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沖縄の百歳人みたいな長持ちするカラダがほしいんだけど、どうしたらいい?

長生きしたいなぁというより、健康寿命を延ばしたい。その先に長生きがあるなら言うことナシだ。

たとえ宿命や運命的な病苦を得ても、その人なりの「健康」の姿がある。大病を患いながらも自分なりの健康を維持し、悲喜こもごもイキイキ生きる娘をみているとそう思う。

それぞれの健康の姿がある。

とはいえ、健康は目的ではない。健康を得て何をしたいか、どう生きるかということだ。

カラダの声に耳をすませば

今とりあえず病気未満なら、病気になるのを待つような生活から少しでも離れたい。

健康ライフを習慣化してしまえば、意識して頑張らなくても、自動的に自分のカラダが健康の維持管理をしてくれる。

さすれば、思い切り人生のテーマに取り組めるし、落ち込んでも回復が早い。逆に言えば、健康なら元気や活力は自動的に湧いてくる。

病気になるのが怖くて、20年余りの長きに渡り健診や各種検診を毎年超絶真面目に欠かさず受診してきた。
そうした真面目さで、神さまみたいなものに不摂生の赦しを請う心境だ。

「健診」は健康であることを確認する
ためのもので、「検診」はがんやB型肝炎など特定の病気がないかを調べるものだ。

毎回「まさかなー自分がー」と思いながら受診するのだけれど、ほんとうに病気が発見されたらどうするのか。とりあえずオロオロするしかないのだろう。

しかし、病気を発見するために健診や検診を受けるという自分の発想に噛み合わせの悪さを感じるようになってきた。

病気の早期発見、早期治療開始。状況によっては治療拒否してテキパキ死に支度!

何か変じゃないか。

これって病気になることを前提として
いないか。ロシアンルーレットのように「はい残念、今度はあんたの番よー」と告知されるのをビクビクして待っている。

わたしは病気になりたくないのであって、病気の順番待ちしているわけではない。

「医療機関へようこそ、特に生活習慣病は当機関の得意分野です。あなたさまの症状に合わせたお薬を生涯に渡りお世話いたしますので、どうぞご安心ください。各種痛み止めも揃えてございます。新薬も積極的に導入しあなたさまのQOL、生活の質向上に寄与いたします。もちろん恐ろしいがんにも対応しております。手術、抗がん剤、放射線治療、素晴らしい先進医療の数々を取り揃えてございます」

そんなふうに優しくお誘いいただいてもねぇ、困る。

先進医療が急進し続け、高度な技術を駆使した治療法があったとしても、誰もがその恩恵に預かれるわけではない。

治療に邁進するにはお金、環境そして気力が必要だ。

健康に生きるために戦う気力はあるが、病を相手にする余裕はない。今生きることに精一杯なんだから。

検診等は気軽に受けられるが、引っかかるとにわか雨みたいなめんどーが待っている。

精密検査の案内が来ただけで死を覚悟し身辺整理をせねばと思い詰め、無視する勇気はないのでスケジュール調整して然るべき医療機関に予約を入れる。

結果が出るまでは生きた心地がしなかったことが三度くらいあったかな。

乳がんでは「脂肪の塊だったのかなー今はないよ」とか、大腸がんでは「別に何も所見ないですねー」と首を傾げられたり。いずれも未遂に終わり良かった良かったホッとしたー

が、果たして無事で良かったラッキーと喜べばいい場面なのか。

一体何が良かったというのだろう。
そもそも病気じゃなかったんだから。

良かったというより自分がしくじっただけではないのか。

大腸がんの内視鏡検査、下痢も便秘もない自分が、たまたま排便時に気づかない程度にちょぴ切れたらしい微量の出血にも反応するのを精度が高い検査というなら、不要な大腸がん検診は自ら受診を控えるしかない!と思うには充分苦痛な検査であった。

再検査までして何もないなら自分にとっては不要な検査であり、不要な出費、不要な不安な時間、それこそ健康の怨敵であるストレスにさらされたというだけだ。自分がばかだっただけだ。誤認逮捕の推定無罪で放免。シャバの陽がまぶしいぜである。

