851~878年「アングロサクソン年代記(クロニクル)」抜粋抄訳
前半が長くなったので、A.D. 851のアルフレッドの生誕前後以降、「Life of King Alfred」と平行する部分をこちらに分けました。
【2020/11/10】更に長くなったので、<879年以降をこちらに分割しました>。
【メモ: 2020/10/26】
アルフレッド王の命日記念に、とりあえず 787年の「エディントンの戦い」まででアップします。残りは翻訳次第、追加していきます。
文献、注意書き等は<前半>および<補足ページ>を参照ください。
【改訂・追加履歴】
Rev.0:878年まで翻訳、公開。(2020/10/26)
Rev.1:879~882年追加、微修正 (2020/10/30)
Rev.2:883~886年追加、微修正 (2020/11/1)
Rev.3:887~892/3年追加、追記・修正、879年~を分割 (2020/11/10)
Rev.4:893/4~895/6年追加、追記・修正 (2020/12/4)
Rev.5:896/7~902年追加、追記・修正 (2020/12/13)【一旦ここまで】
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◆本文ここから◆
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(A.D. 848~851頃、アルフレッド王子ご生誕)
(訳注:この間ASCに記述はありませんが、 848~851年頃にウェセックスのアルフレッド王子、ウォンティッジにてご生誕。6人兄姉弟の末っ子、5男坊。※5人兄弟、4男坊説もあり)
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A.D. 851* (デヴォン戦、サンドウィッチ海戦、ロンドン&カンタベリー陥落、オクリー戦)
この年、デヴォンシャー勢を率いた州公のケオールが、ウェンバーグ* において異教徒軍と戦い、多くの敵を討ち取って勝利した。
同年、ケントのサンドウィッチ*において、アセルスタン王*と州公のエルフヒア* が船で戦い*、大軍の敵を討ち取り、9隻の船を捕獲したが、後は散り散りに逃げた。
異教徒の民が今回初めて、サネット島*において一冬を過ごした。
同年、350隻の船がテムズ河口に現れた。乗り手たちは上陸してカンタベリーとロンドン* を猛襲し、マーシアの王バートウルフ*とその軍を追い散らした後、テムズ川を越えてサリーに南進*した。
ここでエセルウルフ王とその息子エセルバルド*が、ウェスト・サクソン軍を率いてオックリー Ockley*において戦い、異教徒軍を大いに殺しまくったが、これほど多くの異教徒を討ち取った例は今日まで聞いた事がないほどで、ウェセックス軍が勝利した。
<訳注>
・851年:ASC (A)本では851年、(B)本では853年。
・ウェンバーグ (Wemburg/ Wicganbeorge):ウェンバリー(Wembury)。ポーツマス(デヴォン領)近くの海沿いの村。サクソンの聖人、聖ワーバーガ (St Werburgh) を祀った教会もあるようです。
・サンドウィッチ: ドーバーの北の街。13・15世紀の海戦も有名。街の中を流れる Stour川は、昔は(下記のサネット島との)海峡だった。当時の貿易港らしい。
・アセルスタン王 (Athelstan/ Æthelstan):ケント王。
ウェセックスのエセルウルフ王の長男で、アルフレッド王の長兄(または弟で叔父。A.D. 854項参照)
・エルクヒア/エルフヒア (Elchere/ Ealchere):ケントの州公。853年の項も参照。
・船で戦い:初めてアングロサクソン側も「船で」戦った海戦の記載。海戦の得意なデインに勝ったのは画期的。
・サネット島 (Isle of Thanet):海戦のあったサンドウィッチ湾のすぐ北にある島。※当時は「島」だったが、現在は陸続きになっている。
・カンタベリーとロンドン (Contwaraburg, Lundenburg):カンタベリーはケント領 (ウェセックス配下)、ロンドンは多分まだマーシア領。
なお、ロンドンの表記が、839年の項では「Lundenne」でしたが、ここでは「Lundenburg」になっています。(839年の項も参照)
・マーシア王バートウルフ (Bertulf/ Beorhtwulf/ Berhtwulf):ウィグラフ (Wiglaf) の次の王。
・エセルバルド (Ethelbald/ Æthelbald):エセルウルフ王の次男で、上記アセルスタン(ケント王)の弟。(あるいは長男で、アセルスタンの甥。A.D. 854項参照)
・オックリー (Ockley): 古英語で「アクリー/ Aclea」。現在のサリー(Surrey)郡の Ockley 村か。不明。
※アッサーの「Life of King Alfred」に『Aclea は "Oak Lea"(樫ヶ原)の意味』とあり、ならば「Ockleyではなく Oakleyになるはず」との指摘もあり(Keynes & Lapidge他)、微妙なところ。
▼ロンドンの位置変化の図、再掲
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A.D. 852* (ピータバラ修道院との契約)
この年の前後、ミーズハムステッド*の修道院長ケオルレッドが、修道士達の同意を得て、センプリンガム* の土地をウルフレッド王に条件付きで譲った。その条件とは;
王の死後は件の土地を修道院に返還すること;
ウルフレッドはスリーフォード*の土地をミーズハムステッドに譲ること;
そして毎年、修道院に、木材を60山 (ロード)*、石炭を 12山*、ピート*を 6山*、良質なエールを 2タン*満杯、食肉を 2 ニート*、パンを 600斤、およびウェルシュ・エール*を 10キルダーキン* を納めること;
また、毎年、馬一頭、および30シリング、および一夜の娯楽*。
この合意は、バーグレッド王*、大司教ケオルノス*、司教タンバート、ケンレッド、アルドゥン、およびバートレッド;修道院長 ウィトレッドおよびウェフトハード; 州公のエセルハードおよびハンバート、およびその他多数の立ち合いの上になされた。
<訳注>
・852年:この項、ASC ピータバラ写本 (E)の記載。(A), (B) には記載なし。
・ミーズハムステッド (Medhamsted/ Medeshamstede):ピータバラ (Peterborough) の旧名。マーシア領内。
・センプリンガム (Sempringham): 上記ミーズハムステッド(ピータバラ)から北に30kmほどにある、リンカーンシャー内の集落。
・山 / ロード (load):単に「ひと盛り」か、イングランドでかつて使われていた重さ/量の単位。基準は時代により異なる。
・ピート:泥炭。燃料。(アイラウィスキーとかのあれ)
・タン (tun/tunne):イギリスの液体の単位。約 950リットル。ワイン、油などに使用。
・食肉(carcases) を 2ニート(neats):「屠殺して食用に処理済みの動物」を、2ニート(単位、1ニートは 牛 1頭?? 未確認)※誤訳しているかも知れません。
・ウェルシュ・エール :ウェールズの僧院などで作られる、エールとミード(蜂蜜酒)の中間のような飲み物。強めで、シナモンやショウガ、ハーブなどを混ぜる。「Bragawd」「 Braggot」(ブラゴット)「Honey Beer」として、現在でもいくつかの醸造所で(日本も含めて)作っているようです。「良質のエール (fine ale)」とは別に欲しいらしい。
・キルダーキン (kilderkin):液量の単位。約 1/2バレル(70~80リットル)。
・30シリングと「一夜の娯楽」:「毎年」がかかっているのか1回のみか不明。「一夜の娯楽」が気になりますね。
・バーグレッド王 (Burhred/ Burgred):マーシア王。下記、853年項参照。
・大司教ケオルノス:カンタベリー大司教。830年の項参照。
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A.D. 853* (ウェールズ進攻、アルフレッドのローマ巡礼、サネット島戦、マ・ウェ間の政略結婚)
この年、マーシアの王バーグレッド*とその賢人会議が、エセルウルフ王に、北ウェールズ*を制圧するための援護を乞うてきた。
王はそれに応え、マーシアを越えて北ウェールズに進軍し、すべての住民を服従させた。
同年、エセルウルフ王は息子のアルフレッド*をローマに派遣*した。その当時の教皇レオ*はアルフレッドを王として聖別*し、彼を魂の息子として養子にした*。
同年、ケント勢を率いたエルフヒア*と、サリー勢を率いたフダ (Huda) が、サネット島*で異教徒軍と戦い、勝利した*。しかし両陣とも、多くの者が討たれたり溺れ死んだりした。(前述の)2人の州公も戦死した。
同じ頃*、マーシア王バーグレッドは、ウェストサクソンの王エセルウルフの娘*を妻に迎えた。
・853年: 854年、または855年か。
・マーシア王バーグレッド (Burhred/ Burgred):在位852/3~874/5年。上記の852年の項でエセルウルフ王の契約の立ち合いをしている人。
この項後半でエセルウルフ王の娘、エセルスウィス (Æthelswith)と結婚し(後述)マーシア・ウェセックス間の安保関係を強めるが、デイン・ヴァイキング勢の猛攻に心折れて国外脱出、ローマで客死。(874年の項参照)
・北ウェールズ (North Wales/ Norþwalas/ Norðwealas):現在のウェールズの北部ではなく、ウェールズ全体(ブリストル海峡の北側)を意味することが多い。対する「西ウェールズ」は、現在のコーンウォール (ブリストル海峡の南側) で、ウェセックスの西に隣接する地域。(いずれもサクソン側からの語彙。下図参照)
さらに、この時にマーシア&ウェセックス連合軍が「制圧」したのは、「北ウェールズ」中でもマーシアに隣接する Powys王国で、この時の Powys王 Cyngen ap Cadellは退位し、Powysは隣国のGwynedd王国に統合されようですが
https://en.wikipedia.org/wiki/List_of_Anglo-Welsh_wars#Ninth_Century
ウェールズ側の資料と相互確認できていないので、とりあえず書きかけとしておきます。
<余談: Cyngen ap Cadell 王>
Cyngen ap Cadell (在位808~854/5年頃) 。祖父のElisedd ap Gwylogを記念して建てた柱、Pillar of Elisegが有名らしい。(元々は十字架が付いていたのが壊れて、アレな形状になっている)
退位後、ローマ巡礼に向かい、855年頃に現地で客死するようですが、855年前後にはウェセックスからの大ローマ巡礼ツアーも出ており、関連が気になるところです。(未確認)
・アルフレッド (Alfred/ Ælfred):ようやく出てきた、ウェセックスのアルフレッド王子、御年5さい。※実際は5~7歳くらい。アッサーの「Life of King Alfred」では『5歳』表記。
アルフレッドは 851年の項のアセルスタン(ケント王)を長兄とすると、5男坊になるはずですが、下記 854年の項では「3男」となっており、雑です。
・ローマに派遣:この時はエセルウルフ王は同行せず、家臣や一般国民(貴族&平民)に付き添われて大ローマ巡礼ツアーを催行。
<余談>
現地では、イネ王(またはオッファ王)が設立したスコラ・サクソナム(サクソン人/イングランド人互助・宿泊施設、816年の項で火事に遭っていたところ。A.D. 816年の訳注参照)などにお世話になったと思われますが、教皇レオ 4世の後任のベネディクト 3世が再建したらしい(A.D.854年の訳注参照)ので、この時はまだ仮設住宅状態だったのかも知れません。
また、すぐ上の兄、エセルレッドも同行した可能性が(※この時、または855年のエセルウルフ父王の巡礼時)あり、これはロンバルディアのブレシアにあるサン・サルヴァトーレ教会 (San Salvatore/ Santa Giulia, Brescia) の「Liber Vitae (Confraternity book/ 生命の書、兄弟団の書)」に、エセルレッドとアルフレッドの名前があることから。
アングロサクソン年代記やアッサー著の伝記では完全に無視されてますが…。
・教皇レオ (Pope Leo IV):レオ 4世、790年生、在位847~855年。
・王として聖別:王として認めた、の意。しかし幼い子供を「王として認める」というのも不自然で、おそらくラテン語もあまり話せずカトリック総本山の儀式のあれこれの意味をよくわかっていないド田舎のアングロサクソン民が誤解したか、ウェセックス王家の権威を高めるために話を盛ったか、のどちらかと推測されているようです。
・魂の息子として養子にした:「養子」は多分 god son 的な意味。これもおそらく形式的なもの。献上品によって祝福ランクが決まりそう。(個人的な偏見です。)
・エルフヒア (Ealhhere/ Ealchere/ Elchere):ケントの州公。851年の項でケント王アセルスタンの許でヴァイキングと戦った人。RIP。
・サネット島:851年の項参照。
・勝利した:上記の英訳文に「soon」がありますが、やや確定できないので、省略しました。(どこかで「戦いは1日で終わった」という英訳も見かけた気がしますが、見失いました...)
