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勝利至上主義に陥るのはなぜか

おことわり

このnoteは、スポーツ界において問題となっている勝利至上主義的価値観について、歴史的背景を踏まえて本質を追求した。また、勝利至上主義を脱却するための施策を論じているが、決して完全なものではない。人生の数と同じだけ、スポーツとの関わり方も存在する。もしかしたら、完全な答えなどないのかもしれない。それでも継続して思索・考案していく必要がある。


勝利至上主義の弊害

近年、行き過ぎた勝利至上主義が懸念されるケースが増えてきている。

勝利至上主義とは、「勝利以外には価値がない」というほどまで"競争して相手に勝つ"ことを重要視する考え方である。

勝利至上主義が引き起こす問題として、勝利至上主義的な思考に陥ることで心身ともに過度に疲弊した結果バーンアウト(燃え尽き症候群)してしまったり、または勝利至上主義的な思考を持った指導者から、時に暴力を伴いながら長時間に及ぶトレーニングを強いられたり、成績が劣る者へのいじめや冷遇が起きてしまったりすることが挙げられる。

スポーツは、勝利を目指す中での成長や、勝利を目指す者同士の戦いによる筋書きのないドラマといった"過程"や"ストーリー"にこそ魅力があるのだが、勝利という"結果"にしか価値がないと思い込むことで様々な弊害が起きてしまう。



勝利への本能

一方で、人間とは本来、主に身体運動能力において"競争して相手に勝つ"ことを繰り返してきた生き物でもある。

デイビッド・G・マコーム著『スポーツの世界史』によれば

人間の動機づけについて研究した20世紀屈指の理論家アブラハム・マズローは、身体には宿命があると考えた。(中略)赤ん坊には両親の教育とは関係なく、寝返りをさせ、歩かせ、行動させる課題一覧と時間表のようなものが内在するのではないかと考えたのである。(中略)子供は成長過程で、歩く、投げる、走る、登る、運ぶ、持ち上げるなどの基本的な運動技術を学習する。こうした運動技術を生涯にわたり活用することは、全人類に共通する。

『スポーツの世界史』P13,14

また、その身体運動能力を他者と競い(あるいは殺し合うなどし)、生存競争に勝ち残ってきたことは、多くの古代文学や民間伝承によって言及されている。

動物学者のベルンド・ハインリッチは研究の為に渡航したジンバブエで古代の絵文字を発見した。弓矢を持ち列をなして走る人たちが描かれており、その先頭にいる人物は、まるでマラソンランナーがゴール直前に見せるような両手を天に向かって高く挙げるポーズをとっている。

世界最古の文学作品『ギルガメシュ叙事詩』には、ギルガメシュとエンキドゥがレスリングによって決着をつける場面があるし、ギザの石碑には古代エジプトに生きたアメンホテプ2世の狩りや競技の功績を讃える記録が残る。ホメロスが書いた『オデュッセイア』で、オデュッセウスは弓で撃った矢を、並べた12個の鉄斧のすべての孔を通し、残った矢で妻ペネロペと財産を横取りしようとした男たちを皆殺しにしてしまう。

要するに、運動の必然性はだれにでも例外なく当てはまり、進化の歴史に組み込まれている。競争はまた、たとえ生得的なものではないにしても古来の系譜につながり、進化の過程において重要であり、生き延びるために不可欠なのだ。

『スポーツの世界史』P21



スポーツの興りと本質

現代の我々が認識している多くのスポーツは、古代では生存競争、前近代においては戦争や宗教などに結び付けて利用されていた本能的身体活動を、近代以降、主にイギリスやアメリカで統括団体によってルールの統一化がなされたものである。

そして産業革命期、工業化によるテクノロジーの発展と大量生産技術の誕生により、人の移動が簡単になったことや人の余暇時間が増えたこと、ゴムや金属などの品質が向上したことなどによってルールの統一化されたスポーツが世界各地に伝来した。

現代では死を伴うような戦いはもちろん、完全とは言えないまでも戦争や宗教とは切り離されている。とはいえ、スポーツの根本的なところに、古代から続くほとんど本能的な"競争して相手に勝つこと"が含まれているため、これを排除することはできない。排除できたとすれば、それはもはやスポーツとは呼べないだろう。



