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適応障害になって1年。大丈夫、必ず良くなるから、思う存分休めばいいさ。

適応障害と診断されて、もうすぐ一年になる。
この一年、一歩進んでは二歩も三歩も下がって、またちょっと一歩進んで…を繰り返してきた。一年という長いような短いような空白期間を経て、ようやく「元気になったな」と自信を持てるようになった。
とはいっても、今も月に一度のメンタルクリニックや内科の通院は継続中だし、低気圧やら気温差やらに体がついていけなくて1日中寝ている、なんてこともあるけれど。
日常生活を送れるくらいには体力と気力がついて、予定を入れることも怖くなくなったし、自分の未来について希望を持てるようにもなった。休職前よりは明らかに体調が良いし、元気である。

一年前の今日は、私がメンタルブレイクしたきっかけとなった出来事が起きた日でもある。
今でこそ、凪いだ気持ちで振り返ることができるけれど、ここに来るまでは本当にしんどかった。もがき苦しんだからこそ、記録として残そうと思う。
(これから綴る内容は、読む方によってはしんどくなる場合もあるので、読むのがつらいな、と思ったら引き返してくださいね🦥)

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昨年の今頃はまだ会社員で、国内あちこちへ出張していた。
年に一度の全社をあげた大イベントのため、本社勤務の社員たちが毎週のように全国津々浦々へ駆け回るのだ。私もその一人だった。
前日に現地入りし、当日は早朝から夕方まで動き回り、へとへとになって飛行機へ乗って帰ってくるというなかなかハードなスケジュールをこなす必要があった。くわえて、乗る便はすべて格安航空なので、便数が少なく何時間も空港で待ちぼうけ。早く帰りたくてもチケットの変更ができず、終電に間に合わないなんてこともあった。

そんなハードスケジュールをこなしていた中。一年前の今日、とある出張先からの帰りの飛行機でセクハラに遭った。体も心も疲れ切っているところに、突如迫った悪意の手。「なにやってんすか、セクハラですよ!」とその場は諫めたものの、触られた感触は生々しく残った。

あぁ、もうだめだわ。

ガラガラと自分の中でなにかが崩れていくのを感じた。
11年前の事件がフラッシュバックした。乗り越えたと思っていたのに、あっという間に闇に飲み込まれた。
そういえば、あの時もバイトで疲れ果てていた帰り道だったっけ。ほんと、卑劣な奴らって隙を狙うことだけには長けている。
乱気流で機体が上下に激しく揺れる中、壊れたように涙が流れ続け過呼吸に陥った。夜遅くの便でそもそもの乗客数が少なかったのにくわえ、感染対策のため両隣には誰もいない。CAさんも揺れに備えて着席していて姿が見えない。誰にも助けを求められないまま、前の座席の一点を睨み続け、手の甲を強くひねることでなんとか正気を保った。怒りと悔しさとでぐちゃぐちゃだった。

あの時、もっと気を張っていれば。背後に注意していれば。自分を責めた。
映画みたいに、咄嗟に手をひねり上げて背負い投げとかできていたらスカッとしたのに。無力な自分が悔しかった。

その一度の被害で心も体もボロボロになった。11年前と何にも変わらないじゃん、と思った。立ち直ってなんとかここまで生きてきたのに、頑張って生きてきたのに、汚いヤツの「魔が差した」一瞬で、ガラガラと壊れていった。

これ以上は頑張れない。もう無理だ。

身体中のあちこちが発するアラートに従うことにした。会社に報告し、心療内科で診断書をもらい、休職。あっという間に6ヶ月経ち、休職期間満了で退職して今に至る。

そんな身も心もボロボロになった自分だが、今では日々の生活を楽しめるまでには回復できたのだ。この間はなんと、沖縄旅行へ行ってきた。しかも、最悪な記憶が残る”飛行機”に乗って(!)。
昨年の一件以来、飛行機に乗るどころか片道1時間半以上かかるところへは行けていない(一番遠いのが都内の病院というありさま)。長距離移動も、見知らぬ場所へ行くのも、一年ぶりだったのだ。