・同じ頃:クロニクル A, Bではイースター(の後)となっています。
・エセルウルフの娘:エセルスウィス (Aethelswith/ Æthelswith、833~888年)。エセルウルフの唯一の娘で、おそらく第 2子。(851年の項に出てきたアセルスタンの次。)
アッサーによるアルフレッドの伝記「Life of King Alfred」(以下LoKA) には、この婚礼の様子がもう少し詳しく書いてあり、
それによると、エセルスウィスはマーシアに女王 (queen/ reginam)として迎えられ、王のヴィラ(屋敷)のあるチッペナム (Chippenham) において、盛大な婚礼を挙げた、とあります。
<余談:ウェセックスにおける「女王」>
当時のウェセックスでは王妃は「女王」とは認められず、エセルウルフ王のオスバーガ妃(LoKA参照)も単に「王の妻」である一方、隣国には娘を「女王」として嫁がせたのは、力関係が垣間見えるように思えますが、この部分は単に「女王 (cyninge)」の翻訳時の便宜的な言葉遣いによるものか、マーシアでは女王扱いになるのか、未確認です。
▼エセルウルフ王、エセルスウィス女王の名前の書かれた指輪。(左端が父王、左から2番目が女王。)British Museum
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A.D. 854* (デインのシェピー島越冬キャンプ、エセルウルフ王の終活&ローマ巡礼&再婚スキャンダル&逝去)
この年、異教徒達が初めて、シェピー島*で一冬を過ごした。
同年、エセルウルフ王が、神を讃え、また自身の常世の救済を願って、王国全土に所有する土地の1/10を、神の栄誉に帰すべく登記した*。
同年にはまた、盛大にローマ巡礼*も行い、現地に 12か月滞在した*。その後、帰国の途に就いたが、この時、フランク王シャルル*が娘のジュディス*を、女王として彼(エセルウルフ)に嫁がせた*。
そして王は帰国し、国民は喜んで迎えた*。しかしフランク王国から戻ってから 2年後、彼は死去した。その遺骸はウィンチェスターに埋葬*された。エセルウルフ王の治世は 18年半だった。
エセルウルフはエグバートの息子*であり、エグバートはエアルムンド*の息子、エアルムンドはエファの息子、エファはイオッパの息子、イオッパはインギルドの息子。
インギルドは、ウェスト・サクソンの王として 37年間治めた イナ*の兄弟である。イナはその後、聖ピーター*へと旅立ち、彼の地で亡くなった。
彼等兄弟はセンレッドの息子であり、センレッドはケオルウォルドの息子、ケオルウォルドはカサの息子、カサはカスワインの息子、カスワインはケオウリンの息子、ケオウリンはキンリックの息子、キンリックはクレオーダの息子、クレオーダはケルディック*の息子、ケルディックはイレーサの息子、イレーサはエスラの息子、エスラはゲウィス*の息子、ゲウィスはウィグの息子、ウィグはフレアワイン*の息子、フレアワインはフリスガーの息子、フリスガーはブロンドの息子、ブロンドはバルデイの息子、バルデイはウォーディン*の息子、ウォーディンはフリスウォルドの息子、フリスウォルドはフレアワイン*の息子、フレアワインはフリスウルフの息子、フリスウルフはフィンの息子、フィンはゴドウルフの息子、ゴドウルフはギート*の息子、ギートはテトワの息子、テトワはボウの息子、ボウはセルドワの息子、セルドワはヒアモッドの息子、ヒアモッドはイターモンの息子、イターモンはハスラの息子、ハスラはワラの息子、ワラはベドウィグの息子、ベドウィグはシャーファ*の息子。
シーフはノア*の息子であり、ノアの方舟の中で生まれた。続けて、レメク、マスサレム、エノス、ヤレド、マララヘル、カイナン、エノス、セス、原初の人間アダム、そして我らが父、キリスト*である。アーメン。
その後、エセルウルフの2人の息子が王国を継いだ。ウェセックスはエセルバルド*、ケント、エセックス、サリー、サセックスはエセルバート*。
エセルバルドは 5年間、王として治めた。
3番目の息子*、アルフレッドは、エセルウルフが以前ローマに派遣したのだが、教皇はエセルウルフの訃報を聞くと、父エセルウルフが望んだようにアルフレッドを王として戴冠し、心の手の許に置いた。エセルウルフはこのために彼を彼の地に派遣したのである*。
・854年: 855年。
・シェピー島: 832年の項参照。
・神の栄誉に帰すべく登記:王国への奉仕 (service) や納税(tribute, 年貢的なもの)から解放、または教会への寄進、という解釈(アッサーのLoKA)と、単に神の名の許に土地の登記をした (?registered/booked. 敬虔な行為らしい) という解釈など。
この「1/10の寄進」(dicimation) の詳細は、現存する勅許状 (charter) の資料に色々記載されているようです。
・盛大にローマ巡礼:アッサーの LoKAでは「アルフレッドも同行(アルフレッドは 2回目)」とあるものの、ASC他に記載はなし。(一応、アルフレッド本人から聞いたと思いますが....。)
当時のローマ教皇は ベネディクト 3世に交代しており(アルフレッドの第1回巡礼の時は レオ 4世)、教皇の伝記集「Liber Pontificalis」(Book of the Popes/The Book of Pontiffs /教皇の書) のベネディクト3世の項に、エセルウルフが色々な貢物を持参して「盛大」な巡礼を行った様子が描かれているようですが、「Liber Pontificalis」そのものの信憑性が微妙らしいので、詳細は省略します。
<参考>▶ラテン語版 (Google Books。本文の検索可能)
p.304のあたりに 「Rex Saxonum」の記載があります。また p.285 にScholam Saxonum云々とあり、ベネディクト 3世が「スコラ・サクソナム(例の火事で焼けたイングランド県人会館)」を再建した、という記述があるようです。
・滞在した:行きと帰りに、西フランク王国のシャルル (2世)にお世話になった模様。(下記)
・フランク王シャルル (Charles ΙΙ/ "Charles the Bald", 823~877年):シャルルマーニュではなく、その孫のシャルル 2世、禿頭王シャルル。840年の項で死去した 敬虔王ルイの息子。西フランク国王(在位840~877年)、後のカロリンガ王朝の王(在位875~877年)、「イタリア王」(875~877年)。ハゲではなかったっぽい。
・ジュディス/ジュディット (Judith):843/844年生、870年頃没。当時 11~13歳。エセルウルフ王の生年は不明ですが、父のエグバート王の生年(771年頃)や、彼自身も 825年には成人して軍を率いていたことを考えると、50~60代。当時の女性が少女時代に嫁ぐことは珍しくなかったとは言え、年の差はまぁまぁ大きい方では。
・女王として嫁がせた:この部分、およびジュディスの名前は A, B本には記載がなく、単に「娘を嫁がせた」のみのようです。(他のマニュスクリプトは未確認)
「女王」については(853年のエセルスウィスの項にも書きましたが)ウェセックスは女王は立てないので異例。また、当時、フランク王国(カロリンガ朝)の王女は結婚せず尼僧院に入るのが常で、外国人との結婚もほとんどしなかったので、これもかなり異例。終活モードに入った初老のエセルウルフ王(ド田舎サクソン王)が、再婚してまで少女ジュディス(ド名門のプリンセス)を迎え入れたあたり、色々垣間見える気がします。
※前妻のオズバーガがいつ死去?したかは不明ですが、アルフレッドが本の暗誦をするくらいに成長するまで存命だったので、このローマ巡礼のすぐ前くらいかも知れません。
<余談:2人のジュディス、サクソンとザクセン>
シャルル 2世の母(ジュディスの祖母)もジュディス (Judith of Bavaria)で、バイエルン (Bavaria)出身なのでドイツ語読みで「ユーディット」とかでしょうか。(ジュディスは西フランク王国で、現在のフランス側)
更にユーディットの母 ヘドウィグ/ハイルヴィッヒ (Hedwig/ Heilwig) は「サクソン人 (Saxon)」 ですが、これはブリテン島に移住せずに残った、ユトランド半島のサクソン人(Old Saxony) がフランク王国に統合された後のザクセン公国のザクセン人 (Sachsen)。紛らわしい。
※ドラマ「ヴァイキング」にエセルウルフの妻としてジュディスが出てきますが、年齢が全然違うわ、ノーサンブリアのエラ王の娘になっているわ、姦淫でアルフレッドを産むわで、その他諸々、アレンジが凄くて大変面白いです。
・喜んで迎えた:とありますが、アッサーのLoKAによると次男のエセルバルド(下記)が(エセルウルフを)王国に受け入れるのを拒否した、とあるので、厄介事は省いた書き方。
・ウィンチェスターに埋葬: 最初はサセックス領内の街、Steyning に埋葬されたが、後にウィンチェスターに(おそらくアルフレッドが)改葬した模様。
現在のウィンチェスター大聖堂の主祭壇の鴨居の上に、彼(やエグバートなど)の遺骨を納めたとされる遺物箱が適当に乗っけてあります。(下の写真参照)
・エセルウルフはエグバートの息子であり~:
※これ以降、王が死んだ時の定型の家系図。エグバートよりも余計に盛っております。アッサーのLife of King Alfred (以下 LoKA) の方のアルフレッド王の家系と比較しても盛りまくり。
(名前の読みはかなり雑です、すみませんが原文ご確認ください)
<余談>
ヨーロッパあたりの人名に「~の息子(娘)、XX」というパターンがありますが、このあたりのサクソン語(古英語)では ing らしく、この家系図はそのように書かれています。
例: Æþelwulf Ecgbrehting (エグバートの息子、エセルウルフ)
・エアルムンド (Ealhmund):エグバートの父、ケント王。784年の項参照。
・イナ (Ina/ Ine):イネ王。 (816年の項も参照)
・聖ピーター (St Peter):ローマ・ヴァチカンのサン・ピエトロ大聖堂。
・ケルディック (Cerdic):初代チェルディッチ王。755年の項参照。
・ゲウィス (Gewis):部族としての Gewisse(ゲウィセ)は、ウェセックスの前身となったグループ。部族の擬人化。
・ウォーデン (Wodin):北欧神話のオーディン。755年の項のオッファのマーシア王家系図にも出てきましたが、ここ(ウェセックス)にも混ぜてきた。デイン(ヴァイキング)は「異教徒」と呼びつつ、先祖にオーディンを混ぜてしまうような、過渡期の文化。
・フレアワイン (Freawine):2回登場。念のため。
・ギート (Geat): 部族としてのギート人(Geats)は、現在のスウェーデンのイェータランド(Götaland)あたりに住んでいたゲルマン系の部族。古英語詩で有名な「ベーオウルフ」はギート人。これも部族の擬人化。多分。
・シャーファ (Sceaf/ Scēf/Sceafa ):「Shava/シャーヴァ」等。(J.R.R.トールキンは「Sheave」と記載。)
伝説上のロンバルド/ロンゴバルド人(現・イタリアのロンバルディアに対応、ゲルマン系)の王。生まれが不明で赤ん坊の時に海を小舟に乗って流れてきた、という逸話があるので、「ノアの方舟の中で生まれた」と無理やりこじつけた模様。(聖書には当然ながら記載がない)
・ノア:ここから聖書にスイッチ。現在の聖書の家系図とはやや異なります。
・我らが父、キリスト:キリストがアダムの父親という世界線。天にまします我らが父はどこに行った。
・エセルバルド (Æthelbald):851年の項に出てきた、エセルウルフの次男。
さらっと後を継いだように書かれてますが、実際には、エセルウルフ父王の巡礼留守中に国王を代行して権力欲が高まったのか、823年の項に出てきたシャーボーン司教エアルスタン、845年の項のサマセット州公イアンウルフと共謀して、1年間の不在から戻ってきたエセルウルフ王を王位に復帰させるのを拒否。ゴネた末にウェセックスを東西分割(※便宜的な表現)し、西半分の王となる事で決着。
一方、エセルウルフ父王は、存命中は東半分の王となる。
※正確には「セルウッドの森 (Selwood Forest) 」(サマセットとウィルトシャーの境界あたりにある森)をざっくり境界として、それより西側のドーセット、サマセット、デヴォンの「ウェセックス」部分をエセルバルドに譲り、エセルウルフ王はその東とケント、サセックス他の、自分が昔(父エグバート存命中に)担当していて、即位後は息子アセルスタン任せていたエリアに引っ込んだ、という感じ。
更にエセルバルドは、父王の死後、寡婦となった義理の母・ジュディス(14~15歳くらい)を妻に迎えるという大スキャンダル(※アッサー談、意訳)の末、5年後に死んでしまう。大変お騒がせな兄。
(まぁ還暦あたりで巡礼に行って1年も留守にしていた父王には、引退して欲しいと思うでしょうが...)
・エセルバート (Æthelbert/ Æthelberht) :エセルウルフの 三男。(アセルスタンを入れた場合。)父王の死後、その「東半分」を継いだ。
・3番目の息子:誤記。アセルスタン(長男)を数えずに(1) エセルバルド、(2) エセルバートとしても、次の(3) エセルレッド(アルフレッドのすぐ上の兄)の存在が消えている。後世に適当に書き加えたような印象。下記参照。
・3番目の息子~派遣したのである:この部分、A本、B本には無い記述。スピリチュアルな描写といい、後年、アルフレッド王の正当性を固めるために書き加えたような気がしますが、未確認。
<余談:アルフレッドの王位継承の正当性がらみの話>
アルフレッドの前の兄王、エセルレッド (Ethelred)が死去した際、息子(アルフレッドの甥)がおり、順番としては甥たちが王座に就くべきだったところを、まだ甥たちが幼く、デイン・ヴァイキングとの交戦中でもあったため、アルフレッドが王位を継いだ...ので、このあたりに疑義があるらしい。(創作上の話だったかも。思い出したら補足)
▼ウィンチェスター大聖堂に雑に置いてある遺骸箱(3個)。エグバートとエセルウルフの遺骨か何かが、他の王や司教の遺物に混ざってどれかに入っている事になっている。
エグバートの名前が読みとれる箱もありますが、エセルウルフは不明。箱自体は16世紀のもの。 2011年撮影。
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A.D. 855 (重複するので省略)
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A.D. 860* (エセルバルドとエセルバートの死)
この年、エセルバルド王が死去し、遺骸はシャーボーン*に葬られた。
その後は弟のエセルバートが王国全体を継ぎ*、秩序と平穏の許に治めた。
彼の治世の間、大編隊の海軍*が国内に入り込み、ウィンチェスターを簒奪した。しかし、ハンプシャー勢を率いた州公オスリック*、およびバークシャー勢を率いた州公エセルウルフ* が、敵軍と戦って撤退させ、勝利した。
前述のエセルバート王は 5年間治めた後、シャーボーンに埋葬された。
<*訳注>
・860年:B本では 861年?
