「本の読める店」 卍 映画『音楽』
こんばんは。今回はタイトルが変竹林かつ長文なので最初に説明します。今月に出たばかりの本の紹介から始まります。そして、ライブハウスにも劇場にも行けない、本屋と映画館は行けるけど生活としては欠落の多い現在はきっと「満を持した」状態にあるのではないか、だとしたら勇気が必要だな。『音楽の日』に出演したサンボマスター、ありがとう。という結です。
阿久津隆『本の読める場所を探して』@ヴェローチェ
「本の読める店」であるfuzukueの店主、阿久津隆さんの『本の読める場所を求めて』を読んでいた。
池袋のベローチェは喫煙席を撤廃したけど喫煙所を新設したので、喫煙者の僕は池袋に来るたび、たいてい1人で、もう5年くらいこの店のお世話になっている。
いろいろな時間を過ごす中で当然、読書もしてきた。でも、うまくいかない日も当然ある。冷房の強弱、隣のお客さんの会話のボリューム、一杯で居座る時間の見極め。
本の世界に没入できた成功体験は、少ない。いろいろな人がいる場所で時間を潰すのならいいけど、じゃあ、楽しみな何かを実行に移す気持ちに溢れているときにどこに行けばいいかという問題に気づく人は多いはずだ。
ご褒美の時間として過ごしに来た人がいたとする。「このフラペチーノのために今週はがんばったぞ」というような。その楽しみが、期待が、何に対しても敬意を払っていない人たちによって傷つけられるリスクがとても身近にある。だってみんな、超どうでもいい気分で過ごしてるんだぜ。「フラペチーノ」が「読書」であっても同じで、これが、「ここぞという読書の時間」を所望する者にとっての大きな問題だ。(p.99)
とくに読者だと、本を開く瞬間の気持ちや、読み進める集中力は、ほかのジャンルに比べて担保されずらい。"映画を見る館"のような場所もなければ(本著はまずブックカフェに対する考察から始まる)イヤホンやゴーグルで聴覚や視覚以外を外界と断絶して楽しめるわけでもない。
fuzukueは、阿久津さん自らつくった「本の読める店」だ。本を読む妨げになるリスクをはらんだ動作はすべて遠慮してもらう仕組みで、それは単なる禁止事項の羅列ではなく、お客さんが長時間滞在することに対するうしろめたさを解消する料金システムの構築だったり、一見さんが気後れしないための仕組みだったり、とにかく徹底している。
そして、そのすべてが、言葉を尽くして説明されている。
初めてHPでfuzukueの案内書きを読んだとき、"読書とは攻めの姿勢で集中力を維持しないとできないものだ"と半ばあきらめていた自分の頬をぶったたかれた気がした。
なんというかこう、この夜全体を、祝福された時間として過ごしたいんだよね。(p.13)
そんな気持ちで、からだ全体を膨らませてくれる一冊を買った日に行ける店があることが、広いくせに狭い東京で嬉しい。
* * *
「満を持して」 ≒ 「卍」
「とうとう来たなこの時が!」というときはテンションが上がる。「満を持して」何かをするとき、ようやく、ついに、奇跡的に。
会社員になって自分の時間が減ったぶん我慢することが多い。そのぶん、満を持して何かをするタイミングが定期的に来るようになった。(当然、"辞した満"が過ぎ去って行くことでもあるのだけど、「チャンス」は逃してしまうことになっても「満を持して」は実現したときが満を持したときになるからいたずらに落ち込んだりしないで済む)
中学生の頃、満島ひかりが好きになった僕は『愛のむきだし』をどうしても映画館で観たくて、DVDで見ることも我慢して2年待ったことがある。
吉祥寺バウスシアターでの上映を逃しても心は折れず、目黒シネマでかかっているのを見に行った日は忘れられない。
スタッフは皆、映画内にある宗教団体の真っ白い衣装のコスプレをして、トイレの扉に貼ってある男女マークも装飾されていた。満を持した僕の興奮を真正面から盛り立ててくれた名画座の演出は響いた。今日が特別な日なのだと祝福されている感覚になれた。
誰にだって湧き上がる気持ちが実行に移されるとき、両手を広げて受け入れてくれる場所やサービスや気遣いは些細なことかもしれない。でも、そういったところで過ごす時間があるから、息を吹き返せるのだと思う。
<閑話休題>
TAMTAMの新曲「Worksong!feat.鎮座DOPEDES」で鎮座のバースに「マジで卍 きっかけが肝心 ここぞって時逃さないタイミング」というのがあり、このたびボーカルのkuroと鎮座の対談で「卍」が「満を持して」を省略したものだったことが明らかになりました。
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NUMBER GIRL@渋谷WWW
「満、持するの待ち」状態甚だしい毎日だ。
PUNPEEが言うところの「つぎ会うときは 違う価値観で みんなで踊ろう」が実現する日をずっと待っている。
リスナーとしては、それでもリリースには恵まれていて、思わずコンビニへ缶ビールを買いに行ってしまう気にさせてくれる新譜がたくさん出た。
それでも、「音源」を聴いている感覚からは抜け出せなくて、「音楽」が聴きたいんだ俺は!とビールを飲み干すだけの日もどれくらい続いただろう。(国内アーティストのリリースがあっても、レコ発情報を調べる必要もないんだから)
以前も書いたが、NUMBER GIRLお預け状態だ。
でも、今回のことになる前に一度、このバンドで変な気持にさせられたことがある。
渋谷のライブハウスWWWに、バウスの爆音システムを導入してNUMBER GIRLのライブ映像を見るイベントがあった。5年くらい前だ。
ライブハウスの音響で見るライブ映像で、どれくらい興奮できるのだろうか、汗を流せるのだろうか。倍率の高いチケットを握り興奮を抑えながら階段を降りたら驚いた。
敷き詰められたパイプ椅子、自由席。
スタンディングじゃなかったのだ。
スクリーンの中でライブが始まり、初めての画面いっぱいのナンバーガール、盛り上がるフロアが爆音と共に映し出される。
しかし大人しく席についた渋谷WWW。
僕は途中、その場にいた全員の声を代弁できる気がした。
「誰かが行けば、(立ち上がり、拳を上げ、叫ぶ。画面の中の聴衆のように)俺も続くぞ・・!!」
しかし誰も立たない。
「OMOIDE IN MY HEAD」ですら
向井秀徳「ドラムス、アヒトイナザワ」
ドゥララララララッッ!!!
