日記 10月22日 火曜日 昔の日本人の自意識について
晴れ。朝パン1枚
今日は同居人が前々から行きたがってた江戸東京たてもの園に行った。
武蔵小金井からバスですぐ。しかしここのところの気温差と花粉で体調はあまり優れていない。
だから鼻風邪薬を飲んで行った。
小金井公園の中にある江戸東京たてもの園。
障害者割で無料で入れたのは嬉しい。
思っていたより沢山の建物が有ってちょっとした街のようだ。
昔のお金持ちの家、農家の家、色んなタイプの店、銭湯などレトロ好きにはたまらない世界が広がっている。
その時代に生きてないのにどことなく懐かしさを感じるのは祖父の家とかにあった所々の名残のようなものが江戸時代から続いてる家屋の色々な部分に表れてるからか?
まず古い木で家が作られてる時点で日本人なら懐かしさを感じてしまうものだろう。
全て手作りだから芸術性みたいなものを色んな所に感じてしまう。
この当時の人たちからしたらそれが普通だから逆にこの新鮮だったり懐かしかったりする感覚は現代に生きてる僕らにしか味わえない感覚だろう。
じゃあ今生きてる社会にある様々なものもいずれは「古き良きもの」として捉えられるのだろうか。
例えばスマホなんかも懐かしさを出す骨董品のような扱いを受けるのだろうか。
すでにガラケー等はレトロの枠になっててコレクションもされてるし、まぁ物はいずれ懐かしまれ一周回って愛される物に再評価されるのだろう。
昔の写真とかも展示されてる場所があったので観てみたら、一つの家からものすごい数の人(職人?)が顔を出してる写真が有ってぎょっとした。
というのもそのすごい数の一人ひとりの表情に迷いみたいなものが無いというか余計なものが無い感じがして、それがすごく軍隊みたいな感じがして、それが自分の遠い記憶を刺激しつつも今の時代から眺めると少し違う生き物みたいな奇妙な感覚を得たからだ。
今の時代は戦前戦後の時代に比べたら「人間が個を持つ時代」となっており、アイデンティティの獲得や哲学、在り方、自意識、世界の認識などすべてにおいて自分個人で築きあげる時代になってる。
僕が子供の頃はまだ人々に軍隊的な感覚がどことなく残っていて、つまり自分は存在していても個としては自らを捉えてない感覚があった。
だから上から教えられたものは疑わず受け入れられたし、自分でそれをジャッジすることもなかった。
そして自分という存在そのものを他と切り離した別物という認識さえそこまで無かったのだ。
つまり自分も他人も似たような存在で、自分の意見や、自分の考えなどは無くても良かったしそんなものを持とうとする気にもならなかった。
逆に言えば自分が辛くてもみんな一緒だと割り切ることができた。
昔の日本人の感覚はある意味で自分という存在の価値をそこまで大きく感じておらず、ゲームや漫画でいうところのモブキャラ(脇役)のように捉えていたのだろう。
脇役は個を持たない。死ぬ時もあっけなく死ぬ。
だから今の時代で捉える自分の死と、この時代で捉える自分の死は全く別物なのだろう。
今の時代自分の死は宇宙の消滅に匹敵する非現実的な出来事だが、昔の自分の死は仕事を終えるくらい身近で当たり前に覚悟できるものだったのではないか。(建築過程の事故などでバタバタ死んでただろうし)
僕はその集合写真を見てそんなことを感じた。
これだけ大人数で、やらなきゃいけないことが明確に有り、今のような情報や利便性も無く全て人の手で行われているこの時代、他者の死が身近に有り次々と送り出されるのを見ては自分も「そうなること」と「そうなるまで」を思わせられる時代。哲学を考える余地など無く個など生まれる暇は無い。
当然人の意識も「個」ではなく「一部」になる。
私という存在は個ではなくあくまで立場であり、自己という存在は務めの前に滅却される。そして死というものが個にとっての未知ではなく共同体にとっての日常である。
最初から上によって生きる目的が定められてる時代は、その為に死ぬことを前提として生きることができる。
今は生きる目的を自分が創ることから始めるので当然死ではなく生きることを前提としている。
だから死というものの理解が追いつかず情報で人の死を見てはリアリティの無い哀しみを感じるのだ。
「自分は共同体の為に何ができるか」というような軍隊的感覚、または滅私して「先に習い務める」だけだったのが昔の日本人のアイデンティティだったのだと思う。
僕は当然その時に比べたら今の方が孤独で辛くても良いと思うし、自分を過大評価し、自意識過剰と言われても軍隊のような感覚には絶対になりたくないから今の方が良い。
おそらく昔は「生きるのが辛い」とか「なぜ生きてるのか」なんて言ったら常にガヤついてる周りの人間に
「お前風情がいっちょ前に何言ってやがる、そーゆうことはお偉いさんが考えることだ、明日のことだけ考えてさっさと寝ろ」と一蹴されるだけだろう。
というか実際僕が子供の頃はこんなことを大人に言われてたし、「子供が病む」なんて概念が社会に無かったのだ。
大人が子どもを一人の人間として捉えてない時代だった。
いかにその頃と比べ急速に個の時代になったか、逆に言えばつい最近まで人権意識、民主意識がほぼ皆無だった日本人が未熟とはいえ数十年でようやくここまで来れたのか。この混迷の時代、衆院選の前にその大昔の集合写真を見て、それを考えさせられた日だった。