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エマソンの「自己信頼」に触れて


 物質主義に対する精神的価値の重要性を高らかに説くエマソンのセルフ・レリアンス。他者におもねることなく自分自身を貫き通すべきという主張。

”幼児は誰にも従わない。世界が幼児に従うのだ。それが証拠に、赤ん坊がひとりいれば、その周囲では四、五人の大人たちが片言でその子に語りかけ、あやそうとしている。”

”食事の心配をする必要のない少年たちは、人を懐柔するために何かをいったり、したりすることを軽蔑する。この王侯のごとき無頓着さこそ、人間本来の健全な態度だ。”


 これから書いてゆく文章は全て私の為だけのものである。私はここでエマソンについて語る気もなければ自己信頼の書評を書くつもりもない。ただ、この素晴らしい著作に触れることによって発生した自身の心の様相を観察するためだけにこれを書いている。単なる”主観”だ。

 セルフ・レリアンス。これは「自己信頼」の原題であるが、アン・チャータースの「ビート・ジェネレーションとは何か?」において私は本書の存在を知った。言葉の通り、私の興味はビートにあるが、それは言葉における分類を指すわけではない。ビートの本質、つまりは人の生き方である。


”自分にとって、すでに意味を失った慣習に従う必要はない。”


 これは、個人、つまりは自分の信じる生き方、自分の信じるルールにのみ従うと強く決意したのなら、周りの人間や社会の中で機能しているつまらないルールは既にお前にとって無意味だろ? という意味である。まさにビートの思想だ。ビートの始まりと言われるデヴィット・カマラー事件を題材に若きジャック・ケルアックとウィリアム・バロウズが共著した「そしてカバたちはタンクで茹で死に」を原作に持つ映画「キル・ユア・ダーリン」の劇中で、ダニエル・ラドクリフ演じるアレン・ギンズバーグやデイン・デハーン演じるルシアン・カーはコロンビア大で後生大事にされていた古い文学を若い衝動のままに破壊し尽くすシーンがあるが、それこそこれの最たる例だ。これは文学にのみ当てはまるわけではない。音楽であっても抽象芸術であっても、古いものを破壊し、新しいものを創造するという発想は至るところで散見される。そうした動きは行う者はすべからく自分自身を信じているのだ。自分の中にある信念にのみ殉じているという決意、覚悟が、それにそぐわない無意味な慣習を打ち壊そうとする。

 どうして彼らはこれほどの行いができるのだろうか。当然だけれど、何かを破壊するという行為は想像を絶するほどの熱量を要する。それはただの子供の癇癪とは違うのだ。地団駄を踏めば良いというものではない。壊す。そう決めた対象を粉々にしなければならない。

 ”自己信頼”をするにあたって私が自然とセーブをかけてしまっていることをエマソンは教えてくれる。”矛盾してはいけない。””間違ってはいけない。”こういった植えつけられた考え方が、私の”自己信頼”に対して障害になっている。これは芸術家、岡本太郎の、「今日の芸術は、うまくあってはならない。きれいであってはならない。ここちよくあってはならない」という言葉を想起させる。これは後天的に罹患してしまった人間の宿痾だ。これを壊すこと、破壊すること。そうしてはじめて本来の意味での”自己信頼”に至ることができる。私は自分の信念を、正しかろうか間違っていようが、そんなこと微塵も気に止めることなく殉じることができ、それにそぐわない無意味な慣習の破壊を可能とすることができる。

 こんな生き方を選べば、当然のことながら誤解をうける。社会の慣習にそぐわないばかりか、大多数にとって悪となる可能性もあるからだ。しかしエマソンは私に教える。


“社会に迎合しない人は、路上や友人の家で周囲の人から白い目で見られる。もし大衆の示す嫌悪が、彼と同じように軽蔑や抵抗心に根ざしたものなら、残念ではあるが受け入れるほかない。しかし世の人々の渋面は、そのやさしげな表情と同様に、深い理由などない。それは風がふくまま、新聞の論調に合わせて浮かんだり消えたりする。”


 言葉通りだ。その辺りを歩く多くの人々は何も考えていないのだから、何か言われて気にやむ必要はないのだ。それは賛辞についても同様である。

 しかしエマソンはまた、困った例も提示する。それは教養階級の反対側、”無学な者”、”貧しい者”たちの怒りである。


“彼らは精神の痛みを知らず、また豊かさも持ち合わせないまま、愚かで野蛮な唸り声を上げ始める。”


