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ストレスを徹底的に回避して生きている
わたしの日常にはストレスがない。
いや、ちょっと言いすぎた。
いまちょうどパワハラっぽいクライアントと仕事をしていて、その人の言動にイラッとすることは月1回程度ある。
でもそれくらいだ。慢性的なストレスはほとんどない。なぜなら、ストレスの原因になりそうなことを徹底的に回避しているからだ。
会社員をやめる29歳まで、ストレスにまみれて生きてきた。自分にはストレス耐性があると思い込んでいたので、ストレスが蓄積されているという自覚はなし。いよいよキャパオーバーになってパンクして、めまいや不眠などの症状が現れてはじめて、「心身がストレスに侵されていた」ことを知った。
だから、フリーランスに転向して最初にやったことは、「自分がなににストレスを感じるか」を分析することだった。
あれから10年、いまは小さな会社をひとりで経営しているが、仕事でも私生活でも「ストレスになりそうなこと」は選択しない人生を送っている。そのおかげで幸福度はケタ違いに上がった。
朝、起きるのをやめた
会社に勤めていた7年間、ずっと睡眠不足だった。
当時、その会社はベンチャーから大企業へ移行するくらいのフェーズ。わたしたちのような新卒社員をばんばん入れて、ものすごく勢いがあった。つまり、ものすごく忙しかった。
毎朝7時に起きて、都心の地獄の満員電車に乗って、すでにヘロヘロになりながら朝9時に出勤。退勤は22時前なら早いほうで、終電、ときにはタクシー帰宅もあった。寝るのはたいてい深夜2時、3時。そしてまた朝がくる。
わたしは若く、同期も先輩も上司もみんな若くて仲がよかったので、そんな生活でもよく遊んだ。22時に仕事を終えて飲みにいくこともあったし、休日も仕事と遊びの予定がびっしり。寝溜めしても疲労はまったくリカバーできなかった。
本来わたしは平均より長い睡眠時間を要するタイプ。子どものころからずっとそうだった。それに、低血圧で貧血だからなのか、朝が壊滅的に弱い。いくら早い時間に寝ても、ぐっすり眠れても、朝起きるのがどうしても苦痛だ。
でも、成長著しく“意識高い系”の会社のなかでは、そんなやつは怠惰でしかない。どんなに遅くまで働いても、翌朝は歯を食いしばって起きて、満員すぎて乗れない電車を何本か見送って、ようやく乗れても片足が床につかないまま目的の駅まで行って、半分寝ながらフラフラ歩いて、8時59分にデスクにつく生活をわたしは7年間つづけるほかなかった。
だから、会社をやめたと同時に、無理に朝起きるのをやめた。
午前中から仕事が入っている日はしかたないけれど、そうでない日は目覚ましをかけず、自然に目が覚めたときに起きる。自分に本当に必要な量の睡眠をとる方法は、これに尽きるのではないか。とくに仕事が忙しくないときは、だいたい9〜10時間は寝ている気がする。
朝が弱くて長時間睡眠だとどうしても夜型にずれこむし、朝7時半に家を出る夫を見送ったことも数えるほどしかない。寝すぎは逆に健康に悪いという研究データもあるようだ。ただ、いまのところ心身の調子はすごふるいい。
人が活動している時間に寝ていることに自己嫌悪感を覚えることもあるけれど、夫は「眠れるのはいいことじゃん、大谷翔平もたくさん寝るよ」と(まったく励ましにならない)励ましをくれるので、よしとしている。
日々のルーティンをやめた
毎日同じ時間に起きて、同じ電車に乗って、同じ場所に行く。学生時代も会社員時代も、その生活がわたしには苦痛だった。
ずっと同じことをする、ということも苦手だ。クリエイティブ職ひとすじのわたしは、文章を書くことやデザインすることをひたすらつづけてきた。なんなら学生時代からずっと。だから広義では「ずっと同じことをしている」半生かもしれないが、わたしが苦手なのは、たとえば「毎月○本ずつ記事を書く」とか「ずっと同じジャンルの記事を書く」とか「毎週○曜日に同じお客さんと打ち合わせする」とかそういう類のもの。
会社員時代はその性格を見抜かれていたのか、数年ごとに部署異動したり新しいミッションを与えられたりしてきた。そのおかげで7年も勤められたのだと思うが、同じ会社だとやはり限界がある。
元来、人間は変化を好まないというが、わたしは定期的に変化がないとストレスを感じて気が滅入ってしまう。そのため現在は、生活にルーティンを極力もちこまないようにしている。(それも「帰る家がある」「家族がいる」といった、ある意味ルーティンな生活基盤があるからこそできることなのかもしれないが)
朝起きないのは、その最たる例。自宅とは別にオフィスを借りているが、自分ひとりの会社なので出勤してもしなくてもいい。食事の時間もまちまち。平日の夕食は夫と一緒に食べることが多いが、時間があって気が向いたときだけ自炊する。日常生活でルーティンと呼べるものは、食事後の歯みがきと、洗顔後のフェイスパックくらいだろうか。
