神概念の認識とその役割

知らないこと識り得ないことを認識することが、「神(としか言い得ない自然の法則の理解)」概念の重要な役割の一つ。人間理解から理想を投影したのが神というよりは、人間学により限界と可能性を示したのが神。神認識とは、知識の限界の認識、未知の存在への尊重。原罪は「人間の限界の認識」、神と人との隔たりを表わす。

善悪は人間の価値判断であり、本来の人の属性的に扱い切れるものではない。そのためキリスト教においては聖書(自然の理解)に準じてるかどうかで判断され、イスラムにおいては「無信仰は生きるための基礎を欠く」として罪とされ尊厳は認められず、イスラムではないにしてもユダヤ教かキリスト教、何れかに基づく必要があるとされる。善悪は相対的で文化に拘束される。

自然の秩序に反することは自然の営みを妨げ、自他関係なく生命にも影響を及ぼし得、それは悪と言える。

人間は完全な存在ではなく有限であるという認識、nihil(瑕疵や欠落―虚無)を内包することをわかりやすく表現したところの「原罪」、そこは捉えなおすことが可能で、新約で罪は許されていて、許される。悔い改めることが要求され、その必要性から「告解」がある。出来なければ出来るようにすれば(方向づければ)よく、旧約もその歩み。

欠如の究極は虚無であり、そこに基づいた「悪」というものを神はなし得ない。神はすべてであって欠落はない。人間理性が「欠落ある為し」を、瑕疵ある欠陥的な行為(在るものが認識・考慮されていない一面的な間違った、自然の理に反した)を、をつまり「悪しき為し」をすることによってしか、悪は見いだされない。

「悪は意思しなければ生じない」はあくまで基礎として簡素に示されたもの、もしくはアウグスティヌスの時代での限界であり、現代ではそこに留まらず、過失や無意識を考慮しないわけにはいかない。本人には帰責されないが、客観的にその行為が悪とされることはあり、アダムとイブは過失ともとれるが「原罪」とされている。無垢の客観的悪を罪として罰することはできない。

神(すべて―自然の法則―欠落の認識)の否定が虚無。瑕疵欠落認識しつつもそれを為すのは悪であり、罪へと結びつく。虚無は本質的な価値「在る」への無関心。

「悪は善の欠如」は「悪は欠落のある、善(自然を理解し調和した行為)の不完全体」であり、虚無はそこに欠落として関り、それが結果として不完全な所作に結び付く。それは虚無から悪が発生しているということではない。この欠如的運動(悪/罪)は魂のみに属し、基本的に意思的であり、従って有責的であることを認め、そうした欠如的運動を避けるように努めることが、善への道。


このような考察を踏まえると、ヒューマニズムは人間中心ではなく、神中心に捉えた方がより良い成果に結びつきやすいと考えられる。大切なのは「神無しでも成り立つ理解や認識自体」であるが、神はすべてであり、最も包括的な上位概念。そのため、偏見なく「神」を捉えることは、より意識しやすくなり、有意義であると言える。


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