スポーツにおける勝利以外の価値

勝利、つまり"競争して相手に勝つ"ことがスポーツの根底にあることは事実だが、勝利以外にも価値はあるとされる。

第一回「運動スポーツガイドライン策定に向けた有識者会議」内で、立命館大学社会学部の中西純司教授は、スポーツの価値の考え方について下図のように述べている。

「スポーツ価値」の考え方について

勝利はほとんど本能的であり誰もが目指すものであるが、その他にも考えうるスポーツの価値として上記のようなものがあるとしたとき、それでもなぜ「勝利にしか価値がない」といった勝利至上主義的な思考に陥ってしまうのかを突き止め、どのようにして勝利至上主義から脱却し、スポーツに関わる人たちの不幸をなくせるかを考えたい。



勝利至上主義脱却に向けた運動

様々なスポーツで、統括団体や著名な選手などが中心となり、育成年代における全国大会そのものを廃止するか、大会の在り方や子どもに対する指導者の関わり方を見直す動きがでてきている。

・全日本柔道連盟が小学生の全国大会を廃止(2022〜)

さて本年より、全国小学生学年別柔道大会は廃止することと致しました。各位のご理解を頂戴するため、この判断に至った理由を申し述べます。

昨今の状況を鑑みるに、小学生の大会においても行き過ぎた勝利至上主義が散見されるところであります。心身の発達途上にあり、事理弁別の能力が十分でない小学生が勝利至上主義に陥ることは、好ましくないものと考えます。

嘉納師範は「勝負は興味のあるものであるから、修行者を誘う手段として用うべきであるが、本当の目的に到達することが主眼でなければならぬ」と述べておられます。また、「将来大いに伸びようと思うものは、目前の勝ち負けに重きをおいてはならぬ」ともされています。

本年2022年は、嘉納師範が「精力善用、自他共栄」を骨子とする講道館文化会の綱領を発表されてから丁度100年の節目の年に当たります。この際原点に立ち返るため、思い切って当該大会を廃止することにしたものであります。


・益子直美主催「監督が怒ってはいけない大会」

怒ってはいけない大会では、重視するのは勝ち負けではなく「子どもたちが楽しくのびのびとプレーすること」です。

参加していただく指導者には、大会のコンセプトであることを理解し、大会を機会に自分の指導の仕方を見直してほしいという想いもあります。

この大会は、一番は子供たちが楽しめる大会ですが、同時に監督がチャレンジする大会でもあります。子どもたちには、監督やコーチが怒鳴ったり、怒ったりしたら、私のところに報告に来てねと伝えています。子どもが報告に来たら、指導者を私が注意するのです。


・本田圭佑主催「4v4」

4人制・超攻撃的サッカー
競技は 4 対 4 のコンパクトサッカー。より攻撃的な試合展開を実現するため、20秒ショットクロックやドリブルインなど独自のルールが採用されている。4人目のフィールドプレーヤーとしてキーパーが攻撃に加わるタイミング・戦略が勝利の鍵を握る。

監督・コーチ禁止
4v4 ではベンチメンバー2名以外の関係者はピッチに入ることができない。つまり、選手たちが中心になって交代やタイムアウトを要求する必要がある。子どもたちが自ら考えつかみ取った勝利は、育成年代にとって大きな経験となるはずだ。

ポイントランキングシステム
月から11月までの8ヵ月間、全国各地で 600 以上の大会が実施される。一度負けたとしても何度でも挑戦でき、シーズンを通してより多くポイントを獲得したチームが JAPAN CUP への出場権が与えられる。シーズン後半に開催されるゴールドランク大会で一発逆転も。


中西純司教授の挙げた6つの価値の内、「個人的価値」と「教育的価値」と「鑑賞的価値」には、それぞれ表裏一体のメリットとデメリットが存在している。

個人的価値における内在的価値には競争が含まれており、この本源的欲求を満たせば喜びを得られるものの、行き過ぎると勝利至上主義の弊害で挙げたような不幸な結果を生んでしまう可能性が高い。

教育的価値には協調性や社会性を育むといった重要な意義があるが、これも一歩間違えると指導者からの体罰や強制が発生するリスクを孕んでいる。

鑑賞的価値には感動や勇気を得られるといったプラスの効果があるが、高い競技パフォーマンスを披露するアスリートは、過酷な競争を強いられてきた人たちである。

上で紹介した、大会の廃止や在り方を是正する運動は、これらの価値に現れる表裏一体のデメリット部分を多少打ち消す目的で行われていると言える。全日本柔道連盟が決定した小学生の全国大会廃止は「個人的価値」「教育的価値」「鑑賞的価値」に、監督が怒ってはいけない大会や4v4は「教育的価値」に見られるデメリットを多少打ち消してくれてはいる。

