余情 53〈小説〉
引っ越しの当日は曇り空で、蒸した空気が肌にまとわり付いて、うっとおしくて仕方がなかった。彼女は早くから起き、私の荷物を玄関先へ持っていくのを手伝った。何もなくなった私の部屋を見て、彼女は「本当にここで生活していたんですよね」と言って笑った。
母が来るまでの短い時間、私は彼女とお茶を飲んだ。ゆっくりと蒸らしの時間をとって、こっくりと濃く、甘い紅茶を入れた。彼女は、夏の盛りでも熱いお茶を飲み続ける私に、最初は付き合っていただけだったが、今では彼女ひとりで飲むときも熱いお茶を飲むようになっていた。
「おいしいですね」
穏やかな彼女の声に、私は黙って頷いた。そして私はそばに置いていたトートバックから、緑の本を取り出した。彼女の前にその本を置く。開きすぎて、ページの角は色を少し変えている。表紙の角も、もとの尖りはやわらかくなっている。
彼女はその本を見つめながら、私の言葉を待っていた。
「私の、大切なひとからもらった、たった一つのものだよ」
「そんな気がしていました」
「何にも、聞かないでいてくれたね」
「聞いたら、きっともっと早くにこの同居を解消していたでしょ」
「そうだね」
「やっぱり」
「昔みたいに、口にしなくなったのは、いっしょにいるため?」
「当たり前じゃないですか」
「私なんか、なんで好きになっちゃったかな」
「そんなこと、言い切れるようなものがあったなら、こんなにいっしょに居たいなんて思わなかったですよ」
「どうして」
「好きがきっちりとして固まっていたなら、変化していくことが許せなくなるでしょう」
「そうかもね」
「私は、ずっといっしょにいたかったです」
「ありがとう」
彼女は、目に張る水の膜を何とか堪え、私を見た。
「この本を、置いていくってことですか」
「そう。私の勝手な気持ちだけど、ここで暮らしていた時間を私はちゃんと愛していたよ」
彼女は頷かなかった。そしてチャイムが鳴り、三人の女の手で荷物は運ばれた。私の顔を見た母は驚いた表情をしたが、一瞬でそれを引き締め、彼女に挨拶をした。深々と下げる母の頭に釣られるように、私も頭を下げようとしたけれど、燃えるような目で私を見ている彼女に、それは押しとどめられた。言葉は何も出てこなかった。
アパートの下まで見送りに来た彼女は、けして手を振ったりはしなかった。ただ私を見つめていた。それはまるで糸を巻き付けられているような、力をもった視線だった。色にするなら赤い。細く強いその糸は、どうすることもさせずに私に巻き付いて、身動きを狭めるようだった。
乗り込んだ車の助手席で、私はぼんやりと窓の外を見た。窓に反射した自分の腕や首を見ながら、いつまでも糸が絡みついているのが見える気がした。
父は、私が戻ってきたことを喜んでいるようだった。言葉にしてそれを表しはしない人だけれど、口元や目に、その気持ちが滲んでいた。彼女に遠慮して、アパートに来ることはなかったが、母を介して話は聞いているようだった。父も母も、私が仕事を辞めたことにも、これからのことも、何も言わなかった。ただ「ゆっくりしなさい」と口にして終わりだった。
私は元の自分の部屋に戻ってきた。そこには、打ちのめされて十年を生きた私の影と、再びあなたに相見えることが叶ってきらきらとした私と、そしてそこからの再びの十年を生きてきた私が、そろっていた。今朝までいた部屋よりも狭い自室で、私は言葉に出来ない閉塞感に襲われていた。手入れのされていたベッドに、私は倒れ込み、そのまま目を閉じてしまった。夏の日差しはカーテンの向こうで真摯に眩しく、弱くいれた冷房がじわじわと私の肌を沈めていった。
その日も、私が目を覚ましたのは夕方頃だった。階下へ下りていくと、母が「お昼に一度、声を掛けたけどよく寝てたから」と笑った。昼に用意したものがあるけど食べるかと聞かれ、私は少しだけそれに箸をつけた。全てを食べることは出来なかったが、やはり母は何も言わなかった。
母にお風呂をすすめられ、私は黙ってそれに従った。あれだけ寝たというのに、私はまだ眠たくて仕方がなかった。湯船につかりながら、うとうととしてしまったくらいだ。
風呂から上がると、ちょうど両親の夕食の席を横切ることになったが、二人ともまた「ゆっくり休みなさい」と言うだけだった。