検診は医療機関からのお誘いのDMみたいだと眉が八文字になる。

「健康」は医療機関では護れない。
医療機関で救えるのは「命」だ。「健康」ではない。それは医療の領分ではない。自分自身の領分だと思う。

健診なり検診で病気が見つかるとしたら、それまでに肥満、痩せ、便秘、下痢、疲労感、頭痛、腰や膝が痛い、アトピーや肌荒れ、鼻炎、老化の加速感、イライラする、やる気出が出ない、生理不順や更年期の婦人科系の障り、風邪ひき易く治り悪い、痛みや痒みや疼きや食欲や呼吸や便や尿や汗のかき具合や耳鳴りや鼻づまりや目の見え具合や喉の渇き具合や不眠やいびきなんかで、体が必死に不調のサインを送っていたはずだ。

そういった体の声を無視して人任せ、つまり健診や検診任せにしてきたからではないのか。または自分の体の声さえ聞くことができなくなってしまっていたからではないか。

病気は減ったのか

医学が加速度的に発達しても、自治体や企業の健診や検診制度が充実してもがんや糖尿病、高血圧、心疾患、脳血管疾患、認知症など生活習慣を病源とする病気が減ったという話は聞かない。

慢性腎臓病(CKD)が新たな国民病と戦々恐々としているようだが、糖尿病予備軍など生活習慣病の成れの果てではないのか。全然新しくないじゃないか。わざわざ病気を増やしているみたいではないか。

我慢の範囲の体調不良を微調整しつつ、万が一の大病罹患の恐怖に慄きながら暮らし、用意された健診や検診を受けるという流れの前に、病気になるのを待つような生活からみんなで足を洗いたくないか、いろいろカンタンじゃないのは分かるけれど。

米国のデータしか見つけられなかったが、AYA世代(15歳〜30歳代)のがんの発生率が1973~2015年の42年間で29.6%増加している。

食をはじめとするライフスタイルがすっかりアメリカナイズした日本が、付き従うハメなっていないとタカをククる方がのん気ではないか。

近年は人生100年時代と謳われているものの、介護の必要がない健康寿命は男性で72歳、女性は75歳。平均寿命が男性81歳、女性87歳なら男性は9年、女性は12年の要介護期を経ないと死に至れない。

見落としがちだが、介護前の健康寿命という期間には我慢の範囲の謎の体調不良がすでにあったのではないかと思う。

マジかーと叫びたい。

健康寿命中の謎の体調不良を経て、長い介護状態に至る人生100年とは、延命処置の向上による100年なのか。

いったい人生のうち元気な時間はどれだけあるのか。増やせるものなら増やしたいではないか。

健康ライフのチェックポイント

1. 食事
2. 運動
3. 睡眠
4. ストレス管理

やはり、食べることか。
食べたものでカラダはできている。

わかっている。ロクなもの食べていない。

自分がロクなもの食べていないことさえ知らない世代が大人になっている。

旧世代と新世代のはざまの自分も不健康と思われる食生活に流されて生きている。

食べても直ぐには死なないが、長い時間をかけて細胞を劣化に導く食品群。

百歳人センテナリアンの失われた時を求めて

日本には長寿を達成し健康ライフのヒント満載の素晴らしい一面と、時代に押し流され儚くその頂点から転落するという悲しい変遷を経験している地域がある。

「ザ・沖縄」

世界が認めた長寿地域ブルーゾーン世界五大長寿地域のひとつ。

沖縄は2000年までは最長寿県だった。

しかし厚生労働省が2022年暮れに発表した「都道府県別の平均寿命」では、沖縄県の平均寿命、男性が80.73歳で全国43位、ワースト5入り。女性が87.88歳で16位。16番位と言っても、前回5年前は7位だったから暴落といえる。

理由として肥満度を示すBMIの数値が25以上の肥満者の割合が男性では特に高くなっている。心臓血管の疾患での30代から50代の平均寿命が短くなり、中年のうちに亡くなる率も最高になっている。

また飲酒量も全国平均よりも多く、アルコール疾患も全国に比べて高いそうだ。

2000年までは沖縄にはふたつの異なるグループが並存していたといえる。世界最長の平均余命を持つ健康な百歳人センテナリアンと呼ばれる高齢者たちと、健全な健康状態を保つことができない若い世代である。

沖縄の若い世代の陥った罠は、沖縄だけの話なのだろうか。失ったものの大きさに気づいている若い世代がどれほどいるのだろうか。

沖縄の例は非常にわかりやすくそして悲しい。健康で長持ちするカラダを育んだ食習慣や生活習慣を忘れ、マーケットウェイブに乗せられて飽食と利便性を手放しで受け入れたらどうなるかを示唆している。

