価値・畏敬・尊厳

自然と理性

理性 ratio と本性 natura の間に明確な基準は存在せず、その境界づけは価値判断に依存し、互いに対立項とはならず優劣もない。感情は natura でそこに意味を付与するのは人間理性 ratio humana であり、捉えたものに価値を付与し、判断したものが善悪や正誤。基よりすべては natura である。

例に「怒り」、その正当化の是非や表現方法は理性的な判断に依存、理性は感情を評価し、適切な行動をとるための指針を示す。その評価や基準は文化的、社会的背景や個人の経験に基づき、人により異なる。

理性と本性とを境界付ける価値判断も自然の理解度、特に動物行動学や認知生物学に影響される。動物にも理性的判断能力は認められる。


指向と反発

善くあるため、調和や自身の生のために愛や善を認識し、指向し続けることは基本的に困難と言え、そこで有意義となるのが虚無や悪といった、反対のものの意識。生きるために死を意識するといった、生に意識を向け、善の欠如 Privatio boni に陥らないための、反力を抵抗力を生むための対概念。

本来は生存に関わるような必要なもの大切なものによればよくとも、理性的な面が高度化した人間は善悪や正誤といった価値判断能力が有用、その適切な使用への試みは「望みを可能にする」ための意識を高め、それに向け、近づけることができる。そのために対すことに意義のある概念の、最上の、包摂的で本質的なものが「神」。


理性と神概念

言葉がなくとも考えることは出来、多くの動物もそのように生きている。認知は言語に必ずしも依存しない。「言葉によらなければ考えることはできない」といった、言語の重要性の過剰な評価、他の認知形態の軽視、一面的な知識に基づいた判断をするといったことは「理性に潜む悪」の一つであると言いえる。

理性やそれに含まれる価値観や価値判断は「瑕疵欠落」と共に在る、ということを「神概念」に即して立ち返り、確かめ続ける営みが善への道。捉えたものを安易に正しいと認識することには難があり、そうしたことも含めてすべて「然り」ではある。しかしそこから進み、「疑いつつ信じる」に基づいた営みが「自由度」に貢献する。

一方で他者の価値観や判断に対しては、「然り」とすることが望ましい。背景理解を欠いた助言は臆見。どのように振舞うかは其々の状況、背景に依存し捉え難い。そうしたことを考慮した上でも助言したいと感じるのであればそれも然り。無論一方的なものに関してであり、望まれる場合や傾聴によるフィードバックは有意義である。


自然な営み

「自然への合致」という観点においては、人間が価値とすること(特に資本主義的に)を特に生み出さなくとも、日々「在ることへの畏敬」を持ち、無為自然に自分の生を営むことをもって、満たされていると言える。それが理性(精神)を持った存在としての「尊厳」。

キリスト教的には「信仰のみ」でよく、それは善へ動機付け、指向づけることを可能にする。

「在る」はただ在るのみ、そこに意味も意図もない。全であって一、存在しつつ虚無。そこに特定の意味や価値を付与するのが人間。禅もその価値の認識、存在への畏敬の念や慈しみを育むための実践的な道。


そうした存在からの価値の排除は、精神的存在である人間の、その人間性の排除、尊厳の喪失、疎外にもつながり、神の否定は人間の否定ともなりえるのに対し、存在への畏敬、そこに価値を感じることは、自己の存在の受け入れ、他者や自然に対する敬意、そこに意味を見出すための重要な姿勢ともなり、人間の尊厳となる。



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