・シャーボーン (Sherborne Abbey):シャーボーン・アビー(教会)。705年にウェセックスのイネ王 (King Ine) の指示の元に大聖堂が設立され、アルドヘルム (Aldhelm) が初代シャーボーン司教となった。
<余談>
教会の裏側にある全寮制男子校、シャーボーン・スクール (Sherbone School)も、大元は同じくアルドヘルムが大聖堂に併設して 705年に作った(聖職者の)学校。イギリスで最も古い学校の一つ。(現在は女子高も別にある)
・州公オスリック (Osric):845年の項でドーセット勢を率いていたオスリックと同じかどうか不明。
・州公エセルウルフ (Ethelwulf):父王と同じ名前ですが、別人です。念の為。
▼シャーボーン・アビーと、教会内の片隅にあるエセルバルドとエセルバート兄弟の墓の銘板。左上のガラス窓から床下が覗けるようですが、この時は水滴で何も見えませんでした。(2018年秋撮影)
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A.D. 861* (聖スウィザンの死)
この年、司教の聖スウィザン*が死去した。
<*訳注>
・861年:862/3年、または 854年。この項は F本に記載。A, B 本に無し。
・聖スウィザン (St. Swithun):ウィンチェスターの司教(ウィンチェスター大聖堂の説明文によると、在位852~862年)。後年 (11世紀頃)にスウィザン信仰が興った。(ので、F本に追記した?)
ウィンチェスター大聖堂の奥の方(後部クワイア、13世紀頃に建て増した部分)に廟があり、スウィザン詣でのご本尊として多くの巡礼者が詣でていた。※元々は主祭壇に祀ってあったのを、トマス・クロムウェル(ヘンリー8世の手先)に破壊されたりして、後部に移したらしい。
穴くぐりみたいなアトラクション(※聖地になっている廟の中に狭い入口から入る)もあったっぽい。
今はその穴は入れず、廟の前に遺骸箱っぽいやつ(写真、下)が置いてある。
<余談>
ドラマ「ヴァイキング~海の覇者~」S2 E3 で、ウィンチェスターに来たラグナル達ヴァイキングの皆さんに射的の的にされて褌一丁で殺されてたお坊さんの名前がスウィザンでした。
(下着で柱に縛られて矢を射られるのは、どちらかというとイースト・アングリアの聖エドマンド殉教王っぽさがありますが、役者さんがエドマンド・ケント(Edmund Kente) さんだからでしょうか...。)
▼ウィンチェスター大聖堂にある、聖スウィザンの廟と、その前にある遺骸箱的なもの。遺骸はあちこちに分骨されて、今は多分空?。
廟は並んでいるイコンの裏側の空間で、イコンの下の小さい穴から入った筈。右端がスウィザン。(2018年撮影)
A.D. 865* (サネット島に落ち着くヴァイキング)
この年、異教徒の軍勢がサネット島に居座り、ケント民が上納金を出すことを条件に、和平を結んだ。
しかし平和と金銭の約束にも関わらず、異教徒勢は夜な夜な国内で略奪を働き、ケントの東側すべてを征服した。
<*訳注>
・865年:866年?。
・サネット島 (Isle of Thanet):851年参照。
この865年のヴァイキング来襲が、9世紀後半のブリテン島における「大異教徒軍」の侵攻開始点とみなされている事が多いです。
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A.D. 866* (エセルレッド王就任、イーストアングリアのヴァイキング村)
この年、エセルバートの弟、エセルレッド*がウェスト・サクソンの王位に就いた。
同年、異教徒の大軍*がイングランドに押し寄せ、イースト・アングリア*に冬期の居住区域を作り、間もなく馬も調達した。
イースト・アングリアの住民は彼等と和平を結んだ*。
<*訳注>
・866年:865年。B本は867年。
・エセルレッド (Æthelred):在位 865~871年。エセルウルフ父王の 4男 (アセルスタンを含めた場合)、アルフレッドのすぐ上の兄。※エセルバートの弟としましたが、原文は「兄弟(brother)」。
妻・ウルフスリス (Wulfthryth) (※推定)との間に、2人の息子 エセルヘルム (Æthelhelm) と エセルウォルド (Æthelwold) がいる。
・異教徒の大軍 (great heathen army):
ラグナルさんちの息子さん達が結成した大ヴァイキング連合軍。デイン勢をメインに、スウェーデン、ノルウェイあたりから参戦。おそらくハルフダン (Halfdan)、フッバ(Hubba/Ubbe, ウッバ/ウッベ)、イングヴァール(Ingvar/Hingvar/Ivar, ヒングヴァール、イヴァール、アイヴァー)など。
北欧側の伝承では、ビョルン・アイアンサイドやヒッツサーク(Hvitserk)が入っているバージョンもあるらしい。(ハルフダンとヒッツサークが同一人物説もあり。)
他の有名どころとしては、グスルム (Guthorm)、バグセック (Bagsac/ Bagsecg)など。
<余談:ラグナルさんちの時系列>
北欧側の伝承では、ラグナル・ロスブロック (Ragnar Lothbrok)の息子さん達は、ノーサンブリアのエラ王 (Ælla, 867年の項参照)に殺された父の復讐に燃えている ことになっているのですが、エラが王になったのが(ASC上では)867年、しかしその前(前々)年に息子達が「復讐」にブリテンに上陸しているので、微妙に時系列がおかしい気がしますが、ASCも各項に数年の誤差があるので、何とも言えません。
・イースト・アングリア (East Anglia): マーシアの東。有名な「サットン・フーの船墓」がある地域。この866年はエドマンド王 (在位855年~。870年の項参照)の治世。マーシアの支配下にあったり無かったり。 ※792年の項(未翻訳)に、「オッファ王がKing Ethelbert の首を刎ねるように命じた」とあり、このエセルバート王はイースト・アングリアの王。
・和平を結んだ (made peace):あるいは「平和に共存した」ですが、前例から見て、上納金 (Danegeld) を払って大人しくしてもらうパターン。
▼大英博物館 (British Museum) のサットン・フーの発掘品、財布のフタ (purse lid)。7世紀。ページトップの盾も同展示より。2011年撮影
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A.D. 867* (ヴァイキングのヨーク遠征、エラ王の背開き)
この年、(異教徒)軍がイースト・アングリアからハンバーの河口*を越え、ノーサンブリアのヨーク*まで遠征に行った。
その頃、ノーサンブリアはノーサンブリアで、自国内でゴタゴタしていた。彼等はオスバート王*を退位させ、正当な王位継承権が無い エラ*を王位に就かせた。
しかし同年の後半(訳注:上記の王位交代騒動の後)には、王国への忠誠を取り戻し、共通の敵と戦うため、大軍を招集編成してヨークで敵と戦った。が、街の守備が突破されると、敵の一部が侵入し、街の内外でノーサンブリア民の大虐殺が行われた。
2人の王もその場で殺された*。生き残った者達は、異教徒勢と和平を結んだ。
同年、司教のエアルスタン*が死去した。彼はシャーボーン司教を50年務め、遺骸はシャーボーンに埋葬された。
<*訳注>
・867年:B本は 868年。ノーサンブリアの内紛は866年か。
・ハンバーの河口:827年の訳注参照。マーシアとノーサンブリアの境界、のような意味で使われることも多々。
・ヨーク (York/ Eoforwicceastre):ローマ帝国時代からの都市。海からハンバー(三角江)とその支流のウーズ川 (Ourse)を遡って、船でも到達できる。
・オスバート王 (Osbert/ Osberht):ノーサンブリア王、在位 858/9?頃(?)~ 866/7年。退位とあるが、王としての勢力はある程度保っていた模様。
・エラ王 (Aella/ Ælla/Aelle/ Ælle):ノーサンブリア王、在位866?~867年。オスバート王を追い落としたので、後年の文書では「暴君」扱いされたりしているが、詳細は不明。
伝説のヴァイキング、ラグナル・ロスブロックを蛇穴に放り込んで殺したせいで、息子達が復讐に来て、このヨーク戦でブラッド・イーグル(背開き)にされて殺された、という伝説が有名。
ドラマ「ヴァイキング~海の覇者たち~」にも登場し、ドラマではかなり在位期間が長かったり、ウェセックスのエセルウルフ王の妻のジュディス(854年の項参照)の父の設定だったり、アレンジがすごいキャラの1人ですが、蛇穴とブラッド・イーグルのネタをちゃんとこなして、盛り上げてくれます。
<余談:ブラッド・イーグル/ Blood eagle>
「ブラッド・イーグル」は、背中側の肋骨(左右両側)を切って身を開き、両肺を取り出す拷問・処刑方法。
聖エドマンド殉教王 (870年参照) もこれをやられた、という話のバリエーションがあり、とりあえずヴァイキングの残忍さを示すのに使われがち。
おそらく後年(19世紀頃?)の創作で、実際は、戦場に放置して鳥のエサにする程度だったのでは、という説もあり。19世紀の大衆文学、残酷描写だいすき。
・2人の王もその場で殺された:オスバート王とエラ王。ゴタゴタしつつ、両方とも王として対立していたところ、ヴァイキングの襲来で結束したものの、あえなく戦死。
エラ王の(伝説上の)死因は上記参照。オスバートは特に明記なし。
<余談>
この後、ノーサンブリアはデインの傀儡であるエグバート王(Ecgberht、ウェセックスのエグバートとは別) が立てられ、ヨークおよびその周辺(ノーサンブリア南部)は 北欧式?に「Jórvík」と呼ばれたりしたようです。
・エアルスタン (Ealstan):ウェセックスのエセルバルド王と謀略した例の司教。王が代替わりしても司教として居座っていたっぽい。強い。
▼ヨーク駅近くの城壁 (City Wall) の一部。
最初はローマ帝国時代に築かれた。2018年撮影。
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A.D. 868* (ノッティンガム戦、〇マ・ウェ連合軍)
この年、同じ(異教徒)軍がマーシアのノッティンガム*に侵入し、そこに冬期の居住区域を構えた。
マーシア王バーグレッド*は、その賢人会議と共に、ウェスト・サクソンの王・エセルレッドとその兄弟・アルフレッドに対して、異教徒軍との交戦の援護を乞うた。
そこで彼等はウェセックス軍を率いて、はるばるマーシアのノッティンガムまで進軍し、砦に陣取る敵軍を包囲して苦しめた。しかし激しい戦いには至らず、マーシア軍は異教徒軍と和平を結んだ。
<*訳注>
・868年: 867年?