カロリーばかりが豊かで低栄養なジャンクフード、ミネラルがゴッソリ抜けた淡白な野菜や果物、食品添加物を駆使した加工食品、甘いお菓子、スナック菓子、清涼飲料水、米よりパン。それに伴って使用する油も傷い。

沖縄の新しい世代が踏んだ轍は日本全体が今現在踏みしめている轍でもある。

そして根深い。

沖縄の百歳人たちが日常的に食していた自家畑の味の濃いミネラル豊富な野菜は、常にはもう手に入らない。

季節感も失われ、化学肥料の投下でデカくて薄味の野菜たち。味が薄くてそのまま食べられないからドレッシングが百花繚乱となる。農薬が怖くて皮ごとでは食べる気がしない。

わざわざ遺伝子をいじって糖度や特定の栄養素を高める機能性をくっつけた見目麗しいトマトまである。

そんなトマトよりわたしが食べたいのは、子どものころ、夏に丸かじりした素晴らしく美味な濃い味のトマトカムバック。土の味がしたというと眉をひそめるのだろうか。でもあの味を表現するなら、芳しく力強い土の味というほかない。

そのトマトを食べようと思うと、今だと有機栽培ということになるのか。有機栽培や無農薬栽培の野菜は探したり選んだりしないといけないし当然割高だ。

さらにはタネからして違うと思う。タネは育った土を記憶しているそうだ。でも今のタネの多くは一代限りの交配種。だからその土地の植物としての成長が無い。けれど安定収穫、安定供給ができるのは農産業としては大きなメリットだ。

そうだなーわたしが子どもの頃にはまだ畑に「こえだめ」なるものの残骸くらいは残っていた。農家さんは牛を飼い、、糞を畑の土にすき込んでいた。夏の畑の牛糞のにおいは強烈だったが、今思うと邪悪なにおいではなかった。

1960年代あたりまでは有機栽培が定番で、日本人は激ウマ高栄養トマトをふつうに八百屋で買えて食べていたのだ。

肥えた土で育った野菜は味が濃くてビタミン、ミネラル豊富。皮ごと食べられるので、フィットケミカルで抗酸化抗炎症効果までゲットがデフォ。

今となっては夢のようだ。

きゅうりも今ではブルームレスきゅうりが定番だ。白っぽい粉がないピカピカのきゅうり。農薬が付いていると消費者に不人気だというが、あれはきゅうり自身が保水など必要があって分泌するもの。人間にとってもミネラルのケイ素で、いわゆるシリカのこと。昔ながらのきゅうり食べていたら、シリカ水という高額のミネラルウォーターは要らないことになる。

まともなトマトときゅうりを食べるだけでも無理に近い時代になってしまった。

もはや沖縄の百歳人ライフをコピーすることは不可能だが、諦めるべくは諦めながらもなるべく積極的に諦めたい。

新境地に立ち楽しみつつカラダを長持ちさせる思考と試み

① 人生初菜園を始めた。

肥料は自然物、枯れ枝や枯葉を餌にして糸状菌を育て糸状菌と土壌微生物と植物のコラボレーション、そういう農法に挑戦してみた。

土いじりは人によっては人生を変えるかもしれない。農耕民族のDNAがウズウズ、開拓者の血が騒ぐ。鳥、虫、草は自然と相まって生きている。人間だけがそうではないことに気付くのだ。

風に舞い上がる土壌菌を吸い込むことで腸の細菌叢が活性化する。陽を浴びれば皮膚で勝手にビタミンDが産生される。

畑は天然の薬箱、なぜ忘れ去ってしまったのか、厄介な雑草とされるスギナ、ヨモギ、どくだみ、スベリユヒも実は薬草級の植物。調べてみると凄級の効能に驚く。

「お前たち黙って踏まれて嫌われて、本当は人間の体を治癒するパワーがあったんね」

枇杷や柿や松の木があれば、ホームセンターで干し網を購入するだけで茶葉がカンタンに作れる。枇杷茶は色もキレイ、実の色と同じ色。

沖縄のおばあちゃんはさんぴん茶をよく飲んだらしい。半発酵のウーロン茶にジャスミンの花で香り付けしたオシャレなハーブティー。オシャレを狙ったわけではないのが感じ入る。