ダンッッ!!!!
ジャワーーーーーーン!!!
ギュオーーーングルグルギュルギュルギャルルルルルルーーー!!!!
(中略)
テレテレテレ
テレテレテレテレ
テレテレテレ
テレテレテレテレ
テ
映像のフロア「ヴォイ!!!!!」
渋谷WWW「ギュッッ!(手汗ビッショリの拳を握る)」
現役を知る世代やライター系の人たちもいただろうが、未知のバンドをライブハウスで体感できる「満を持して」やってきた好機ととらえていた当時の僕にはどうしても物足りなかった。
爆音がゆえに試練だった。
音楽が流れ、血がなんだか熱くなってくるような感覚に包まれているのだけど、それをアクションとして排出してはいけないむず痒さ、あちらからの熱量をとことん食らっているのに壁一枚隔てられた生殺し感覚。
つい最近似たようなことがあった。
* * *
映画『音楽』大橋裕之@武蔵野館
3ヶ月ぶりに会う友達が開口一番、得意げに見せてきたのが、大橋裕之『音楽と漫画』だった。僕もちょうど一週前、三崎の「本と屯」でそれを読んでいた。
「それ先週読んだばっかだわ」
「なんだよ」
話したその日の終わりに、武蔵野館の前に『音楽』のポスターを見つけた。
(ここまでが、ショート卍エピソードである。もう少し遠回りをします。)
Netflixやらhuluやらがもし動画再生の倍速機能をつけたらどうするかなんて話をよく友達とするが、押し並べて答えは一つだ。でも、周りが勧めてくるけど興味の薄い作品を、二倍速で見てしまうことなど可能性すらない。そう言い切ることに疑いがあった。
しかし『音楽』を見て、やっぱりそんなこと絶対にやっちゃいけないと確信した。
気の抜けた間がバツグンな作品だった。
教室の扉をガラガラっと開ける主人公、友達の名前を呼ぶ。彼の方に振り返った友達からすぐに返ってくる返事。呼びかけた主人公バストアップ。手前から呼び掛けたくせにたっぷり7秒は真顔で口を結び、ついに開いたその口から、ボソッと
「バンドやらねえか?」
クーーーーッッ!!!
言い回しが難しいけど、2009年に発表された原作はなんとも気の抜けた、でも必要なこと(例えば汗とか、シワ)はバッチリ書き込まれた絵で、それをそのままアニメにした映画は、キャラクター作画が気の抜けたぶん、音が素晴らしい映像作品になっていた。
ブースじゃなくて外ロケしたんじゃないかってくらい奥行きやら雑音やらが鮮明だし、主人公率いる(ドラムとツインベースのスリーピースバンド)「古武術」が野外フェスで演奏するラストシーンは、「ライブ」の音だった。
両隣が空いた映画館の座席で「今、俺、音楽聴いてる!!」という気持ちに(超久しぶりに!)なったときの爽快感と感激。
エンドロールが読めなかった僕に友達が「最後の主人公のシャウト、あそこだけ岡村ちゃんだったぜ」と教えてくれた。
岡村ちゃんが叫んでるところ、歯食いしばって見てた。
何かに解き放たれ、興奮の絶頂で、でも悲しくもある男が、リコーダーを持って絶叫していた。
このタイミングで、生に近い音を聴けたことが、次の日以降の勇気をくれた。
リュックの中には今日も開くことがなかった本が何冊も入っている。
「満を持して」は自分で掴めることもあるけど、今は真正面から睨みつけてそのときを待つしかない。
今日、劇団東葛スポーツが来週から始まる新作の公演中止を発表した。「東京オリンピック」と題した芝居は先月末「ついに芝居を見にいけるのだ!」と興奮を抑えながら取ったチケットだ。
今月に入ってまた事態が変わったから仕方ない。客以上に振り回されてる人たちがいる。
フラストレーションが緩やかに萎むのを待つだけじゃいけない。
怒涛の卍シチュエーションがやってくると信じるパワーが持ってくる興奮は侮れない。
なんというかこう、この夜全体を、祝福された時間として過ごしたいんだよね。(p.13)
そんな日を何度逃してきただろう。
いや、溜めているだろう。
オケタニ
<今日の一曲>
サンボマスター「あたしをライブにつれてって」