・ノッティンガム:ここもハンバー三角江から、支流のひとつ トレント川 (River Trent) 経由で海から接続する都市のひとつ。
ロビン・フッド物語の悪役(Sheriff of Nottingham) の名前が浮かぶせいか、市内にロビン・フッドの銅像があるっぽいですが(未訪問)、「ロクスリー」を登場させて近代ロビン・フッドブームの一役を担った小説「アイヴァンホー」は、アングロサクソン vs ノルマンの文化対立も絡めた、大変面白い小説です。(定期的なダイレクトマーケティング)
・バーグレッド王: 853年の項参照。エセルレッドとアルフレッドにとっては、姉の夫、義兄。
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A.D. 869* (ヨークでまったりするヴァイキング)
この年、異教徒軍はヨークに戻り、そこに 1年間居座った。
<*訳注>
・869年: B本は870年。
▼遠方にかすかに見えるヨーク・ミンスター(大聖堂)。とても大きい。
週末で、ビールを飲みに街に繰り出す人が続々と集まっていました。
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A.D. 870* (エドマンド王の殉教、イングヴァールとフッバ)
この年、異教徒軍はマーシアをまたいでイースト・アングリアまで驀進し、セトフォード* に冬期の居住区域を構えた。
そしてその冬*、エドマンド王*が彼等と戦ったが、デイン*が勝利し、王を殺した*。これにより彼等は(イースト・アングリア)全土を蹂躙し、行き当たったすべての修道院を破壊した。
王を殺した(デインの)リーダー達の名前は、イングヴァールとフッバ*と言った。
また同じ頃、彼等はミーズハムステッド* にも侵攻し、焼き討ちと破壊を行い、修道院長*と修道士達、および見つけた者すべてを殺した。
彼等の破壊の有様は甚大で、それまでは豊栄の極みであった修道院*が、跡形もなくなってしまった。
同年、大司教ケオルノス*が死去した。後任には、ウィルトシャーの司教、エセルレッド*がカンタベリー大司教に選ばれた。
<*訳注>
・870年:869年。B本は 871年。
・セトフォード (Thetford):バリー・セントエドマンズ(後述)より北の街。
・その冬:正確には11月頃。11月 20日がエドマンド王(下記、聖エドマンド殉教王)の命日として、聖人の祝日/記念日(教会カレンダー)となっております。
<余談:聖人の祝日>
聖人はやたらといるので、記念日/祝日(feast day)と言っても休日になる訳ではなく、聖パトリックの日(アイルランドの聖人、緑のビールを飲む日)のような有名どころ以外は、教会のミサでその聖人に因んだお話しがある程度です。
・エドマンド王 (Edmund of East Anglia):在位 855~869/870年。841年頃生まれ?(不明)。聖エドマンド殉教王 (Edmund the Martyr, St Edmund)。
なお、その生涯は、後年に信仰対象となったため後付けのものが多く、ドイツ生まれ(生まれの血統のよさを後付けるのによく使われるっぽい方便)など、色々と盛られています。
※「聖エドマンド」は他にもいるので注意。(13世紀にカンタベリー大司教となったアビンドンの聖エドマンド/ Edmund of Abindon)
・デイン (Danes/Deniscan):「異教徒」(Heathen) 表記が多かったのですが、ここでは「デイン」が出ております。
・王を殺した:下記参照。
<余談:聖エドマンド王の殉教>【注意!長くなります!!】
エドマンド王がどのように殺されたのか、実際のところは不明ですが、
カルト(崇拝)上の伝説的には、この時、エドマンドがデイン勢から「キリスト教から改宗しろ」と迫られたものの、拒んだため、木に縛られて弓矢で「ハリネズミ」のように射られ(※聖セバスチャン的なテンプレ)、首を斬られて殺された、というのが定型です。
(ブラッド・イーグルにされた説もあり。適当)
この改宗を拒んだことにより、「殉教者」となっています。
また、その時に斬り落とされた首は、そのへんに捨てられて行方不明になったものの、人々が諦めずに探していると、ある日どこからか「ここ、ここ (Hic, hic)」と呼ぶ声が聞こえ、その声のもとに行ってみると、オオカミが王の首を守っているのが見つかり、しかも腐敗もしていなかった(※定番)ので、これが「奇蹟」と認定され、聖人に列聖されました。
他に、殺された場所はセトフォードから東に 20kmほどのホクスン (Hoxne) という伝説もあり、現地には王が身を隠していた橋も、一応あります。
(行ったことがある人によると、結構ショボいらしい。)
その後、めでたく首が見つかったエドマンド王が、首&体が揃って埋葬された場所が当時の「Beodericsworth」、現在のバリー・セントエドマンズ (Bury St Edmunds) というそのまんまな地名になっております。
市章も聖エドマンドのシンボルと同じ、「王冠と矢」。
▼ゴミ箱も聖エドマンド。
なお、エドマンド王が埋葬された当時の教会(Abbey of St Edmund)は、長らく巡礼者で賑わっていましたが、ヘンリー 8世とトマス・クロムウェルの廃仏毀釈...もとい修道院大破壊フェーズの煽りを受けて、現在は廃墟となり、花壇が自慢の公園(現地ガイドさん・談)の一部に残っています。
また、すぐ横にある新しい教会、聖エドマンズバリー大聖堂 (St Edmundsbury Cathedral) にも、エドマンド王関連のモニュメントや彫像やら色々祀られ、現在も信仰の場となっております。(大聖堂レゴもある)
<余談 of 余談>
関係ないですが、このバリーセントエドマンズの近所にあるウェスト・ストウ (West Stow) に、アングロサクソン村(生活を再現した村)があります。 https://www.weststow.org/
※以下、途中のヴァイキングの名前およびミーズハムステッドの記載は、A, B本には無いようです。
・イングヴァール/ヒングヴァー/アイヴァー etc (Hingwar/ Hingvar/ Ingvar/ Ivar etc):
ラグナルの息子のひとり。「ボンレス (Ingvar the boneless)」という仇名で知られる。「ボンレス」の由来は、ボンレスハムのように肥満だとか、不具だとか、EDだとか、諸説あるようです。
イングヴァールは当初は「大異教徒軍」の中心人物のひとりでしたが、ASCにはこれ以降、登場しません。
10世紀後半の歴史家、エセルウォード(Ethelward/ Æthelweard、エセルレッド王の子孫で州公/セイン)は 870年をイングヴァールの没年とし、アイルランドの年代記「Annals of Ulster」では 873年が没年となっています。
また、アイルランドにヴァイキング勢が建てた「ダブリン王国」(Kingdom of Dublin) の王、イマール ( Ímar、古北欧語 (Old Norse)で "Ívarr" )がイングヴァールと同一人物、とする説もあるようです。
▼The Darkness の2015年の曲「Barbarian」に、『アイヴァー・ザ・ボンレスの命令でエドマンド殉教王 (Martyr) が斬り殺された~』などの歌詞がありますので、ご参考まで...。
・フッバ (Hubba/ Ubba/Ubbe etc):ラグナルの息子のひとり。ウッバ。
・ミーズハムステッド:ピータバラ。852年の項参照。この破壊された修道院はエセルウルフ王に土地を貸して様々な食糧などを得ていた、あのリッチな修道院と思われます。
・修道院長: 852年にはケオルレッドでしたが、870年にヘッダ(Hedda)に代替わりしたようです。RIP。
・大司教ケオルノス:カンタベリー大司教。830年参照。上記の 852年の土地貸与契約の立ち合いにも出てきました。
・ウィルトシャーの司教エセルレッド (Ethelred): ウェセックス王と同名ですが、別人です念の為。この「ウィルトシャーの司教~」部分は記載のないマニュスクリプトもあり、また、ウィルトシャーの司教だったかも不明のようです。(一次資料未確認)
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A.D. 871* (●レディング戦、〇アッシュダウン戦、●ベイジング戦、●マートン戦、●ウィルトン戦)
この年、(異教徒)軍がウェセックスのレディング*に現れた。
そしてその 3日後、2人のヤール*が更に進軍し、アングルフィールド*で州公エセルウルフ*と対峙し、エセルウルフが勝利した。 殺されたヤールの1人の名は、シドラック*と言った。
この約 4日後、エセルレッド王とその弟のアルフレッドが、主力軍を率いてレディングに進軍し、敵軍と交戦した。
両軍ともに多くの犠牲を出し、州公エセルウルフも討ち死にした一人だったが、デイン勢がその場を制した。
更にこの約 4日後、エセルレッド王とその弟アルフレッドはアッシュダウン*において(敵)全軍と戦い、デイン勢に打ち勝った。
デイン勢には、2人の異教徒の王、バグセック*とハーフダン*、および多くのヤールがおり、二手に分かれていた。
片方の陣は異教徒の王のバグセックとハーフダンが率い、もう片方はヤール達の陣だった。
従って、エセルレッド王が異教徒の王達の軍勢と戦い、バグセック王を討ち取った。
王弟のアルフレッドはヤールが率いる軍勢と戦い、いずれもヤールの大シドロック*、小シドロック*、オスビョルン*、フラアナ*、ハロルド*を討ち取った。
彼等(ウェセックス軍) の攻撃により、両陣とも撤退させたが、犠牲は何千人にも上り、夜まで戦い続けた。
この戦いから 2週間*と経たず、エセルレッド王と王弟アルフレッドは(異教徒)軍とベイジング*で戦ったが、デイン勢が勝利した。
この約2か月後、エセルレッド王と王弟アルフレッドは異教徒軍とマートン*で戦った。
彼等は二手に分かれて、両方を後退させ*、日中の大半は優勢に進めた。
その後、両陣ともに大殺戮が行われたが、デイン側が勝利し、司教のヘフマンド*、および多くの優れた者達が戦死した。
この戦いの後の夏、異教徒の大軍がレディングに到来*した。
また、この年のイースターの後、エセルレッド王が死去*した。彼の治世は 5年間で、その亡骸はウィンボーン・ミンスター*に埋葬された。
そして彼の弟であり、エセルウルフ王の息子であるアルフレッドが、ウェセックス王国を継いだ*。
それから 1か月と経たず、アルフレッドは、小隊を率いてウィルトン* で異教徒軍全軍に戦いを挑み、日中の大半は異教徒軍を追い込んで優勢であったが、最終的にデイン勢が勝利した。
この年、テムズ川の南側の王国*では、王弟アルフレッド、および各州公、ならびに王のセイン* が絶え間なく行った小競り合い以外に、異教徒軍との戦いが 9戦あった。この年、9人のヤールと 1人の王*が戦死した。
同年、ウェスト・サクソンは異教徒軍と和平を結んだ*。
<*訳注>
・871年:870/872年。
・レディング (Reading/ Readingum):ロンドンより西、マーシアとウェセックスの境界あたり(テムズ川沿い)にある街。バークシャーの中央付近に位置。
・ヤール (Jarl/ eorla):ヴァイキング側の「州公/ Ealdorman」くらいのランク。後の Earl (伯爵)などに該当。
・アングルフィールド (Englefield/ Englafelda):レディングの郊外(西側)の村。
・州公 エセルウルフ: バークシャーの州公。860年にも登場。RIP。
・(ヤール) シドラック (Sidrac/ Sidroc):このヤールの名前はA本とF本には無し。後半に出てくる別の シドロック親子と別なのか混同があるのか、不明。
・アッシュダウンの戦い (Battle of Ashdown):
アッサーの「Life of King Alfred」で詳細に描かれている、有名な戦い。
エセルレッド兄王が戦いの前のミサを長々と聞いていて出陣が遅れ、アルフレッドが先に布陣を進めたので先手を取られずにすんだ、という逸話がアルフレッドファンの心をくすぐります。
・アッシュダウン (Ashdown /æscesdune):
場所は不明ですが「Berkshire Downs」と呼ばれる丘陵地帯のどこか。候補としては、
▶東部の Kings Hill (Moulsford) 説
▶Uffington のホワイトホース・ヒル説: ウォンティジ (Wantage) の西の高低差のある丘で、鉄器時代からの「白馬」が描かれている。
▼ Uffingtonの様子。広角でわかりづらいですが、急勾配の高い丘が立ち上がっております。残念ながらこの時は朝霧でホワイトホースは撮れませんでした。(昼間は道路からよく見えました。)
なお、Uffingtonの更に南にはその名も Ashdown Park という緑地があり、 "Alfred Castle”という円形の土塁/砦などもあるようですが、これらはヴィクトリア時代?以降に名付けられたようです。
<余談>
ドラマ「ラスト・キングダム」のS1 E2 で、アッシュダウンを (古英語 ”æscesdune" (トネリコの木の丘) をベースに)「Asec's Hill」と呼んでおり、原作小説に倣って当時の地名・読み方を程よく取り入れていて、参考になると思います。
また、ドラマ内ではデーン勢が「Readingum (レディンガム=レディング)」から「Abbendum (アベンダム=アビンドン/ Abingdon-on-Thames)」に向かう途中に戦いを仕掛けるので、アッシュダウンの位置を(その途中にある)上記の Kings Hill (Moulsford) と設定しているようです。
で、E2のラスト30秒ぐらいで描かれているのがアッシュダウンの戦いだと思いますが、この後のベイジングとマートンの戦いを省略して、ここでエセルレッド王が重傷を負い、その後死去のが、次のエピソード(S1E3) で描かれています。
ということで、この871年あたり以降のアルフレッド王を描いたドラマ、「ラスト・キングダム」を観よう!
・バグセック (Bagsac/ Bagsecg):大異教徒軍のリーダーの1人。RIP。
<余談>
映画「ハマー・オブ・ゴッド (Hammer of the Gods)」(870年のノーサンブリアあたりが舞台のメタルバイキング映画)に、バグセックがチラっと出てきます。死にかけてますが、多分このアッシュダウンの戦いで即死せず撤退したみたいな設定。
この2013年の映画は、他にも、ドラマ「ヴァイキング~海の覇者たち~」のロロ役やエラ王役の人達も出てきて、特にエラ王役のアイヴァン・ケイ (Ivan Kaye) がこっちではアイヴァー (Ivar) 役で (ダジャレか?) 気炎を吐いており、色々と面白くてカッチョイイので、必見です。(お察し下さい)
▶アマゾン・プライムで観れる吹替版(有料の字幕版・吹替版もあり。下記はツタヤ)
・ハーフダン (Halfdan/ Healfdene):ラグナル・ロスブロックの息子の一人 (Halfdan Ragnarsson)。
ドラマ「ヴァイキング~海の覇者たち~」ではハラルド (ハーラル) 美髪王 (Harald Fairhair) の弟として登場しており、また、近隣の時代にも複数の「ハーフダン」がいますが(例:ハラルド美髪王の父、Halfdan the Black。伝承 (サーガ)によってはハラルドの息子にも Halvdan が何人か出てくる)、
この「大異教徒軍」に参加していたのはラグナルさんの息子さんということになっております。
・大シドロック (Sidroc the elder)、小シドロック (Sidroc the younger)、オスビョルン (Osbern/ Osbearn)、フラアナ (Frene/ Fræna /フリーン)、ハロルド (Harold/ Hareld ):名前が挙がっていますが、詳細は不明。
・2週間:Fortnight, 14日間。
・ベイジング (Basing/ Basengum):現在のベイジングストーク ( Basingstoke )。レディングから西南に20km くらいの街。
・マートン/ メレトゥン (Marden/ Meretun):
この戦いは何故かアッサーの「Life of King Alfred」には書かれていません。
マートンの場所は不明で、諸説あり、ベイジングから西の「Merton」ぽい地名の場所がいくつか候補になっているようです。
個人的に、下記リンクの Dr Paul Kellyの提案する Martin Down説も、(この後のイースター前後に死去した)エセルレッドが埋葬されたウィンボーンからも比較的近く、妥当な感じがします。
▼氏のサイト (blog) は英語ですが、アルフレッド王に関する場所を訪れた写真が多々あり、内容も充実していますので、おすすめです。
https://king-alfred.com/wp/2019/08/26/meretun/
・~両方を後退させ:「彼ら」が続くのでわかりづらいですが、アッシュダウン同様、デイン勢が二手に分かれたので、ウェセックス勢も二手に分かれた?
