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【小説】愛も夢も手に入れた後(第2話)

 とうとう運命の日が来た。どんなに穂乃果が無茶をしても、お腹の子は元気だった。そして穂乃果が出した答えは、やはり中絶だった。
 その日、穂乃果は一人で病院に向かい、中絶手術を受けることになっていた。その後、悠也と都内のホテルで落ち合い、一緒に泊まることになっていた。子を失う日の夜、一晩中一緒にいてあげたい。それが悠也のせめてもの思いやりだった。
 
「出かけて来るね。今夜は送別会で、みんなでホテルに泊まるから、明日帰るね」
 穂乃果は母親にそう言うと、家を出た。
「あんた、また送別会? ロンドンの準備は出来てるの?」
 母親が玄関で心配そうにしている。穂乃果はまたにっこり笑って見せた。しかし母親の顔を見て胸が痛んだ。
(孫を早く見たいって言ってたのに、ママに内緒で今から孫を殺しに行くの…)
 穂乃果の目に涙がにじんだ。
 
 穂乃果の母は、穂乃果に留学するより、早く結婚して孫を産んで欲しいといつも言っていた。だから穂乃果が留学すると言った時、大反対をした。父親に話した時も、「話にならない」と聞いてももらえなかった。
 穂乃果は長女で、両親が期待するような都立の高校、女子短大に行き、大手の広告制作会社に就職した。だが古い体質の会社では、短大卒の女子は希望する営業職にも就かせてもらえず、全く希望していない事務職に4年間も従事した。
 大学でデザインを専攻していた悠也は、グラフィックデザイナーとしてバリバリ働いていた。穂乃果はそんな大卒の同期たちに刺激も受けていた。また、穂乃果の弟は北海道の大学に行き、一人暮らしをして自由に生きていて、第二子で男というだけでこんなにも違う、と羨ましく思っていた。
 穂乃果は人生で初めて、自分のやりたいことに向かって、動き出したのだった。だから反対されてもロンドンには行くつもりだった。穂乃果の好きなUKロックの聖地、ロンドン。その街に1年間住んでみたいと、退屈な仕事をしながらお金を貯めた。自分のお金で、好きなことをするのだから、反対されても今回だけは自分のわがままを通すつもりだった。そして行動に移しているうちに、両親は「本気みたいだから、やらせてみるか」という方向になっていった。そこまではうまくいった。だが、子どもを身ごもったことは完全に誤算だった。
 
 穂乃果は病院の門をくぐって、受付で中絶同意書を提出した。自分の署名と、悠也の署名もしてある。会計で支払う10万円は悠也からもらってきていた。保険が効かないとはいえ、穂乃果にとって留学前の物入りの時に10万円の支払いはつらかった。だが、穂乃果は身体を痛めて手術をしなければならないのだから、中絶の費用は俺が出す、これは連帯責任だから、というのが悠也の言い分だった。
 これから人殺しをするという後ろめたさに、看護師たちの視線も気になったが、看護師たちは淡々と仕事をこなしているだけだった。
「これに着替えて、こちらにお座りください。準備ができたら、麻酔をかけますね」
「はい」
 穂乃果は言われるままに手術着に着替えて、手術台に座った。
「はい、では横になって。息を吸って。10から逆に1まで数えてください」
 穂乃果はこんな酸素マスクみたいなものをつけられて、吸うだけで麻酔が効くのかと半信半疑だったが、1まで数え切った記憶はなかった。目覚めたらすべてが終わっていた。
 寝たのは一瞬だけのような気がしたので、実は終わっていないのかも、という気もした。だが寝ている間に、手術台からベッドに移動させられていた。脚の間に何か違和感があって触ってみたら、なにやら布みたいなものが股の間から出ている。色々なことが変わっている。そうだ、意識がなかった間に色々なことが起こったのだ。もう私の中に赤ちゃんはいない…。
 