たかが旅行、されど旅行。

私にとって、今回の沖縄旅行はものすごく大きなチャレンジであった。

そもそも、旅行へ行くことになったのは、のっぴきならない事情があったからだった。
母が保有している航空会社の大量のポイントが有効期限切れになるという。急いで消費しないと全部ゼロになる!もったいない!ということで、急遽旅行へ行くことになったのである。
母は仕事が休みでホリデー、私は毎日がホリデー。
海外はちょっとハードル高いよね、せっかくだし暖かいところに行きたいよね、と行き先は沖縄に決定。
とにかくポイントを消費せねば、という使命感(?)に駆られ、あれよあれよという間に旅程を決め、航空券とホテルを予約した。人間、追い詰められるとすごい勢いで物事を進めることができるらしい。

数ヶ月前は、まさか自分が旅行へ行けるようになるなんて思ってもいなかった。当時のことを思い出しては怒りが込み上げて、やり場のない怒りの矛先を自分に向けたときもあった。夜中に眠れなくなって、死への衝動を抑えることが大変だった。
自殺念慮に抗えず遺書を書いたり、抗うつ薬が体に合わなくて夕食をすべて吐いてしまったり。家から一歩出ることがとんでもなく大変で、近所のスーパーへ買い物に行くのもやっとだった。

そんな自分が、旅行。しかも、飛行機に乗って。

メンタルブレイクしている人間にとって、「旅行」は負担が大きい。飛行機やホテルの手配、荷物の準備、現地での移動手段、目的地、店探しなど、とにかく頭を使うことばかりだ。調べることや考えることが多すぎて、気が滅入ってしまうのである。

「治療には遊ぶことが大事」と、主治医にも言われたし本やネットでもしばしば見かけた。だがしかし、なんせハードルが高すぎる。不安なことばかりが頭をめぐって「いやいやいや、絶対無理!!」と全身が拒絶反応を起こすのだ。肌に染み付いた場所で過ごすことが、なによりも安心だった。

だから、旅行に行くことは私にとってものすごく大きなチャレンジだったのだ。たとえ、ただ遊ぶだけであっても。計画をし、準備をし、時間通りに動き、長距離を移動し、現地でも体調不良になることなく無事に過ごす(車酔いはしたけど笑)。
普通のことのように思うかもしれないけれど、膨大なエネルギーが必要で、奇跡のようなことなのだ。

photo byあっこ

沖縄という場所は、美しく、悲しく、心地良い場所だった。
エメラルドグリーンの海、街全体に流れるのんびりとした独特な空気感、今なお残る生々しい戦争の傷跡。沖縄という地で懸命に生き、亡くなっていった人たちを思うと、生かされているのだと気付かされた。「生きていかねば」と思った。

沖縄のゆったりとした空気は、今の私にフィットしていて不思議と居心地がよかった。
なかでも印象的だったのは、いい意味でいい加減だったところ。
沖縄に到着してすぐのことだ。那覇空港からホテルへ向かうため、タクシーに乗ったときのこと。
飛行機から降りたばかりの客たちで溢れるタクシー乗り場に、流れるように次々とタクシーがやってくる。私たちが乗ることになったのは鮮やかなスカイブルーのタクシー。ところどころ錆びていて、随分とレトロな風貌だ。あまり見かけない車種に、「だ、大丈夫かぁ?」と一抹の不安がよぎった。
トランクにスーツケースを入れてもらうため後方へ移動すると、降りてきた運転手のおっちゃんが開口一番に放ったのは、
「ちょっと腰いてぇから、荷物は自分で入れてくりゃ〜」
だった。

😳

↑こんな顔になった。
えっ、お客さんに入れさせるんかいな!?と軽く衝撃を受けつつ、いそいそと母と共に荷物を積み込む。たしかに、ひげも白いし、お年もちょっと召されているように見える。そりゃ腰も痛くなるかぁ…なんて頭の隅でつぶやきながら。

だが、さすがは沖縄(?)。これでは終わらなかった。
タクシーに乗り込み、ホテルの名前を伝えると

「うーん?どこのホテルだっけなぁ。聞いたことあるようなないようなぁ。Googleで調べて、お客さん案内して〜」

😳う、うそやん!?

エセ関西弁が出るほどの衝撃。わからないから案内して、なんて人生で初めて言われましたけれども!?と、たまげてしまった。
車内にナビはない。おっちゃんが持っているのはガラケー。車体のレトロさから感じた不安は的中。(おいおい頼むぜ〜!)