・司教 ヘフマンド (ヒアマンド etc/ Heahmund):シャーボーン司教。司教エルスタン(Ealstan, エセルバルド兄王と結託して国家転覆計画していたシャーボーン司教)の後任。取り敢えず戦うシャーボーン司教たち。
<余談>
ドラマ「ヴァイキング」では、ジョナサン・リス・メイヤーズが安定のジョナサン・リス・メイヤーズ的な役柄で演じております。
▼ S5 E15で描かれている ウェセックスvs ヴァイキング勢の戦いが、ゆるーく「マートンの戦い」に該当するはず。【!ゴア注意】
・大軍がレディングに到来:新たに海を渡ってきた追加のデイン軍で、「グレート・サマー・アーミー (大夏季軍, Great Summer Army/ micel sumorlida )」と書かれています。パリピっぽい。
・エセルレッド王が死去:死因は不明ですが、フィクション作品ではいずれかの戦い(ASC的にはマートンが妥当に思えますが)で追った重傷が元で...、という解釈が多いようです。
アッサー著のアルフレッド王の伝記(アルフレッドから聞き書きしている)にも明確な記載がなく、やや謎。
・ウィンボーン・ミンスター (Wimborne Minster / Winburnan):
※街の名前と教会の名前が同じ。
街の地理的には、シャーボーン(上の兄2人の埋葬地)とウィンチェスターの中間あたりに位置し、直前の戦場であるレディング、ベイジング、マートン等からかなり南西/南に離れた場所。
教会は、705年頃に聖カスバーガ(ウェセックスのイネ王の姉か妹、725年死去)が修道院として建立し、その後、彼女自身が祀られている、由緒ある教会。
シャーボーンは遠すぎ、ウィンチェスターは敵陣に近くてあぶないので選んだ場所、という気もしますが、どうでしょうね。(個人の雑感)
・アルフレッドがウェセックス王国を継いだ:
この時期のウェセックス王位は、祖父のエグバート王の遺言により、本来なら息子が継ぐルールですが、兄エセルレッドの 2人の息子達 (A.D. 866年の訳注参照) がまだ年若く、デインとバトっている最中なので、アルフレッドにお鉢が回ってきたようです。
アッサーのLoKAには、アルフレッドは本当は「すでに多くの戦死者を出しているし、獰猛なヴァイキングと対抗できそうにないので、あまり継ぎたくなかった(しかし神のご加護があったので何とかやれた)」(意訳)などと書かれています。
<余談>
この王位継承順番抜かしのせいで、アルフレッドの死後、アルフレッドの息子(エドワード)vs エセルレッドの息子(エセルウォルド)の王位継承争いが勃発。エセルウォルドが上記のウィンボーン(父の埋葬地)に立てこもったりしました。(A.D. 901年の項)
なおドラマ「ラスト・キングダム」では、エセルウォルドが十分成長した姿で描かれつつ、素行の悪さを理由にアルフレッドに王位を奪われ、復讐心を秘めた人物として描かれています。
・ウィルトン (Wilton):ソールズベリー (Salisbury) の西側、「Wylye川の南岸」(アッサー・談) の街。当時はウィルトシャー (ウィルトンのシャイア) 地域の中心地。
ウィンボーンから北東に約 35km、クランボーン・チェイス (台地、当時は森林) を越えてすぐの場所で、少人数での奇襲がかけやすそうに見えますが、多勢に無勢だったのでは。
・テムズ川の南側の王国:ウェセックス。
・9人のヤールと 1人の王:デイン側の戦死者として名前が挙がっている 6人のヤール達(+名前不明の 3人)とバグセック王。
・異教徒軍と和平を結んだ:ヴァイキング勢に撤退してもらう代わりに、デインゲルド (Danegeld) と呼ばれる上納金を払ったと思われます。
▼レディング駅の写真があったので。ヴァイキングの皆さんはあまりWelcomeされませんでした。右の銅像はエドワード王ですが、アルフレッドの長男 (この後、874年頃生まれ?) ではなく、ヴィクトリア女王の長男のエドワード7世 (1841年生)。隔世の感。
**********************************
(下記、重複しているため省略)
**********************************
A.D. 872 (ロンドンで越冬するヴァイキング)
この年、異教徒軍がレディングからロンドン*に移動し、そこを冬期の居住地区とした。
その後、マーシアの民は異教徒軍と和平を結んだ。
<*訳注>
・ロンドン (Lundenbyrig) はおそらくまだマーシア領 (?未確認)。
表記が「Lundenbyrig」なので、大昔にローマ帝国が築いた城壁に囲まれた、ロンドン橋の北側あたりの Lundenburg (旧ロンディニウム/Londinium) エリアと思われます。839年の項参照。
当時 (871~872年頃) に鋳造されたコインにハーフダンの名前の物があり、実質的な支配者とみなされていたようです。
▼ロンドン橋から南に約 1kmのトリニティ・チャーチ・スクエアにある、アルフレッド像。テムズ川の南側は当時はロンドンではなかったですが...。元はウェストミンスター・ホールにあったのが、1820年代に移築されたようです。(柵に囲まれており、この時は入れませんでした)
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A.D. 873 (ノーサンブリアの越冬ヴァイキング)
この年、異教徒軍はノーサンブリアに移動し、リンジー*のトークシー*に冬期の居住地を構えた。
その後、マーシアの民は再び、異教徒軍と和平を結んだ*。
<*訳注>
・リンジー (Linsey/ Lindesse):ノーサンブリア内の小王国。ハンバーの南側の出島のような地域で、昔は独立していたが、ノーサンブリアに征服された。(たまにマーシアにも)
・トークシー (Torksey/ Tureces):リンカンシャーの街。ハンバー支流のトレント川沿いにあり (水運可能)、それなりの規模の居住地を作った様子。
▼ BBCのヴァイキングドキュメンタリー番組「The Vikings Uncovered」の抜粋 (2016、英語) の後半に 想像図CGがあります。(長いのはこちらなど、イングランド関連は0:31~)
[追記] 下記のレプトンのドキュメンタリー (Lost Viking Army) の 0:28分くらいにもチラっと触れいます。
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A.D. 874 (マーシア王バーグレッドの国外脱出)
この年、異教徒軍はリンジーからレプトン*に移動し、そこに冬期の居住地を構え、約 22年間に渡って治めていた バーグレッド王* を海外に追い出し、すべての土地を征服した。
彼(バーグレッド王)はその後ローマへ赴き、生涯を終えるまで彼の地にとどまった。彼の亡骸はイングランド民学校* 内のサンクタ・マリア教会*に埋葬された。
同年、彼等 (異教徒軍) は、ケオルウルフ* という、王の愚鈍な家来 (セイン) にマーシア王国を任せた。
彼 (ケオルウルフ) は異教徒民に誓いを立て、彼等が望めばいつでも提供するという条件で人質を提供し、また、ケオルウルフ自身も、彼に従う者達と共に、異教徒軍の利益に寄与するとした。
<*訳注>
・レプトン (Repton/Hreopedune):マーシア国内の街。現在のダービー (Derby) の南あたり。トークシーから南西に100km 程度ありますが、トレント川で繋がっているようです。
▼同 (抜粋)、レプトンの越冬キャンプの予想図がチラっと映ります。(長い方、31:00~のあたり)
[Rev.4 追記] このキャンプ場は規模が小さすぎるとの意見もあり、2018年にレプトンの東 3kmの地域 フォアマーク (Foremark) で新たにヴァイキングの居住区らしきものが見つかったので、こちらがメインだったのではという記事 (英語) あり。
▼ [Rev.4 追記] 上記のフォアマークの記事の元になっている 2019年の番組 (英語、北米版リージョン1 のDVD、動画は見れませんが書き起こしがある公式ページ) も、レプトンを中心にトークシー、フォアマーク、ビルカの女戦士なども触れて面白かったです。
・バーグレッド王:マーシア王。エセルウルフ王の娘 (アルフレッドの姉) エセルスウィス ( Æthelswith) と結婚したり、ウェールズ人討伐にウェセックスの援護を要請したりしていた人。ヴァイキングに追われて国外脱出した際に、妻のエセルスウィスも同行したと思われます。A.D. 816年の項参照。
・イングランド民学校 (Angelcynnes scole):ローマにイネ王 (またはオッファ王) が建てた、イングランド民向けの施設「スコラ・サクソナム (Schola Saxonum)」。現在の ローマのヴァチカン近くのサント・スピリト・イン・サッシア教会 (Church Santo Spirito in Sassia) の場所にあった。
・サンクタ・マリア教会 (Sancta Marian):スコラ・サクソナム内にあった聖マリア教会。
・ケオルウルフ (2世) (Ceolwulf II):(在位874~879年/883年頃?) ここではヴァイキングの傀儡でただのセイン (王付きの家来など。貴族ランク) 出身、と書かれていますが、実際は王族の家系で、ウェセックスのアルフレッド王とも同盟を結んでいた、ある程度影響力のある王だったようです。
※ マーシア公エセルレッド (アルフレッドの娘・エセルフレッド (Æthelflæd) の夫) が、ケオルウルフの息子だった節をどこかで見かけた気がするのですが、幻覚だったかもしれません。一応残しておきます (2020/1/1訂正)
(ASCはウェセックス目線で書かれているので、他国については雑。)
<余談>
2015年にワトリントン (Watlington) で見つかった財宝(下記)や 2019年にダラム近郊で見つかった財宝 (記事、英語) にはアルフレッド銘のコインと並んでケオルウルフ銘のコインも混ざっており、上記の見解を裏付けています。
▼ワトリントンの町立図書館に飾ってある 2015年に発掘された財宝 (hoard) のレプリカと、地元紙の記事。コインの説明に「アルフレッド」と「ケオルウルフ II」が見えます。2018年撮影。
▼こちらはアシュモリアン博物館(オクスフォード)に展示してある、財宝の実物 (本物)。オークションにかけられて個人蒐集家に散逸しそうだったところ、アシュモリアンがまとめて購入して収蔵しました。(訳者は購入のための募金に非常に僅かですが課金したので、感慨深い。)
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A.D. 875* (ヴァイキング軍、別行動)
この年、異教徒軍がレプトンから撤収した。
ハーフダンがその一部を率いてノーサンブリアに向かい、タイン河畔*に冬期の居住地を構えた。
(ハーフダンの) 軍勢はその後、その地を支配し、ピクト人*とストラスクライドのブリトン人*の地を侵略した。
一方、グスルム*、オスキテル*、およびアンウィンド*の3人の王は、大軍を率いてレプトンからケンブリッジに移動し、その地に1年間居座った。
この夏、アルフレッド王は軍船*で海に出船し、7隻の敵船* と戦い、1隻を捕獲して、残りは逃げるに任せた。
<*訳注>
・875年:B本は876年。874~875年頃?
・タイン河 (river Tine/ Tyne):北東部のニューカッスル市 (New Castle Upon Tyne) あたりを流域に持つ河。東西に流域が広い。越冬キャンプ地がどこかは未確認です。
▼これは多分電車から撮ったニューカッスルのタイン河。2011年
・ピクト人 (Picts):現在のスコットランド北部の先住民。
・ストラスクライドのブリトン人(Strathclydwallians/ Stræcledwalas):原文は「ストラスクライドのウェールズ人」。(ウェールズ人=ブリトン人。)
ストラスクライド (Strathclyde) は、現在のスコットランド南部あたりの、ブリトン人の王国。
・グスルム (Guthrum/ Godrum/ Guthram etc):ここでいきなり名前が出てきますが、グスルムが来ブリテンした時期は、865年あたりのサネット島からいた説と、871年の「サマー・アーミー」で来た説など、まちまち。
オスキテル (Oskytel/ Oscytel)、アンウィンド (Anwind/ Anwynd/ Anwend) と合わせて「3人の王 (cyningas)」と書かれていますが、ランクとしてはヤール (Jarl/ earl) くらい。
・軍船 (sciphere):武装した船。海戦に弱いアングロサクソン軍でしたが、アルフレッドが軍船を作らせて勝利した記念すべき回。<訂正>
古めの文献で「アルフレッド王がロイヤル・ネイヴィー (英国海軍) を設立した」という文言を時々見かける件、この軍船のことかと勘違いしていましたが、多分 896年のロングシップ艦隊 建造の方を指してますね。すみません。(ここにあった余談は 896年の方に移動させました。)
・敵船 (ship-rover, sciphlæstas):原文には「敵」とはありませんが、「武装した者達の乗った船」で、ヴァイキング達の船なので、意訳しました。
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A.D. 876* (グスルムのウェアラム籠城と協定破り、ハーフダンのノーサンブリア農協)
この年、ロロが軍を率いてノルマンディーを征服*し、50年間統治した。
またこの年、異教徒軍が、ウェスト・サクソンの砦・ウェアラム*に侵入した。
その後*、王は彼等と和平を結んだ*。
異教徒軍は、軍勢の中で最も重要な者達を捕虜として差し出し、聖なる腕輪に賭けて、すみやかに彼 (アルフレッド) の王国から出ていくことを誓ったが、これは今までどの国でも行われなかったことである。
にも関わらず、彼等の中で馬のある者達が、夜中に砦を抜け出し、エクセター* に向かった。
同年、ハーフダンがノーサンブリアの土地を分割し、(異教徒民が) 耕作を始められるようにした*。
<*訳注>
・876年: 877年?
・ロロ (Rolla/ Rollo/ Rou/Hrólfr) のノルマンディー征服:この項はA本、B本にはなく、F本の記述。876年の項の最後に記載されているバージョンもあるようです。886年の項 (パリ包囲戦の余談) も参照。
彼が初代となるノルマンディー家 (House of Norman、ノルマン朝) が、アルフレッド王および孫のアセルスタンが「統一」したアングロ-サクソン・イングランドを、1066年に征服 (「ノルマンの征服/ Norman Conquest」) することになるので、追記されているのではないかと思います。
ドラマ「ヴァイキング」(2013~) では主人公・ラグナルの兄として設定されています。※40年違いで 2回の「パリ包囲戦」にそれぞれ参加している。
・ウェアラム (Wareham):ドーセット州のプール湾 (Poole Harbour) に近い、フローム川 (River Frome) に接する街。ローマ時代からある。
「砦」(fortress) の名残りの土塁が現在もあり、街の一部を囲っています。
▼フローム川の船着き場 (Quay)。2011年7月
▼「砦」(城塞都市) の土塁の名残り。砦と言っても当時は石垣でガチガチ固めたものではなく、土塁や木の塀などで囲った感じ。
堤防のような高さで、町民の散歩道になっていました。また、この付近の地名 (住所) にも「North Wall」などの名残りがあります。
・その後:かなり省略されていますが、この時しばらく籠城していたグスルム達は、街の中の尼僧院を拠点としてたようですが、物資不足などで降参したと思われます。
▼尼僧院のあった場所にあるホテル、その名も「The Priory」(修道院) 。
街の中でも南端の、フローム川に近い場所にあります。建物は16世紀頃のカントリー・ハウス。何か話を聞けるかと恐る恐る闖入してみましたが、9世紀についてはあまり資料がないようでした。2018年秋撮影
・和平を結んだ:上納金 (Danegeld) を払って立ち退いていただいた。
・エクセター (Exeter/ Escanceaster):デヴォン郡の都市。ウェアラムから西に120kmくらい。遠い。
・耕作を始められるようにした:土地を分譲して耕作(鋤/犂で耕す)を始め、本格的に腰を据える様子。1番堅実に定住ムーブしてるっぽいハーフダン。
<余談:ウェアラムのロレンス>
ウェアラムには他にも St Martins Church という由緒ある小さな教会があり、中に何故かアラビアのロレンスのエフィジー(tomb effigy, 墓棺像)があります。狭い教会内にかなりの存在感。
(死因のバイク事故の現場はウェアラムからそう遠くない場所。)
※遺骨は別の町 (Moreton) の、ロレンス家の墓に埋葬されています。
St Martins教会は通常は鍵がかかっているので、商店街の紳士服屋さんに借りに行くと貸してくれます。(見学が終わったらすぐに返しましょう)
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(下記、876年と重複のため省略)
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A.D. 877* (スウォネイジの大海難とエクセター条約)
この年、異教徒軍はウェアラムからエクセターに移動した。
彼等の船は西に向かうために帆走していたが、海上で大嵐に遭い、120隻の船がスワンウィック* で沈没した。
一方、アルフレッド王は軍を率いて例の騎馬勢*を馬で追い駆け、はるばるエクセターまで追ったが、彼等 [訳注:上記の騎馬勢] が城壁の中に到達する前に追いつくことは叶わなかった。城壁*の中に入られると、もう攻撃は出来なかった。
エクセターで彼等は、アルフレッドの要求通り*の人数の捕虜を差し出し、固い友好条約を守るという厳格な誓いを立てた。
収穫期の頃、異教徒軍はマーシアに移動し、その [領土の] 一部を彼等の間で分け、一部分はケオルウルフ*に与えた。
<*訳注>
・877年:878年?