「あ、目覚めましたか」
 看護師が穂乃果に気づいた。
「子宮口にガーゼを入れてあるので、後でトイレに行ったら引き抜いてくださいね」
 あくまでも機械的に看護師が言う。今、殺人をしたばかりの犯人なのに、対等に扱われることに安堵感を覚える。だが同時に気まずさも感じていた。
「はい」
 そして穂乃果はゆっくりと立ってみた。最初だけ少しふらついたが、一人で歩いてトイレまで行けた。そして股の間から出ている白い布をひっぱってみた。抜けない。思い切り引っ張るのがなんだか怖かったが、殺された赤ちゃんはもっと怖かったはずだ。これくらいのことで怖がっていてはいけない、と思い、穂乃果が精いっぱい引っ張ったら布は抜けた。真っ赤に染まっていた。それを見た途端、怖くて悲しくて、涙が流れた。私の中に確かにいた、悠也と自分の子は、もうこの世にいないんだ。それを決めたのはこの私。ごめんね、ごめんね…。穂乃果はトイレの個室で、赤く染まった布を握りしめ、声を殺して泣いた。
 どれくらい経っただろう。ふと我に返り、トイレの個室を出て、ベッドに戻った。手術着から、着て来た服に着替え、病院を後にした。
 
 悠也は今日、休みを取って先にホテルに来ていた。シティホテル1階の、日差しが差し込むラウンジで待ち合わせをしている。
「手術、終わった。もうすぐ着くよ」
 何時になるかわからず、大体の時間しか決めていなかったので、病院を出てから穂乃果は悠也にLINEを送った。
 
 ホテルの入り口の階段を上り、ガラス張りのラウンジが見えてきた。悠也を目で探す。いた。ソファー席に座ってコーヒーを飲みながら、パソコンを開いている。私は人殺しをしてきたというのに、悠也は涼しい顔をして、仕事でもしているのだろうか。自分と悠也の二人ともが、いなくなった子の親だとしても、温度差があり過ぎると穂乃果は思った。
 近づいて行くと、悠也は穂乃果に気がついて、あっ、という顔をした。そして視線を穂乃果の胸に落とし、更にびっくりしたような顔をした。大きくなっていた穂乃果の胸が、中絶手術をした途端、元に戻ったことに気がついたようだ。穂乃果は居心地の悪い気持ちを押し殺して、悠也に近づいた。
「お疲れ…というのも変だな。なんて言えばいいんだ?」
 悠也が困惑している。
「何も言わなくていいよ」
 穂乃果はバッグを置いて、向かいのソファー席に腰かけた。ウェイトレスが来て、穂乃果はグレープジュースを注文した。
「胸が小さくなったな」
 悠也は気になっていたことを口にした。
「うん。手術の後、すぐに変わったね。あんなに張っていたのに。女の身体ってすご…」
「…前のがよかった」
「え?」
 穂乃果の言葉を遮ってまで発した悠也の言葉に、穂乃果は耳を疑った。穂乃果のするどい目つきで我に返ったように、悠也は目を泳がせながら、「…なんてね」と冗談っぽく付け足した。
 ここは冗談を言うような場面ではない、と穂乃果は怒りを感じた。でも冗談っぽくごまかしただけで、あれが悠也の本音なのだろう。不謹慎だ、と思った。たとえそう思っても、今、この状況で言うことではないと、穂乃果は強い憤りを感じた。
 やはり女と男は、当事者と、どんなに関わっていようとも非当事者。どこか人ごとのような悠也とはやはり温度差がある。
 まあ、でも仕方がない。自分が留学に行かなければ、産めたかもしれない命だ。穂乃果には罪悪感があったので、怒りを飲み込んだ。
「これ飲んだら、部屋で横になりたい」
 穂乃果は運ばれて来たグレープジュースを手に取り、悠也に言った。
「うん、そうしろ。今日はゆっくり休みな。俺は部屋でちょっと仕事する」
 いつもの優しい悠也に戻ったかのように見えたが、さっきのひと言で悠也の裏の顔を見たような胸のざわめきは穂乃果の中から消えなかった。
 (第3話へつづく)


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