仕事においてもスタンスは同様。同じクライアントから不定期に継続して仕事をいただくことはあるけれど、毎日のレギュラーワークとか、特定の企業と深くかかわって仕事するとか、そういうことはできるだけ避けている。安定経営のためには売上の柱があったほうがいいとは思うが、自分のストレスと天秤にかけると、どうしてもそのやりかたを選べないのだ。
ちなみに、毎日同じ景色がつづくのもしんどいので、すぐ旅に出たくなる。出張もたまにあるが、それ以上にライブ遠征や旅行の予定を入れており、月1〜2回はどこかへ飛んでいる気がする。
社交的なふりをやめた
本来、わたしは内気な性格だ。授業中に手をあげるなんてできなかったし、自己紹介も大きらい。学芸会では「村人」とか「ナレーター」とかポストがたくさんある役のなかに紛れ、友人の意見にはだいたい同調した。
きらわれることはない代わりに目立つこともなかったが、思春期に入り、クラスの中心にいる活発な同級生たちがうらやましいと思うようになった。だから、高校に入学したタイミングでスイッチを押したのだ。「社交的な自分」になりきるスイッチを。
それはけっこううまくいった。無理もしたし、親しい友人たちには内向性がバレていると思うが、それでも高校・大学・社会人生活を通じて交友関係は一気に広がり、おかげでとても楽しい10〜20代を過ごした。社交的な自分を演じるうちに、実際に性格が変化していった部分も大いにあったと思う。
ただ、やっぱり本質は変わらない。たくさんの同僚に囲まれて働く毎日、大勢で集まる飲み会、知らない人がほとんどのBBQ、合コンや知り合ったばかりの人とのデート、どれも楽しかったけれど、ものすごく疲弊した。いつもその場に違和感なく染まれるように気をつかって、いつもみんなの顔色をうかがっていた。
それがストレスだと本当は気づいていたのに、せっかく手に入れた社交的な自分と生活を、わたしは手放したくなかったのだと思う。
会社をやめてからは、人との交流を「ほどほど」にすることにした。自営業は人との関係性がとても重要なので、社交性をシャットダウンするのは現実的ではないが、仕事に必要な交流や楽しいと思える範囲での交流ならわたしにもできる。プライベートでも、合わない人とむりやり仲良くすることはやめた。
そもそも、社交的な人ほどイケているという自らの価値観はもうほとんどなくなったから、無理をする必要などまったくないのだ。
とはいえ、いまのわたしは、10〜20代で築いた人間関係があるからこそ成り立っているのも事実。だから「社交性スイッチ」を押したあのときの判断は後悔していない。
「楽しくない仕事」をするのをやめた
「楽しいか楽しくないか」は、わたしが人生の選択をするうえで最重視してきた指標だ。
というか、「楽しいと思うことをする」以外の選択肢が頭になかったといっていい。高校も大学も就職先もその指標で選んだ。
だから、会社勤めをしていて「仕事を楽しめていない」自分に気づいたときのショックは大きかった。基本的には好きな仕事のはずなのに、組織のなかにいる窮屈さや、ずっと同じことをしている気がする退屈さ、クリエイティブ職なのに業務効率が叫ばれる矛盾との葛藤、毎朝起きる苦痛、いろんな要因が絡み合って「楽しくない」状況に陥っていたことが、当時抱えていた最大のストレスだったのかもしれない。
せっかく好きな仕事をしているんだから、会社をやめたからには楽しいことだけしよう。
そう決めたわたしは、フリーランス初期からけっこう仕事を選んでいた。「楽しいと思える・ワクワクできる仕事内容」であることはもっとも重要だが、そうでもない仕事の場合は、依頼してくれたクライアントへの信頼度やギャランティの額を天秤にかけて決めた。
いちばん警戒していたのは、こちらを“業者あつかい”するようなクライアント。イチ業者には違いないのだが、原稿料やデザイン料を買い叩いたり、こちらの都合を無視して「いますぐに対応して」と言ってきたり、プロとして尊重していただけていないな……と感じる場合は取引をやめるようにした。
7年の実務経験があったからできたことかもしれないが、その判断軸を早いうちにもっておいてよかったと思っている。目の前の仕事ほしさにフィルターを粗くしたところで、結局はストレスとなって自分に返ってくるだけだからだ。いま進行中のパワハラっぽいクライアントからの仕事も、仕事内容、ギャランティ、あとはその人とかかわる頻度などを考慮して受注を決めた。
わたしにとって仕事が楽しいかどうかは、人生が楽しいかどうかと同義だ。
手放すものが多いと不安になるし、好き勝手に生きている気がして罪悪感を抱くこともあるけれど、「ストレスが多い=がんばっている」みたいな価値観をわたしはもうもちたくない。
これからもストレスを敏感に察知して、俊敏に回避して、できるだけストレスフリーな人生を送っていきたいと思っている。