・スワンウィック (Swanwich/ Swanawic):現在のスウォネイジ (Swanage)。プール湾の奥にあるウェアラムから船でエクセターに行くには、湾を出てPurbeck Hills という丘陵地帯を回り込む必要がありますが、途中にあるスウォネイジの沖合で大シケに遭い、Peveril Point という岩場に叩きつけられたようです。(槍か何かの鉄器が見つかったとか何とか)
▼ウェアラムとスワンウィック(スウォネイジ)の位置関係。
▼遠景の岬の先端が Peveril Point。現地にも記念碑があるようですが、手前の海岸(海水浴場)にも何故か記念碑的なものが立っています。2018年。
・騎馬勢:前項で先行してウェアラムから馬で抜け出したデイン勢。
・城壁:ウェアラムの土塁と異なり、エクセターの城壁はローマ時代からの石積みの壁。
・アルフレッドの要求通り:エクセターで何があったか不明ですが、デイン勢は再び籠城したものの、ウェアラム同様に降参した?ようです。
・ケオルウルフ (2世) (Ceolwulf II):874年の項参照。マーシアに戻ったデイン軍は自分達で領地を分け、おこぼれをケオルウルフにあげた。
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A.D. 878* (ヴァイキングのクリスマス・レイド、アルフレッドの逃亡生活、キュンウィットの戦い、エディントンの戦い、グスルムの洗礼)
この年、冬至の時期の十二夜*の後、異教徒軍がチッペナムに奇襲*をかけ、ウェスト・サクソンの地を征服し、その地に居座り、多くの人々を海外に追い出した。
異教徒勢は、残った者達の大半を屈服させ、意に反して服従するように強いた―― アルフレッド王を除いては。
彼は、わずかな手勢と共に、困難の中、林間を抜けて湿地の中の要害に向かった。
同年の冬、イングヴァールとハーフダンの (訳注: もう1人の) 兄弟* が、ウェセックスのデヴォンシャー* に 23隻の船を率いて上陸したが、彼の 800人の兵士と 40人の近衛*と共に、その地で討ち取られた。この時、彼等が「レイヴン*」と呼ぶ軍旗も獲得した。
この後のイースターに、アルフレッド王はそのわずかな兵と共に、アセルニー* に砦を築き、ここを拠点として、サマセットシャーの特に近傍の地域の者達* の助けを得ながら、襲撃を行った。
そしてイースターから 7週間後、彼は馬に乗ってセルウッドの森の東側のエグバートストーン*に行き、その場所で、サマセットシャー、ウィルトシャー、ハンプシャーの海のこちら側の地域* の者達のすべてと落ち合った。彼等はアルフレッド王の姿を見て歓喜した。
翌日、彼はこの待機場所からイグリー* へ向かい、更に翌日、エサンデュン (ヘディントン)* へと軍を進めた。
この場所で彼は異教徒の全軍と戦い、退却させ、馬を駆ってそれを追い駆けてはるばる砦まで追い詰めた*。彼はそこに 14日間とどまった。
その後、異教徒軍は捕虜を差し出し、アルフレッドの王国から出ていく旨の多くの誓いを立てた。
また彼等は、彼等の王が洗礼を受けると伝え、その通りに対応した。すなわち、3週間後、グスルム王が、異教徒軍の重鎮 30人の立ち合いの下、アセルニーの近くのアラー* に於いて、アルフレッドのもとに参上した。この時、アルフレッド王が洗礼の後見人*となった。
彼 [グスルム] のクリズム外し* はウェドモア* で行われた。彼はそこでアルフレッド王と 12日間過ごし、アルフレッドは彼とその立会人に多くの贈り物を与えた。
・878年:879年?
・冬至の時期 (midwinter):冬至 (midwinter) については 827年の項参照。冬至~クリスマス(ユール)的な時期。
・十二夜 (Twelfth Night): エピファニー・イブ、1月 5日。あるいはエピファニー当日。
エピファニー (公現節) は東方の 3博士 (3 Kings/Magi) がイエスを訪れた日で、12月25日から数えた「クリスマスの12日 (Twelve Days of Christmas)」の12日目、通常は 1月 6日 (または 5日) で、十二夜はその前日。
特にイギリスでは、この当時はどうだったか未確認ですが、十二夜には「ママーズ (mummer's play)」という独特の無言劇 をしたり、「ワッセイル (wassail)」というホット・アップルサイダーを飲んだりする、まぁまぁ特別な日だったようです。(シェイクスピアもネタにするくらいには)
とにかく酔っぱらって油断してたと思われる。
<余談>
アルフレッド王の誕生の地・ウォンティジでは、毎年ボクシング・デー(12/26日頃) に街のマーケット・プレイスの横の路上でこのママーズを行っており、アルフレッド王っぽいキャラが無理やり登場するようです。
・チッペナム (Chippenham) に奇襲:チッペナムはウェセックス王家のヴィラ (館) がある所。853年にアルフレッドの姉エセルスウィスの結婚式が行われたりした。
この奇襲を逃れたアルフレッドは身を隠し、ゲリラ戦に転じるのであった...!! アセルニー伝説の始まりである!! (※訳者の個人的コメントです)
・困難の中、林間を抜けて湿地の中の要害に向かった:「(身を隠せる) 森 (woods/ wudum) を通り、「湿地 (ムーア)に守られた天然の要害 (morfæstenum) へ、苦労しながら向かった」というような意味。この要害が、後述のアセルニーのあたり。
・イングヴァールとハーフダンの兄弟:この2人とは別の、兄か弟。フッバ(ウッバ) と言われている。
※「イングヴァールの兄弟 (フッバ?) と、ハーフダン」という読み方も出来るようですが、前後関係的にハーフダンは除外。
・デヴォンシャー:ウェセックスの南西部、コーンウォールの東の地域。
この戦いが「キュンウィットの戦い / Battle of Cynwit (Cynuit)」で、アッサーの「Life of King Alfred」に詳しい。
キュンウィット (キンウィット?) の場所は不明ですが、デヴォン北部のブリストル海峡に面した Countisbury (Wind Hill) 説や、サマセットのCannington Camp 説があるようです。
※後者の Cannington Campは現在のデヴォンシャーではないですが、アッサーが「自分もこの目で確かめた」というCynuit の地形が「東側以外は安全」な場所であり、当時の海岸線的に可能性はありそうな場所。
・彼の 800人の兵士と 40人の近衛:英訳によっては「840人」とまとめていますが、".dccc. monna mid him. (800 men with him)" と ".xl. monna his heres (40 men his army/cavalry)" に分けてあり、 "here" には「軍勢 (army)」の他に特定の兵士ランク (騎兵など) があるようですので、このようにしました。
・レイヴン (Raven/ Hręfn):有名なヴァイキングの大鴉の旗。※この記述はA本には無いようです。
・アセルニー (Athelney/ Æþelingaeigge):サマセットシャーのブリッジウォーター (Bridge Water) の南東にある沼地の中にある島 (丘)。「アセルニー」は「王子 (Atheling) の島 (-ney) 」の意。
現在は灌漑が進んでおり、牧草地や畑になっていますが、地形は残っています。
▼アセルニーにあるアルフレッド王のモニュメント (ヴィクトリア時代)。少し小高くなっている。※アセルニー農場 (Athelney Farm) という私有地の中にあり、案内板などが出ています。牛の落とし物に注意。
▼このモニュメントから 1kmくらい西に行った Lyng 村のSt Bartholomew教会に、アルフレッド王のステンドグラスがあります。2011年
▼なおモニュメントから 2kmくらい北東のBurrowbridge村には Burrow Mumpというぽっこりした小山があり、頂上に 15世紀頃の教会の廃墟があります。見晴らしも大変よいです。
▼Burrow Mumpのふもと近くにあるパブ、King Alfred Inn。
(この写真は 2011年なので旧名の The King Alfred )
・近傍の地域の者達:エセルウォード版クロニクルには、サマセット州公エセルノス (Ethelnoth) の名前が挙がっています。
・エグバートスタン (Ecgbryhtes-stane):英訳文では Brixton となっていますが、原文に合わせました。
「エグバートスタン」=「エグバートの石」には、アルフレッドの祖父のエグバート王を記念する石があったらしいですが、場所は不明。
推定場所としては、英訳のように、Brixton Deverill 説 (近くの St Mary's Church にあれこれがあるらしい) や、Kingsettle Hill (後年のアルフレッド・マニアが建てた塔がある) など。
▼「エグバートの石」の推定場所の一つ Kingsettle Hill に立つ、King Alfred's Tower。 2018年
・ハンプシャーの海のこちら側の地域 (that part of Hampshire which is on this side of the sea):アッサーのLoKAではこのハンプシャー民を「ヴァイキングを恐れて海外へ逃げなかった者達」と書き、Keyne & Lapidgeはこの「海」をサウザンプトン水道と推察して、その西側のハンプシャー民と提案していますが、よくわかりません。 あるいはハンプシャーの「海の向こう側」にはワイト島があるので、ワイト島民を除いたエリア、という意味でしょうか。とにかくハンプシャーの一部の人達。
・イグリー (Iglea/ Aecglea):英訳には「Hey」とありますが、原文に合わせました。アッサーの LoKA には「Aecglea」とあり、「Iley Oak」という場所があったようですが、現在は不明。
エグバート・ストーンとこの後の決戦場・エサンデュン(エディントン)の間に位置するどこかなので、Warminster/ Bishopstrow 周辺の Southleigh Wood 説、Eastleigh Woods 説 などがあるようです。
・イサンデュン/ヘディントン( Eþandune /Heddington):ウィルトシャーのエディントン村、またはその西の丘 Bratton Camp。
アルフレッドvsデインの関ヶ原、「エディントン/イサンデュンの戦い (Battle of Edington/Ethandune)」の場所。(場所が特定できていなかった頃は「イサンデュンの戦い」で通っていたので、どちらでも可)
▼ Bratton Camp (Bratton Castle) は鉄器時代の山城があった場所。チョーク層を利用した白馬が描かれており、いくつかあるホワイト・ホースの中でも古いものの一つだが、18世紀以前の記録が残っていないらしい。
現在の形は19世紀頃に修復され、戦後に補強されたもの。
▼Bratton Camp の片隅にひっそりとある、「エサンデュンの戦い」の記念碑。2010年建立。(写真は2018年)
・砦まで追い詰め:この「砦 (fortress)」はおそらくチッペナム。エディントンから 25km程度。このあたりはアッサーの LoKAに詳しい。
▼Bratton Campから北の平野(チッペナム方向)を見た様子。
・アラー (Aller):アセルニー島から東に3kmくらいの村。
・洗礼の後見人となった:アルフレッドがグスルムのゴッドファーザーとなりました。グスルムの洗礼名は「アセルスタン」。アルフレッドの 1番上の兄 (故人) と同じ。
・クリズム外し (chrism (chrisom?) -loosing) :クリズム (chrism) は洗礼の時に額に塗る聖油、またはクリズン (chrisom) であれば洗礼の時に額にかける布。
洗礼で塗った油をこすり取らないように、しばらく布切れを当てておくらしく (日本の幽霊のアレをご想像ください)、それを外す儀式のようです。
※この儀式の正式な日本語名称はわからなかったので、直訳です。
なおエセルウォード版のクロニクルによると、この時、サマセットの州公エセルノス (Eethelnoth/ æþelnoþ) も、このウェドモアにおける儀式でグスルムを洗礼/浄化 ("purify", 英訳版) した、とあります。
・ウェドモア (Wedmore/Weþmor):アラーから更に 20km北の村。この時のアルフレッドとグスルムの和平協定 (Treaty of Wedmore) がここで締結されたとされている。
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!!! 879年以降は別ページに移動しました。!!!
※しばらくは下記に 879~886年の一部を残しておきますが、別ページの方が更新されていますので、そちらをご覧ください。
<<以下、2020/11/1以降の加筆修正が適用されていません)>>
A.D. 879* (サイレンセスターとフラムに居座るヴァイキング、日蝕)
この年、異教徒軍はチッペナムからサイレンセスター* に移動し、そこに丸一年居座った。
同年、海賊 (ヴァイキング)* が集まって一つのグループを作り、テムズ川沿いのフラム* に居座った。
同年、日中に 1時間の日蝕があった。
<*訳注>
・879年:880年?
