体育の授業で運動嫌いが増える理由

体育の授業のせいでスポーツを嫌いになったという話はよく聞く。

・踊れないのにみんなの前で踊らされた
・走るのが得意ではないのに競走させられた
・運動神経が良い人だけで盛り上がり、ボールが回ってこない
・できないさまを見て笑われた
・できるまで何度も強制させられた

など。

身体運動能力を大勢の前で披露することを強制された結果、その能力が人より劣っていれば、本人の中に内在する劣等感が存在感を大きくし、また集団の中での優劣が如実に可視化され無意識的に順位付けされてしまうことで、心無い者からの誹謗中傷の的となるきっかけにすらなる。

体育の本来の目的は、運動やスポーツの楽しさに触れ、好きになってもらうことのはずである。また、多くのスポーツにとって体育の授業は、そのスポーツに触れる最初の機会になることが多く、そこからそのスポーツを好きになってもらう導入の役割を果たすべきもののはずである。

ところが実態は、「すべて平均点以上にできる人」以外の人にとって運動やそのスポーツを好きになる要素は皆無で、役割を全く果たしていないばかりか、むしろ運動嫌いやスポーツ嫌いを増やす装置となってしまっている。


「みんなで手をつないでゴール」

では、体育の授業が本来果たすべき役割を全うするためにはどう改善していけばよいのか。

よく聞く施策として「みんなで手をつないでゴール」するというものがある。

おそらく、体育の授業における競争による順位付け、およびそこから発生する劣等感や誹謗中傷を無くそう、といった考えの下導入されたのではないかと推測する。

が、これは愚策である。

確かに表面的な順位がつくことはなくなるが、身体運動能力の差自体がこの施策で埋まるわけではない。足の遅いAさんは足の速いBさんが歩調を合わせて一緒にゴールしてくれて、それで本当に満足なのだろうか?足の速いBさんは自分の得意を発揮できる場を失うが、Bさんにとってそれはいいことなのか?

勉強に置き換えて考えてみれば、その違和感は確信に変わる。例えば算数の点数が40点のCさんに合わせて、クラス全員が40点を取ろうなどとするだろうか?100点を取れるDさんが、Cさんを傷つけまいと40点しか取らないことは正しいことなのだろうか?

なぜこういった施策が一定程度体育の授業や運動会などの現場で採用されているのか謎だが、ここに踏み切ると本質からズレていってしまうので、話を戻そうと思う。


スポーツの本質

スポーツは本質に「競争して相手に勝つこと」を持つ行為なので、競争からは逃れられない。
このことは以前noteでも書いた。

人間とは本来、主に身体運動能力において"競争して勝つこと"を繰り返してきた生き物であり、その身体運動能力を他者と競い(あるいは殺し合うなどし)、生存競争に勝ち残ってきたことは多くの古代文学や民間伝承によって言及されている。

デイビッド・G・マコームが書いた『スポーツの世界史』によれば、

人間の動機づけについて研究した20世紀屈指の理論家アブラハム・マズローは、身体には宿命があると考えた。(中略)赤ん坊には両親の教育とは関係なく、寝返りをさせ、歩かせ、行動させる課題一覧と時間表のようなものが内在するのではないかと考えたのである。(中略)子供は成長過程で、歩く、投げる、走る、登る、運ぶ、持ち上げるなどの基本的な運動技術を学習する。こうした運動技術を生涯にわたり活用することは、全人類に共通する。

『スポーツの世界史』P13,14

要するに、運動の必然性はだれにでも例外なく当てはまり、進化の歴史に組み込まれている。競争はまた、たとえ生得的なものではないにしても古来の系譜につながり、進化の過程において重要であり、生き延びるために不可欠なのだ。

『スポーツの世界史』P21

つまり、スポーツから競争や順位付けを取り除くことはできず、もし取り除いたとすればそれはもはやスポーツとは呼べないものになっているであろう。


解決策

競争から逃げず、劣等感や誹謗中傷からは逃れ、運動やスポーツの楽しさに触れるきっかけになるといった体育の授業が果たすべき本来の役割を全うするための方法がある。

それは、ラピッドボールを取り入れることである。

どういうことか?

例えば、体育の授業で行われるサッカーは(特に工夫を凝らさずただただベーシックなルールでプレーするのであれば)運動神経の良い人たちだけが盛り上がる代表的なスポーツである。

サッカーで求められる基本的な運動動作として、
・走る
・ボールを蹴る
・ボールを止める
・ボールを蹴りながら走る
である。(1人にしか枠が与えられないキーパーはここでは考えないものとする)

人体の中で一番汎用性の高い手の使用を原則禁止され、足でボールを扱う能力の高さをシンプルに要求されるので、その能力が低ければ活躍できないことになる。

しかし、ラピッドボールでは、
・走る
・ボールを蹴る
・ボールを止める
・ボールを蹴りながら走る
・ボールを投げる
・ボールを捕る
・ボールを拾う
・ボールを手で転がす
・跳んでボールをはたき落とす
と、運動動作の種類が多い。

動作の種類が多くなればなるほど自分の得意な動作と重なる可能性が高くなり、"スポーツができない"といった劣等感の内在や、集団の中での誹謗中傷にさらされる確率は減る。
蹴ることが得意でサッカーで輝いていた人だけでなく、蹴ることが苦手でも投げることが得意であれば、あるいはボールを捕ることが得意であれば、跳んでボールをはたき落とすことさえ得意であれば"スポーツができる"となり、楽しさに触れることができるのである。

「それでも得意なプレーがない場合にはどうすれば良いのか?」といった声があるかもしれないがご安心いただきたい。

ラピッドボールは、おそらくあらゆるスポーツの中で唯一であろう「アナザールール制度」を取り入れている。

このユニークな制度は、ベーシックなルールに加え、自分たちで考案したルールを適用して試合をすることを公式としている。

十分な環境や用具が揃わなかった子どものとき、余ったグラブをホームベースに見立て、空き缶をファーストベースにし、あの柵を越えたらホームランで、小さい子には下から優しくピッチングしてあげるといった、その日公園に集まった数人の友人たちが最も楽しめるルールを工夫して作って遊んでいたように、ラピッドボールでも、自分たちで作ったルールを追加してプレーする。

だから、ラピッドボールのすべての運動動作が苦手でも、アナザールールを考案するルールクリエイターとして活躍できるし、その試合に適用されたアナザールールに最適な戦略を立案してチームを指揮する軍師としても活躍できる。

身体運動能力だけでなく、その頭脳もラピッドボールにおいては重要な要素であり、みんなが楽しむために必要なスキルなのである。

つまり、"できる"と感じ、周りからもそう評価され、スポーツを楽しむことができるためのインタフェースが多様なのである。


まとめ

体育の授業が運動やスポーツ嫌いの人を増やしてしまう装置となってしまっている現状を変えるには、"評価基準の数"が少ないスポーツではなく、ラピッドボールのような身体面、頭脳面も含めたあらゆる評価基準を持ったスポーツを取り入れることが重要である。

集団で行うスポーツはその性質上、競争や順位付けから逃れることはできないので、ほとんどの評価基準において"劣"だとしても、身体面あるいは頭脳面でたった1つでも"優"と評価されるような基準を増やすデザインが重要なのである。

体育の授業にラピッドボール、またはそのエッセンスを取り入れれば、劣等感や誹謗中傷の的になりスポーツを嫌いになってしまうという課題を解決することが可能だろう。


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