お茶を楽しむようになってから、清涼飲料水や甘い飲み物はやめられた。ペットボトルより、マイボトルに自家製のお茶が断然安全かつ美味しい。

菜園の不出来な野菜もお茶も自分で作ったものは全て愛しくて美味しい。そして、世の中に流通している食べ物の本質が見えてくる。

② 腹八分目と頻回に食べないこと

沖縄の百歳人、食事の前には必ず「腹八分」と唱えるそうだ。

自家野菜とさつまいもたまに豚肉という低カロリーのうえに腹八分、つまりたくさん食べなくても元気で長生きできる証拠だが、今はそのまま真似ることはできない。

残念ながら今の時代、安易にカロリー制限をすると栄養失調になる。ただでさえビタミン、ミネラルが不足しているのに不足が増幅する。

人間は長く飢餓の時代を生き延びてきた。だから、空腹であることが条件で稼働する生きていくための機能というものが備わっている。

オートファジーという機能には細胞が自分の成分を自分で食べることで、栄養を得るといった役割りがある。

狩猟に失敗してたんぱく質が食事として入ってこないときは、37兆個とも60兆個ともいわれる細胞のたんぱく質を分解したアミノ酸を材料にして、生存に不可欠なたんぱく質を作る。

えーっ、カラダが栄養素のリサイクルするんかー

えーっ、ついでに損傷ミトコンドリアのお掃除までするのー

オートファジーだけではなく狩猟時代、木の実がない季節など糖の摂取が難しいときには、体脂肪をエネルギーに変換する機能も備わっている。糖エネルギーはは即効性はあるが諸刃の剣だ。脂肪の方がクリーンである。

せっかく備わっていても、飢餓状態つまり空腹が稼働の条件なので、現代みたいにいつでもどこでもお気軽にパクパクつまみ食いできる現代では空腹のヒマがない。

使われない機能は錆びて回らなくなり、お蔵入りだ。

長い歴史の中で、飢餓には万全の備えがあるカラダも飽食に耐えるようには進化していない。だから食べ過ぎると病気になるという理屈だ。

食べ過ぎが良くないことは、江戸時代の健康インフルエンサー貝原益軒がすでに「養生訓」に記している。

③ 加工食品からは走って逃げろ

それじゃあ食べるものないじゃん!という呪縛から自由になることだ。

健康をキーワードにしたとたん、食べることがこんなに難しい時代ってかつてあったのだろうか。「新飢餓時代」である。

加工食品を避けるということは、平たく言えば「日常食べるものは基本手作り」ということだ。

手作りがめんどーというのはほんとうでもあり、ウソでもある。

毎日の食事にご馳走を用意しなければならないと、誰にともなく思いこまされていないだろうか。

家族の中の誰かひとりに食べることを丸投げしていないだろうか。

基本具沢山の味噌汁と分づき米かもち麦や雑穀入りのごはんでいいのではないか。拳大の肉、魚があればなお良い。

トマトだってサラダに仕立てなくても切るだけでいいのではないか。茄子だって揚げて中華料理にしなくてもいい。ぬか漬けか焼くだけでいい。大事なのは、生姜をちゃんと摺ること。ジャンクじゃない醤油をかけること。

めんどーで泣けるなら、まずは煮干したっぷりのダシを自分でとることから始めるといい。昆布と鰹節も一緒に。健康のために毎日お味噌汁をいただくというなら冷蔵庫にダシを常備だ。

しばらくは、化学的な味に慣れた舌には物足りなさを感じるかもしれない。それは脳の報酬系を喜ばせるように作られた味なので、やめられないし止まらないようにできている。

脳は美味しー気持ちいーと喜び「もっとー」と叫ぶ。それに抗うことは不可能に近い。

一方でカラダが喜ぶものを知っているのは腸内細菌たちだ。カラダが喜ぶものこそ本来美味しい。それが分かる味覚を取り戻したい。

そう、取り戻さなければ永久に失われたまま終わる。我慢するのではなく、お菓子やパンも含めた加工食品に飢えなくなりたい。

快楽に溺れ易い脳の嗜好を再教育して、理性的な腸と連合を組ませる。

凝ったお料理は、各種会食やお祝いやお祭りのときなどに思い切り楽しめばいい。

食べることはほんの100年前までは娯楽ではなく生きるためだった。その土地の季節のものを、あまり手を掛けず感謝し食して人間は生き延びてきた。

その精神を忘れずにいたい。

歴史に学んだ正解を知っていれば、マーケット絡みのエビデンスレベルが低い健康情報や健康食品の海にのみ込まれることもない。目先を変えただけのB級の情報に惑わされることもなくなる。

そしてこういったことを、これから生きていく若い人たちにどうしたら伝えられるのかを考えると、自分の非力にかなり落ち込むのである。

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