だが、気づいたのだ。自分が無意識に持っていた「当たり前」という枠組みの存在に。
たしかに、運転手だからといってトランクに荷物を入れてくれるとも、空港近くのホテルを知っているとも限らない。いつからそれが「当たり前」だと思うようになっていたのだろう。勝手に期待して、理想のハードルを上げていたのだ。枠組みがぶっ壊されて、なんだか爽快で愉快な気分になった。
そうかぁ、こんなゆるい感じでも全然いいんだなぁ、と。肩の力が抜けた。(ちなみに、ホテルへは私のスマホでナビをしながら、無事たどり着いた。)

沖縄弁特有のゆったりとした話し方と訛りが、これまた「まぁ、いっか」という気持ちにさせるんだから不思議だ。バスも電車も当たり前のように10分以上遅れるし、街行く人の歩くスピードもどことなくゆっくりしている。横断歩道の前に立てば、どの車もすぐに止まってくれるのには驚いた(住んでいる場所では、なかなか止まってくれない)。
バスの降り口で小銭を落としてワタワタしても、「ちっ」という舌打ちや「早くしろよ」という小言が聞こえてくることなく、むしろ「あはは〜」と温かく笑ってくれる。みんなが等身大で無理なく生きているように感じられた。すごくいい。ゆる〜い感じがいい。息がしやすいな、と感じた。

そして、私にとってメインイベントであった「美ら海水族館のマナティに会う」も達成できた。9年前、シンガポールを訪れた時に初めて出会ってからすっかり大好きになった動物だ。体長は大人だと5mにも及ぶらしい。ジュゴンによく似た見た目だが、手や尾ひれの形が全然違う。水面に浮かぶ白菜を大きな手で抱えながらむしゃむしゃと食べる、草食哺乳動物。日本では、静岡と三重と沖縄でしか見ることができない。
丸っこい愛らしいフォルムで水中をのんび〜りと漂う姿がたまらなく可愛いのだ。何枚も写真を撮って大満足である。

美ら海水族館の大水槽は圧巻だった
2021年に生まれたマナティの赤ちゃん。可愛すぎる
こちらは大人のマナティ。丸くてのそ〜っと泳ぐ姿がたまらない。

そういえば、振り返ってみると旅行は6年ぶりだった。
学生時代の貧乏フィンランド旅行(本当にお金がなくてスーツケースの半分は食料を詰め込んで節約していた)を最後に、どこへも行っていなかったらしい。

この6年、色々とあった。
就職、大阪への移住、父の死、人生初の手術、人生初の無職、再就職、甥っ子の誕生、休職、note始動、人生二度目の無職。

なかなかてんこもりだ。
それぞれの出来事にぶつかるたび、感情を揺さぶられ、己の無知さ、無力さ、未熟さを思い知らされた。自分を責め、他人を責め、生きていることの意味を見いだせずもがいてきた。
今でもまだまだ未熟だし、未来への不安はそりゃあるけれど。少しずつチューニングしながら生きていけばいいのだ。

ここまで来るのに、本当にたくさんの人たちに助けられた。
母、姉、友人たち、元同僚や上司、病院の先生や看護師さん、薬剤師さん、カウンセラーの先生やコーチングの先生、市役所の福祉課さん、ネットで発信している当事者の人たち、noteで出会った人たち。本当に、あげたらキリがない。感謝してもしきれない。
たくさんの方達にサポートしてもらいながら、時に交流をしながら。バラバラに砕け散ったピースの形や色を一つずつ確認してつなぎ合わせて。ようやく自分を取り戻せた。

やっぱり、人間は必ず回復することができるのだ。
元気になるまでにかかる時間は人それぞれだけれど。回復するまでの時間に「長い」も「短い」もない。人と比べる必要もない。
本人が「お、そろそろだな」と感じるタイミングが、その時なのだ。
だから、焦らなくていい。自然とその時はくるから。
自分を信じて、少しずつで大丈夫。1ミリでも1ミクロンでも、進んでいることには間違いない。

大丈夫、必ず良くなるよ。だから、思う存分休むがいいさ。

1年前の自分に、そう声を掛けた。

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