・サイレンセスター (Cirencester/Cirenceastre):チッペナムから北東へ 20km程度の街。
・海賊 (ヴァイキング) (pirates/wicing):ここで初めて、異教徒/デイン勢に対して「ヴァイキング (wicing)」=海賊 (pirates/sea-robbers) の単語が使われている(と思います)。
※「wicing」(wicengと誤記あり)は、当時の発音だと「ヴィッキング」とかそんな感じっぽいはず。
・フラム (Fulham/Fullanhamme ):現在のロンドンの南西部にある区域。当時はロンドンの外。当時の「ロンドン」は"Lundenburg"、現在の「シティ」エリアあたりのみ。 (851年の項参照)
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A.D. 880* (ヴァイキング:イーストアングリア定住派と海外渡航派)
この年、異教徒軍はサイレンセスターからイースト・アングリアに移動して定住し、土地を分け合った*。
同年、フラムに居座っていた異教徒軍が海を渡ってフランク王国のゲント*に行き、そこに 1年間居座った。
<*訳注>
・880年:879/881年?882年?
・イースト・アングリアに定住~:878年の項で洗礼を受けて「アセルスタン」に改名したグスルムが、和平協定を守り、このイースト・アングリアの定住ムーブでしばらく大人しくします。
・フランク王国のゲント (Ghent/Gent):現在のベルギーのヘント。851年にもヴァイキングに襲われている。
この時の渡航グループのリーダーが。フリースランド公となったゴドフリッド (Godfrid/ Gottfrid/ Guðfrið) 、という説が Wikipedia (EN) にありますが、元ネタの信憑性は未確認。
[2020/10/31 追記] ヘントはこの当時は西フランク王国領内。国王は ルイ 3世、または 882年 8月以降なら カルロマン 2世。885年の項参照。
なお、フランク王国内のヴァイキングの動向の資料は、ASCより後の 10世紀にフランスで書かれた「Annals of St-Vaast (Annales Vedastini)」("聖ヴァースト年代記") などがあるようです。(参考記事 (英語))
<余談>
当時のフランク王国は(843~855年に存在した中部フランク (Middle Francia) が消えて)おおまかに西フランクと東フランクの東西連立。
西フランク王国は880~882年の間は 南北に分割統治 されていたが、882年にカルロマン 2世の下に再統一され、更に 884年12月~887年 は シャルル/カール 3世 (Charles/Karl III, Charles the Fat, シャルル肥満王) が東フランク・西フランク王国の両方の王となっている。
**********************************
A.D. 881 (フランク王国に食い込む海外ヴァイキング)
この年、異教徒軍はフランク王国のさらに内部まで進み、フランク人はこれに対抗して戦った*。
戦いの後、異教徒軍は馬を得て配備*した。
<*訳注>
・フランク人はこれに対抗して戦った:あちこちで戦いの記録があり、同じ「異教徒軍」が関与しているのか、元々ヨーロッパ大陸で動いていたヴァイキングのグループによるものか、未確認ですが、例として:
▶ ティメオンの戦い(Battle of Thiméon).... 880年、東フランク王国のCharlesroi 近くの村、ティメオン (現ベルギー国内)において、ヴァイキング vs 東フランクのルイ若年王 (Louis the Younger/ Louis III/ Ludwig III) &シャルル肥満王 (Charles the Fat) の兄弟が戦った。フランク軍勝利。
▶スークールの戦い (Battle of Saucourt-en-Vimeu) .... 881年、西フランク王国の ソンム川 (884年の項参照) 近くの村 オーシャンクール (Ochancourt、現フランス国内) において、ヴァイキングvs ルイ 3世(西フランク王国北部の王、東フランクのルイ 3世とは別)&カルロマン2世の兄弟が戦った。フランク軍が勝利。
・馬を得て配備:フランク人に勝って奪ったのか、他から手配したのか、未確認です。
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A.D. 882* (ミューズ川を遡上する海外ヴァイキング、アルフレッド王の海戦その2)
この年、異教徒軍はミューズ川* に沿って更にフランク王国のかなり内部まで入り込み、そこに 1年居座った。
同年、アルフレッド王は船で海に出陣*し、デイン人の武装船 4隻と戦って、その内の 2隻を拿捕した。その船に乗っていた者達は全員討ち取られた。
残りの 2隻は降参したが、乗っていた者達は、降参の前にすでにかなり痛めつけられ、重傷を負っていた。
<*訳注>
・882年:883年?
・ミューズ川 (Meuse/ Maese/ Mæse):現在の河口部のオランダでは「マース」川、源流のフランスでは「ムーズ」川。ベルギーのリエージュあたりを通り、ほぼ南北方向に伸びている。
・船で海に出陣:2回目。1回目は875年。
**********************************
A.D. 883* (コンデに落ち着く海外ヴァイキング、ローマとインドに貢物を送るアルフレッド)
この年、異教徒軍はシェルト川* を上ってコンデ* まで行き、そこで 1年過ごした。
また*、教皇マリヌス* からアルフレッド王に、「神の木 (lignum Domini)*」が送られた。
同年、シゲルムとアセルスタン*をローマに派遣し、アルフレッドからの寄進の供物* を持参した。また、インド*の 聖トマス教会と聖バーソロミュー教会* にも同様に送った。これらは*、ロンドンで異教徒軍に対峙した際に、王が寄進を送ることを誓ったものであり、神のご加護により、彼等は、誓いを立てると、その祈りの内容を大いに得たのだった。
<*訳注>
・883年:882年 (Annals of St. Vaast)、884/885年?
・シュルト川 (Scheldt/Scald):スヘルデ (スケルド) 川。上流のフランスでは「エスコー (Escaut)」 川。882年の項でうろうろしていたミューズ (マース) 川よりも 海(西)側を、ほぼ平行して流れている。
スヘルデ川、マース川、ライン川 (オランダ部分は ワール/Waal川) の三川で、オランダの大デルタ地帯を形成。河口近くまで行ったか、途中で西側へ移動したのか。
・コンデ (Conde/ Cundoþ):現在のフランスの街、コンデ-シュル-レスコー (Condé-sur-l'Escaut)。現在のベルギーとの国境に接する。ここも西フランク王国領内。
・「また、~」:これ以降の記述は、A本にはないようです。
・教皇マリヌス (Marinus I ):マリヌス 1世。在位882~884年。885年の項に詳細あり。アングロサクソン民に優しい、いい人。※885年の項の英訳文では「Martin」と誤記されています。
・神の木 (lignum Domini) (リーニニュム・ドミニ):直訳は「主の木」(Wood of the Lord)。下記 885年の項に説明がありますが、キリストが磔刑にされた十字架、いわゆる聖十字架 (True Cross) の一部を、本物かどうか非常に怪しいですが、ありがた~いカケラとしてプレゼントしてくださったようです。アルフレッド大感激 (多分)。なおアッサーによると「小さいカケラではなく」だったそうです。
<メモ> lignumの通常のラテン語発音はリグニュム/リグニュー寄りで、教会ラテン語はリーニ(ュ)ニュム?
この「lignum Domini」という言い回しはASCのこの部分以外にはあまり見かけないっぽい。
・シゲルム (Sihelm/Sihelm) とアセルスタン (Athelstan/Æþelstan):
またアセルスタン出てきた。グスルムともアルフレッドの長兄とも関係のない、別のアセルスタン。アセルスタン多すぎ。
・寄進の供物 (alms/ ælmessan):原文の alms は、貧しい者達への施しもの/寄付の意。
・インド (India):いきなりインドが出てきてビビりますが、12使徒の聖トマスと聖バーソロミュー (バルトロマイ) の伝説/逸話にはインドに布教に行ったというバージョンがあり、特にトマスはインドで死んだことになっているので、教会が建っていたようです。
また、使徒トマスが到達したのが現在のインド南西部のケララ州のあたりで、ここはローマとのスパイス貿易ルートの起点になっており、アルフレッドのお使いの2人も、この確立されたルートでインドまで行ったとの考察などがあるようです。(または「インド」は漠然とした語で、東方地域のどこか(別の地域) の可能性、など。)
なお、参考にしているWikisource上の古英語原文 (B本) では「Iudea」(=Judea/ジュデア、ローマ帝国時代のユダヤ州、現在のエルサレム周辺の「西岸地区(West Bank)」 のあたり) と誤記されているのですが、単に誤記なのか、インド訪問そのものが後付けなのか、よくわかりません。
・聖トマス教会 (Sancte Thome):インドでトマスは「聖トマスの七つの教会 (Seven Churches/ Ezhara Pallikal) 」を建てたと言われており、その内のどれかか全部と思われます。
・聖バーソロミュー教会 (Sancte Bartholomeæ):ムンバイのあたりで布教したようなので、そのへんに教会があったんでは。
・「これらは~」:これ以降の文章の英訳 (参考:古英語原文 B本)の解釈がまちまちなので、自分の読解力不足で確定できずアレですが、例をいくつか列記しておきます:
a) シゲルドとアセルスタンがローマ・インドに寄進物を届けた後、ロンドンで異教徒軍と対峙したが、彼等が「誓い (ローマ・インドへの寄進?)」を果たした後だったので、神のご加護により、上手く行った。(上記に引用されている英訳文。筋が通らない気がしますが、原文通りなのかも)
b) 上記の日本語訳に同じ (翻訳元はGiles 1914版の英訳文)=アルフレッドがロンドンで寄進の誓いを立てたので、祈り (異教徒軍との戦いに打ち勝つ?) が叶った? ※後半の主語が「彼等」になっているのがよくわかりません。誤訳してたらすみません。
c) 上記の日本語訳にほぼ同じ、ただし「神のご加護」は、首尾よく誓いを果たす (ローマ・インドの寄進旅) 事が出来た、にかかる。(大沢一雄 訳「アングロ・サクソン年代記」※「E写本の記述」との事)
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A.D. 884* (アミアンに引っ越す海外ヴァイキング)
この年、異教徒軍はソンム川* に沿ってアミアン* まで行き、そこで 1年過ごした。
この年*、慈悲に満ちた司教アセルウォルド* が死去した。
<*訳注>
・884年:882~883年 (St Vaast)、885年(B本)
・ソンム川 (Somme/ Sunnan):現在のフランス北部を東西に流れる川。
・アミアン (Amiens/Embenum):ソンム川沿いの街。前年にいたコンデからは直線で南西に 120kmくらい。西フランク王国。
コンデからアミアンにまっすぐ行ったかと思ったら、ベルギー (フランダース) の方に戻って海沿いにつまみ食いしながら夏を過ごして、海からソンム川を遡上してアミアンに行ったっぽい。(St-Vaast, 883) やはり基本的に船で移動する民。
・この年~:この一文は F本の記載で、後年加えられた誤記。
・司教アセルウォルド (Athelwold/ Æthelwold):ウィンチェスター司教。没年は884年ではなく 984年。
▼異教徒軍のA.D. 880~884年のフランク王国内の動きをおおまかにメモ。
【注意】881~882年の位置は不明、ルートも非常に適当な推測です。東西フランク王国の国境は反映されていません。
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A.D. 885* (ロチェスター包囲戦、アルフレッドの海戦 3&4、西フランク国王カルロマン2世の死)
この年、前述の異教徒軍* が 2グループに分裂し、片方は東*に向かい、もう片方はロチェスターに向かった。
彼等はこの街を包囲し、彼等自身の周囲にも別の砦を作った。しかし人々は、アルフレッド王が軍を率いて到着するまで、街を守り抜いた。
すると敵軍は自分達の船に向かい、作った砦も放棄した。その場所で彼等は馬も奪われ*、その後間もなく同じ夏に* 海の向こうに去った。
同年、アルフレッド王はケントからイースト・アングリアに向けて、軍船 1隻を出航させた。
スタワ川の河口* に来かかるとすぐに、16隻の海賊達の船* に遭遇した。彼等ははこれと戦ってすべての船を拿捕し、乗っていた敵勢を殺した。
同日、彼等が戦利品と共に帰航していると、大型の海賊船*と遭遇し、これと戦ったが、デイン勢* が勝利した。
同年、冬至期間の前に、フランクの王、チャールズ (1) [訳注: カルロマンII] が死去した。彼はイノシシに殺されたのだった。この 1年前には、同じく西フランク王国の王であった 彼の兄* [訳注: ルイIII] が死去した。
彼等は、同じく西フランク王国を支配し、日蝕があった年* に死んだルイ(1)* [訳注: ルイII ] の息子達であった。彼は、ウェセックス王・エセルウルフがその娘を妻* とした、シャルル* の息子であった。
同年、大船団*が終結してオールド・サクソン人* に対峙し、1年の内に大きな戦いが 2回あったが、フリース人* がこれに加勢し、サクソン人が勝利した。
同年、チャールズ (2) [訳注:シャルル肥満王] が、西フランク王国*、および地中海* のこちら側のすべての地域、かつこの海の向こう側の地域* を、彼の曽祖父* が統治したごとく、但しブルターニュ*を除いて、継承した。
このチャールズは、ウェスト・サクソンの王エセルウルフが結婚したジュディスの父であるシャルル ["禿頭王"] の、その兄弟であるルイ(2)* [訳注: "ドイツ人王"] の息子であった。彼等は ルイ(3)* [訳注: "敬虔王”] の息子であり、このルイは大シャルル*の息子であり、大シャルルは ピピン* [訳注: "短王"]の息子であった。
同年、善良なる教皇マリヌス* が死去した。彼は、ウェスト・サクソンの王アルフレッドの請願に応じて、イングランド国民学校を無税* とし、また、素晴らしい贈り物を、そして* キリストが受難した十字架の一部* を、アルフレッドに贈った。
同年、イースト・アングリアにいた異教徒軍*が、アルフレッド王との和平*を破った。
<*訳注>
・885年:884年?(教皇マリヌス没年他)、886年 (B本)。
・前述の異教徒軍:フランク王国に行った海外グループ。フランク王国内で東に行ったチームと、イングランドに戻ってきたチーム?