 これは非常に難儀なことだ。ここでは”無学”や”貧しい”という表現が用いられていたが、単に”知らない”と言ってしまっても構わないだろう。自分の尺度しか持ち合わせず、それ以外の世界を認められない。一瞬、ある意味においては”自己信頼”と呼べるのかもしれないと思ったが、”自己信頼”とは、強靭なる自分の意思で行うものであり、彼らのように何ら自身に対して責任を持たないそれは、”自己信頼”から最も遠い位置にある醜い精神に他ならないと私は考えた。そういった人たちにどう対処すれば良いのだろう。エマソンも耐えろとしか言わない。きっと答えのないことなのだ。この文章に触れた時、私はヘンリー・ミラーが三島由紀夫の自害についての言及を思い出さずにはいられなかった。

 “自己信頼”とは自分の行い全てに責任を持つということだ。「なんでそうした?」と問われた時に、「そうしたかったから」と答えられなければ生きているとは言えないということ。


 まだまだ引用したりないし、語り足りないがこの辺りで切ろうと思う。なぜなら私はこのセルフ・レリアンスに深い感銘を受けたからだ。エマソンの言葉をとうとうと引用し、知ったような態度で頷き続けるのはまさに”自己信頼”と最も縁遠い行為に他ならない。

 書評を書くつもりなど微塵もなかった。エマソンの「自己信頼」だけではない。この世に存在するあらゆる著作物についてだ。なぜならばそこに書かれていることが作者の言いたいことの全てであり、読んだ通りなのだから、何か言うにしたってそれはつまらない言い換えでしかない。そんなことをするくらいなら、感じたことを新しい創作物にして還元すべきだと私は信じている。ならばどうしてこんなにダラダラと文章を綴ったのか。それは単に嬉しかったからだ。私は本書を読んで、”自己信頼”を自分もやってみようと思ったのではない。私がずっと、心の中でひっそりと持ち続けていたことを、エマソンに正しいと言ってもらえて嬉しかったのだ。単にそれだけのことである。これは断じて書評ではない。舞い上がって興奮しているに過ぎないのだ。

 最後に。


“  人々は、あなたが自分の見たいものだけを見ていると思っている。しかし知覚は気まぐれに起きるものではない。宿命的に起きるのだ。
 私が何かに気づけば、私の子孫も、いずれは全人類もそれに気づくだろう。たとえ私以前には誰ひとり、それに気づいた人はいなかったとしても、私がそれを知覚したことは太陽の存在と同じくらい、揺るぎない事実だからだ。”


 セルフ・レリアンス。私は本書を読んで本当に様々な人が思い浮かんだ。上にあげたビートジェネレーションの作家達や、岡本太郎だけではない。80年代に活躍したロックバンド、The Stone Rosesの「I Am the Resurrection」という楽曲には、自分の部屋のドアをノックする他者の存在、それを煩わしいと、お前から受ける影響など何一つないと言い放つ歌詞が含まれるが、これは本書の中で、実に似たような文章を見つけられる。エマソンは”自己信頼”をすることによって、人間は”復活”できるのだと書いてさえいる。そうして「I Am the Resurrection」のサビの部分。復活した僕は、もうお前を憎むことすらできなくなったとイアン・ブラウンは歌い上げるのだ。

 音楽だけに限らない。スティーブ・ジョブズの姿がよぎった。アシュトン・カッチャー主演の映画「スティーブ・ジョブズ」に、Apple社の有名なCM、Think Different をモチーフにしたシーン、語りがある。今、自分の周りに広がる世界は自分と大差ない人間がつくり出したものであり、だとすれば、自分だって、好きなように世界をつくり変えられるのだと。誰に遠慮することもなく、いらないと思えば壊せば良いし、足りないと思えば付け足せば良い。根本から違うのならば、生み出してしまえば良いのである。それは誰に憚ることでもないのだ。

 様々な人の名前をあげたが、私は別に、彼らがエマソンの影響を受けているとかいうくだらないことが言いたいのではない。彼らの間に繋がりを見出して、キャッキャッしたいわけでもない。

 これらは決して継承ではなく、断続的に現れる本質、真理なのだ。ここで最後に引用した箇所だ。彼らは誰に教わることなく、自分でそれに気がついたのだ。そうしてそれはこの先も続いてゆく。何百年経とうが何千年経とうが途切れることなく、いや、途切れ続けて現れる続ける。これほど美しい現象が他にあるか。


 これに関しては推敲しないし、読み返しもしないだろう。文字通りの抜け殻だ。これを読んで、「エマソンの自己信頼ってこんな本なんだ~」ってなる人はいないと思うというか、多分誰も読まないだろうと思って好き勝手書いたので、気になる人は変な先入観持たずに読んでもらいたいとか一応書いておく。実際のところ気にしてないという興味ないんだ。読み終えた瞬間から”自己信頼”を今まで以上に意識したから。どうでも良いよ。自分以外。こういう考え方ができるようになる本です。気づいてない人は生きやすく、すでに気づいていた人はより生きやすくなる素晴らしい本。


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