それじゃあ、結婚や子育てなんて無理じゃない」
「だから、すぐに結婚しようとは言えなかったんだ」
「もう、こんなんじゃ、私たち、最初からダメだったんじゃない。 留学を諦めて子どもを産む方を選んでいたら、どうやって生活する気だったの?」
「だから留学を選んでくれてよかったと思った」
「なっ…!」
 もう、言葉にならなかった。穂乃果は叫びながら泣いた。悠也が背中をさすってくれたが、その手を振り払った。最悪だ。何もかも幻だった。本当に愛も夢も何もない。何も手に入れてなんかいない。手に入れたと思っていたものは、偽物だった。私には何もない、と穂乃果は絶望した。
「前の彼女のために500万も借金したって何? 私のためには東京出張のついでにしか会いに来ないくせに、その彼女のためには借金までして会いに行ってたんだ?」
 穂乃果は泣き叫んだ。
「若かったんだよ。自分が東京に就職したせいで彼女に寂しい思いをさせているという罪悪感があって、無理してまで会いに行ってた。でもそれは間違っていたとわかったんだ。だからおまえとは無理しないでやっていこうと思ってた」
「私はずっと我慢していたんだけど。もうこれ以上は無理だよ」
 もう、終わりだと穂乃果は思った。悠也と別れる日が来るなんて、思ってもみなかった。そんなことが自分にできるなんて…。

 それからどう東京に戻ったか、穂乃果は覚えていなかった。部屋で何日も寝込んでいる穂乃果に、母親がスープを持って来てくれた。
「少しでも食べなさい」
 母親には何も話さなくても、すべてを悟っているようだった。スープを机の上に置いて、母は部屋を出て行った。
 穂乃果はスープを少しだけ口に入れた。中絶した夜に、悠也がルームサービスで頼んでくれた、じゃがいもと玉ねぎのスープ、ビシソワーズの味がした。悠也が頼んでくれたスープ…それを思い出しただけで泣けてきた。

 それから、悠也からは連絡もなかった。これであっけなく終わったのだ、と穂乃果は思った。私は本当に、悠也に愛されていたのだろうか。それさえももう怪しい気がしていた。でもそれはさほど問題ではない。自分は心の底から悠也を愛していた。それだけで十分だ。ロンドンに行ったことも後悔していない。中絶を選んだのも自分の選択だった。どちらにしろ、あの時は産めなかったのだと、後からわかったのだけど…。
 自分の人生が思うようにいかないと感じていたのは、人に決定権を委ねたからだ。私は自分の足で歩いて行く。そう穂乃果は思った。

 穂乃果はまた仕事を探し始めた。家でできる、翻訳の仕事に応募してみようと思い、履歴書と職務経歴書を書き始めた。机の上で、小さなキューピーの人形が両手を広げて、くりくりした瞳でこちらを見ていた。
 穂乃果は悠也にもらった指輪を、キューピーの頭に被せた。
「見ててね。私はロンドンに行ったことをちゃんと将来に活かしてみせる」
 そう言うと穂乃果は翻訳の仕事にエントリーした。(完)

ご感想を書いてくださった理生さんの記事です☝🏻
私よりも悠也の心情を理解なさっていて、
びっくりさせられました😄

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