象徴と解釈
「言―真理」キリスト教の理解は、基本的に解釈学に基づく。解釈は、正しいものとして一意に導出できるものではなく、想像力を用い、柔軟に様々に行われるもの。キリスト教のテクストは表現技法をも駆使していることで、そもそも言葉通りに受け取るようなものではない、と捉えることができる。
キリスト教は真理に従い理に適う、調和した営みを善とし、それが救いである、ということを伝える。
誇張と比喩といった修辞を駆使し、理解を超えた神秘性や信仰心からの恩恵を神の顕現とし、その象徴を伝え、動揺や畏怖の念を与え、自然の恩寵を、そこからの恩恵を、壮大で理解しがたくも強く訴え、その「言―真理」への信仰を、敬虔の意識を芽生えさせ、善への営みへの道を問いかける試み。
聖書に於いて客観化される表象内容は、現象世界を理解するための本質に基づいたたとえと、その真理としての表れの記述の混合体。表象世界における顕れを示すがそのままには受け取れず、本質を受け取るためのものである。
理解のために、表象世界―現実に、どう本質が真理と顕れるか、顕れたかの記述である。特に極端に、捉え難く誇張された、響かせるための表現であり、本質―真理―自然を、その顕れをどう捉え、どう感じとることができるか、それを示し、実践に結び付けるための試み。
歴史がそういったものであるように、「真実として伝えられてきたキリスト教」がそのように存在する。「書かれ、残っている」、ということが事実である。 聖書は想像力を持ち、絶えず意味を考えながら読むもの。
歴史と異なる点は、目的が異なることである。「営まれていたこと」の記述ではなく、「どう営んでいくことが善か」、ということの提示。
歴史は「様々な視点から検討することが可能」であり、史料批判を経て構築されるものの「真理」を示すことは稀、それをもって主張や結論に導くことには慎重さが求められる。
歴史的記述の理解には、時代背景を考慮することも必要、しかし受け取り、生かし、身にし実践していくためには、時代性や地域性を超えた普遍性を抽出し、現状に適用するための、常なる解釈が必要となる。