・東に向かい:このチームの事かどうかわかりませんが、885年頃にヴァイキング勢がアミアンの南東のランス (Rheims/ Reims) に行った記録など (St. Vaas) があるようです。
・ロチェスター (Rochester/ Hrofesceastre) :839年にも襲撃されている。テムズ河口の手前の、海に近い街なので、海外からプッと戻ってきて攻撃するにはアクセスのよい場所。ローマ帝国時代に、街の周囲に石の城壁が築かれた。
・馬も奪われ (behorsode):上記に引用の英訳文には「provided with horses」(馬を供給され) とありますが、原文や状況から、Giles 1914版の英訳 ("deprived of horses") に依りました。
<メモ> 古英語原文の "behorsode" (behorsian, i.e. deprive of horse, 馬を奪う) の解釈違いか、写本ミスか。OE: "hie wurdon þær behorsode" : "them/ perished/ there/ deprive of horse." ⇔「馬を得る」は"gehorsod" (hoursed, mounted).
・同じ夏に (in the same summer):Giles 1914版 (wikisource) では "in that same manner” (同じように) になっており、誤記か、Wikisourceの OCRミスか、写本のバリエーションか不明ですが、原文から「同じ夏」としました。
・スタワ川の河口 (Stourmouth/ Stufe muþan):イースト・アングリアの中部、イプスウィッチ (Ipswich) の南あたり。
※スタワ (Stour) 川は他にも何本かある。ケントのサネット島とサンドウィッチの間 (851年参照) など。
・海賊達の船 (ship of pirates/ scipu wicenga): ここでも「ヴァイキング (海賊/ pirates)」表現が使われている。
・大型の海賊船:芦ノ湖名物。もとい、多分ロングシップ? こちらは「大きな (micelne)」と表現しているので、16隻はそこまで大きくなかったっぽい。
・デイン勢 (Danes/ Deniscan) :同じ「海賊」を、ここでは「デイン」と言い換え。
・チャールズ (1) (Charles, Carl/Karl):カルロマン 2世 (Carloman II)。866年頃生。西フランク王、在位 879~884年。兄のルイ 3世 (下記) と分割統治。北部が兄エリア、南部がカルロマン2世。「前年」882年に兄が死去した後は、兄の分も統合して統治していた。
「イノシシに殺された」のは、イノシシ狩りをしていて逆に野生のイノシシに殺された。享年 18歳。
(訳者も実際に東フランク王国内 (現ドイツ) でイノシシに遭遇したことありますが、山の斜面を正に猪突猛進で駆け上がっていってコワかったです)
・彼の兄弟: ルイ 3世 (Louis III of France)。863/865頃生。西フランク王、在位 879~882年。弟のカルロマン 2世 (上記) と西フランク王国を分割統治した。享年17/19歳。
女子を馬で追い駆けていて扉の上の所に頭をぶつけて落馬、頭外骨骨折で死んだらしい。兄弟仲良く並んでサン・ドニ大聖堂に安置されている。
・ルイ(1) (Louis/ Hloþwig):ルイ 2世、ルイ吃音王 (Louis II, Louis the Stammerer/ Louis le Bègue)。西フランク王、在位 877~879年。上記カルロマン2世、ルイ 3世の父。記述どおり「日蝕のあった」A.D. 879年に死去している。
・日蝕のあった年:A.D. 879年の項。
・その娘を妻とした:シャルル禿頭王 (下記)の娘、ジュディス (Judith)。アルフレッドの父王エセルウルフ、および兄王エセルバルド (Ethelbald) の妻となった。
・シャルル (Charles/ Karles):シャルル禿頭王 (Charles the Bald/ Charles II le Chauve)。上記ルイ 2世の父。854年の項参照。
・大軍船団 (great fleet/ micel sciphere):ヴァイキングの。
・オールド・サクソン人 (Old Saxonsy/ Aldseaxum):イングランドのサクソンではなく、出身地のドイツ北部のサクソン人。ザクセン。※現在のドイツのニーダーザクセン州 (Niedersachsen) のあたり。続く「サクソン人 Saxons/ Seaxan」も同じ。
・フリース人 (Frisians/ Frisan):フリジア/フリースラントの民。当時のフリジアは現在のオランダ北部とドイツ北部の、北海岸沿いの地域。
・チャールズ (2) (Charles III, Charles the Fat/ Karl III/ Carl) :シャルル/カール肥満王、カール 3世。839年生まれ。東フランク国王、在位876~887年。
上記の西フランク国王チャールズ(1) (カルロマン2世) の従兄で、カルロマンがイノシシに殺されたので、西フランク国王を兼任して継承。在位884~887。他にもカロリング帝王、イタリア王などを兼任。
・西フランク王国:「チャールズ(1)」 (カルロマン2世) が治めていた。
・地中海 (Wendel-sea/ Wendelsæ):現在の地中海全体ではなく、現在のイタリア半島の西のあたり(フランスの南)を指すっぽい。
・この海の向こう側 (beyond this sea/ begeondan þisse sæ) :「この海」が上記の地中海 (Wendel-sea)を指すのか、イングランドとヨーロッパ大陸の間の海(北海&ドーバー海峡)を指すのか未確認。
・曽祖父:シャルルマーニュ。
・ブルターニュ (Brittany/ Lidwiccium):ブルトン人(Bretons, イングランドの先住民ブリトン人と同じルーツの民)の地域。
・ルイ(2) (Louis II, Louis the German/ Ludwig II/ Hloþwig):ルイ2世 (上記のルイ2世"吃音王"とは別)、ルードヴィヒ2世、ルイ・ドイツ人王。
・ルイ (3) (Louis, Louis the Pious/ Hloþwig):ルイ敬虔王。シャルルマーニュの息子。シャルル禿頭王とルイ・ドイツ人王の父。ルイ多すぎ。
・大シャルル (the elder Charles/ aldan Carles):シャルルマーニュ。カール大帝。ルイ敬虔王の父。
・ピピン (Pepin the Short, Pipin III/ Pippen):小ピピン、ピピン短王。シャルルマーニュの父。
・教皇マリヌス (papa Marinus): 884年死去。883年の項参照。
・イングランド国民学校 (English school / Angelcynnes scole) :ローマにあるイギリス県人会のスコラ・サクソナム (Schola Saxonum)。アルフレッドの義兄のマーシア王バーグレッドが埋葬されたあそこ。
・無税とした (freed):ローマにあるので現地の税金を払っていた (詳細未確認) のを、免除された。いい人だ!
・そして:この部分、「そして」なのか「すなわち」なのか未確認。※「贈り物」が十字架のカケラのことなのか、他にもあるのか。
・十字架の一部:883年の項でアルフレッドに贈った「神の木/ lignum Domini」のこと。いい人だ...。
(そもそもローマに本物の聖十字架があったかどうか怪しく、ローマ教皇庁の商売の一部でしょうが、まぁ有難いことです。)
なお、この時頂戴した Lignum Domini (Holy Cross) は、アルフレッド王が建てたシャフツベリ・アビー (Shaftsbury Abbey) にあったらしいですが、未確認。
・イースト・アングリアにいた異教徒軍:グスルムさん (...おっとアセルスタンでしたね、アルフレッドのゴッド・チャイルドの!) のグループ。
・和平 (peace/ friþ):原文は「平和を破った」。878年の項のエディントン(エサンデュン)の戦いの後に、ウェドモアで締結した (と言われる) 和平協定。
▼アルフレッド王が888年頃に建てたシャフツベリ・アビーの跡。尼僧院で、初代修道院長はアルフレッドの娘のアセルギフ (Aethelgifu)。片隅にモダンなアルフレッド王の像 (by Andrew DuMont, 1984) があり、ささやかな資料館もあります。
ここもヘンリー8世とトマス・クロムウェルのアレで廃院されました。
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A.D. 886* (海外ヴァイキングのパリ包囲、アルフレッドのイングランド統一)
この年、その前に東に行っていた異教徒軍* が、再び西に向かい、セーヌ川*に沿って遡上し、パリの街* に冬期の居住区を据えた。
同年、アルフレッド王がロンドン*の街の守りを固め城塞化した。
また、イングランド全土が、デイン民に占領されている部分を除いて*、アルフレッド王に従った*。
その後、彼は [ロンドンの] 街を州公エセレッド* の統治に委ねた。
<*訳注>
・886年:885~886 (海外ヴァイキング動向)、887年 (B本)
・セーヌ川 (Seine/ Sigene):河口からではなく、途中で北から流れ込む オワーズ (Oise) 川を経由したようです。
※前年にいたランス (Rheims) にはエーヌ川 (Aisne) があり、川を西に下るとオワーズ川に合流する。
・パリの街 (Paris):当時のパリは、セーヌ川の中州のシテ島のみ。A本には「パリ」の記載なし? 英訳には「パリの近く」としている例もあるように、街の中には入っていない。
この時の攻防戦が、「885~886年のパリ包囲 (Siege of Paris, 855-886)」。ヴァイキング側のリーダーはシグフレッド (Sigfred/ Siegfried) と シンリック (Sinric)、および ロルフ、またの名を ロロ (Rolf/ Hrólf/ Rollon/ Rollo )。
当時のフランク国王は東西兼任のシャルル肥満王だったが、1年近く経ってから到着し、ヴァイキングに多額の和解金 (Danegeld) を払った上にセーヌ川の上流のブルゴーニュ地方の略奪を許したため、頑張って陥落を防いでいた パリ公ウード (Odo, Count of Paris) やパリ市民の反感を買いまくった。
カロリング王朝とフランスのターニングポイントとなった戦いだそうです。
<メモ>
ASCには反映されていませんが、ラグナル・ロスブロックが率いたとされる「Siege of Paris (パリ包囲)」は40年前の 845年。当時の西フランク王は シャルル(2世)禿頭王 (アルフレッドの義母ジュディスの父)。
なお、フランク王国におけるヴァイキングの最初の侵攻の記録は、シャルルマーニュ時代の 799年頃。
<余談>
ドラマ「ヴァイキング」ではパリ伯ウードとロロが ラグナルのパリ包囲戦 (845年)に登場していましたが、実際は 885年の方。国王がシャルル禿頭王 (2世) だったのは歴史通りですが、娘の設定なども大胆にアレンジされてました。おもろい。
ロロ (Hrólfr Ragnvaldsson とも) 関連では、876年の項に「ロロがノルマンディを征服した」という記述がありますが、ロロは(アイルランドやスコットランドで評判を上げた後)このノルマンディを含む西フランク北西部のニューストリア (ヌーストリー/ Neustria) 地域でヴァイキング活動をしていたようです。
で、ニューストリアの北海岸部分がノルマンディ(=Norsemenから派生) 、すなわちノルマン人 (ヴァイキング移植者) の地域で、911年にノルマンディ公国が成立し、ロロが初代ノルマンディー公に。その子孫の ウィリアムが 1066年にアングロサクソン・イングランドを征服したのでした。 ヴァイキングの血!
・ロンドン (London/ Lundenburg, Lundenburh):現在の「シティ (City)」周辺の地区。839/ 872年の項など参照。ローマ帝国時代の石壁を補修し、城壁に囲まれた街 (walled city) とした。
なお当時のロンドンの真ん中を南北に流れていたウォルブルック (Walbrook) 川は、現在は暗渠/下水道となっている。
・イングランド全土がアルフレッド王に従った:記念すべきイングランド統一!! とは言え、デイン居住地の「デインロウ」を除く不完全な形態なので、実際は「イングランド」の半分くらい。更に北のスコットランド、ウェールズ、アイルランドも除くので、ブリテン島の 1/4程度。
結局「イングランド全土」を「統一」したのは、アルフレッドの孫のアセルスタン。
・デイン民に占領されている部分を除いて:このあたりの時期に、アルフレッドとグスルムで、デイン人居住区の境界線や法律 などの正式を取り決めを行い、これが独立行政区的な「デインロウ (Danelaw)」となった(おおまかに)。
デインロウの範囲は、グスルムのイースト・アングリア、マーシアの東半分あたり、および、イングヴァール (アイヴァー) 達が攻略した後はヴァイキング勢の拠点となっている ヨーク (York/ Eoforwic, ヴァイキング的には "Jovik") 周辺のノーサンブリア。多分。
・州公エセルレッド (ealdorman Ethered/ aldormen Æþerede):ここではEthelred ではなく Ethered 表記ですが、アルフレッドの娘 エセルフレッド (Æthelflæd) の夫の、マーシア公 エセルレッド (Æthelred, Lord of Marcia) 。(アルフレッドの兄王とは別人です、念の為。)
エセルレッド公とアセルフレッドの婚姻時期はASCには記載されておらず、いきなり 887年頃のチャーター (勅命状) にエセルレッドの妻として記載があるようですが、エセルレッドが886年にロンドンを任された事からも、既にアルフレッドの義理の息子だった可能性もあります。
エセルレッド自身の出自はよく解っていませんが、アッサーのアルフレッド王の伝記の80節に、886年以前 (多分) の様子の言及があります。
▼テムズ川の Southwark Bridge 近くの Queenhithe Dock 横の通路に、アルフレッド王のロンドン再入植の1100周年を記念して 1986年にロンドン博物館等が設置した板っきれがあります。(Google Map上の位置はここ)
▼上記の記念板のすぐ手前にある、テムズ周辺の歴史を描いたモザイクタイル壁画「Queenhithe Mosaic」(2014)。
この周辺のクイーンハイス地域 (Queenhithe) は、当時は「Ethelred's Hythe /Aeðereshyð (エセルレッドの船着き場)」と呼ばれていた旨も書かれています。(三枚目の写真、モザイク壁の向こう側の部分に名残りがある。)
※ ロンドン内ウォーキング・ルート(英語) の内の「Thames Path」の一部になっており、小さな道標で示されていますので、私有地じゃないかとビクビクしつつ狭い抜け道などを辿っていくと、結構面白いです。
!!! 879年以降は別ページに移動しました。!!!
※しばらくは 879年以降の一部を残しておきますが、別ページの方が更新されていますので、そちらをご覧ください。
(このページの上記、 879~886年の項は、2020/11/1以降の追記・修正が適用されていません)