しかし、これだけでは不十分であると考える。



重要なのは価値を転換すること

たとえ全国大会を廃止しても、その下のレイヤーの大会で優勝することを目指すようになるだけであるし、監督が怒ってはいけないと言えど、"怒る(怒られた)"と"指導"の線引きは指導者や選手の主観でしかない。4v4で大会から監督そのものを退場させたとしてもリーダーシップをとる子どもがほとんど監督のような立場になってしまう。

幹についた枝葉をいくつか削ぎ落とそうと努力しても、"競争して相手に勝つ"という幹が主眼である限り、ある程度効果は見られるものの不十分であるか、筋の悪い施策となってしまう。

"競争して相手に勝つ"というのはスポーツの根底にあり、何よりも魅力的で、強力な鎖である。だからこそ勝利至上主義に陥ってしまい、そこから逃げられなくなってしまうのだ。

したがって、追加でさらに枝葉を削ぎ落とすような施策を考案するのではなく、ここでは"競争して相手に勝つ"ことからは逃れられないことを認識した上で、"競争して相手に勝つ"ことの価値を転換する。

従来の勝利と並ぶほど大きな価値を新たに作り出したい。



"競争して相手に勝つ"を再定義

"競争して相手に勝つ"ことから逃げられないとしても、勝利至上主義の螺旋から抜け出しつつ、スポーツの根底にある喜びを享受することは可能であると考える。競争する相手を、他者から自分に転換すれば良いのだ。

大会における勝利や成績といった、作られた基準の中で他者と競争し勝敗をつけるのではなく、スポーツを行う上で必要な運動能力を過去の自分と競争し勝敗をつける。"競争して過去の自分に勝つ"と定義し直せば良い。

たとえば、サッカーにおいて求められる身体運動能力、または非身体性能力についてGPT-4に訊ねると、以下のように答えてくれた。

身体的能力:
体幹の強さ - 身体の中心を安定させ、正しい姿勢を維持する能力
敏捷性 - 加速、減速、急停止、方向転換の速さ
柔軟性 - 股関節や胸椎、肩関節の可動域の広さ
持久力 - 高強度の運動後の回復能力や試合全体を通じたスタミナ
最大筋力 - 特に下半身や上半身の筋力で、ボールコントロールや対人競争における強さ


非身体的能力:
技術(スキル) - ボールコントロール、パス、シュートなどのサッカー特有の技術。
精神力(メンタル) - プレッシャーの中で冷静さを保ち、集中力を維持する力。
戦術理解力(判断力) - ゲームの流れを読み、適切なポジショニングやプレー選択をする能力

コミュニケーション能力 - チームメイトとの連携を図り、効果的な情報交換を行う能力。
適応力 - 状況の変化に応じて戦術やプレースタイルを変える柔軟性。

GPT-4

これらをテクノロジーの力で数値化し、パーソナルパラメータとして保存する。そして日々の練習や定期的な測定テストによってパラメータをアップデートし蓄積していく。そして過去の自分と現在の自分のパラメータを比較できるようにすればよい。スコアが1でも伸びていれば、過去の自分に勝ったということだ。

また、このパーソナルパラメータは原則他人に共有しない。自分が自分に勝ったかを確認するためのツールとして使用するだけだ。そうすれば、競争して勝つ喜びを享受し続けることができ、勝利至上主義的な価値観を持つ他人やチームから離れてもスポーツを楽しむことができる。



まとめ

勝利至上主義的価値観に陥ってしまうことで様々な弊害があるものの、勝利、つまり"競争して相手に勝つ"ことは、人類が歴史上繰り返してきたほとんど本能的なものであり、現代のスポーツの根底にあるもので、排除することができない。

であれば、勝利と並ぶ大きな価値を新たに作り出せばよい。

"競争して相手に勝つ"ことの意味を再定義し、"競争して過去の自分に勝つ"とすれば、勝利の喜びを享受し続けつつ、従来の勝利至上主義的価値観に陥ってしまうリスクは減らせるのではないか。スポーツに関わる人たちの不幸をなくせるのではないか。

ということで、待ってるよ、テクノロジー。早く追いついてきて。

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