私はたくさんの人に甘やかされている。私は、ふたりに「お休み」と言って自室へと戻った。
あなたの命日まで、もう二週間ほどだった。
私は彼女との約束を破り、病院へは行かなかった。近くの病院を調べることもしなかった。ただ毎日ベッドと台所、トイレとお風呂を行き来するばかりだった。荷物もほとんど荷解きをしないままにしていた。冬服などは処分してもよかったが、それを実行する気力が湧かなかった。まるで息をしているだけの屍のようだと思いながら、眠たく、重たい体をベッドに沈め続けた。
部屋で着るだけの服は、この数週間でひどく傷んだようだった。それでも構わず着続ける私に、母が新しいTシャツを買ってこようとしたのを、慌てて止めた。母は驚いた顔をして、私をみていた。まさかもうすぐ要らなくなるので買わないでくれとは言えず、私はこのくたっとした感じが気に入っているのだと誤魔化した。母は、「いつまでも子供みたいね」と笑ってくれたが、母の中に小さな罅が入ったことが伝わった。
部屋でベッドの上に寝転がりながら、頭の中に日付を浮かべた。一日がつぶれて消えていく度に、体の重たさが増していくようだった。それと反比例して軽くなっていく心に、私は卑怯だと憤った。それが粗末な感情だとも思いながら。
携帯は電源を切ったままにしていた。実家に戻ってからは一度も触らなかった。
そうして、その日はやってきたのだった。
九月四日。私はゆっくりと体を起こし、その日を受け止めた。
私はずっと放っておいた箱の一つを開けて、一冊の本を取り出した。開けないまま過ごすことも考えたけれど、それはあまりに誠意に欠けたことだと思えた。その本は一番最後に詰めたものだったので、箱を開けた瞬間つよくその存在を主張した。彼女の贈ってくれた、赤い本だ。手に馴染んだ表紙の感触に、涙が出そうになった。今ここにはない緑色が恋しかったが、あの本を彼女に託したことには後悔はなかった。私の中に愛があるのなら、それはあの本の中に詰め込まれている。そう思ったから、あの本を彼女のもとに残したのだ。私が居なくなった後、あの本を彼女がどうするかは分からないけれど、私はあなたの託してくれたものを、私の手で終わりにできなかったのだ。
私は出来るだけ何気ない風に表紙を開いた。今までで一番穏やかにこのページと向き合っていた。緑の本と違い、ほとんど捲られることのなかったこの本は、今でも新品のような匂いがした。白にわざと混ざったくすみ色、緑の本と同じように、一ページに一行が印刷されている。それは熱情を形にしていくような、言葉の連なりだった。恋なのか、家族への複雑な気持ちなのか、心に閉ざすことにした想いなのか、その相手も、心の名前もこちらに見せることはないまま、ただ熱量を押しつけ、そして納得させられるような詩だった。
私はそれを読みながら泣いていた。読んでいる間には気付かないほど静かに、涙は流れていた。これは、彼女からの手紙なのだと分かった。そして、彼女は私があなたのことをこれほど想っていることを知っていた。私も彼女も同じのだということを、彼女は私に知ってもらおうとしていたのだ。もちろん読まないということも考えただろう。それでもこの想いを、私がただ手にしていることを願った。
私は本を閉じると、元のようにまた箱の中へとしまった。彼女には、私が読んだのかどうか、分からない方がいいと思ったのだ。
私はそのまま、しばらく涙が流れるのに任せた。涙が流れていく間、この十年を見渡していた。
高校生活で出会ったもの。大学までの道のりは同じだったのに、家を離れる選択と彼女との同居を受け入れたこと。仕事は、一度目の十年の時よりもずっと気持ちが動く仕事だったこと。本を読んだ量はそれほど変わりないはずなのに、私の中にはたくさんの色が残されていた。色の付いた小石が私の歩いてきた地面に埋め込まれているみたいだった。振り向くとそれは美しく、道を豊かにしてくれていた。
私はそっと、抱えた自分の足を見た。そこに塗られた色を見た。この色もまた、やさしく美しかった。私は熱い溜息を吐き出し、そして支度をはじめた。
涙を拭った私は、顔を洗い、そして部屋着から少しばかりきちんとした服装へと着替えた。髪を整え、久しぶりに鏡の前で自分をまじまじと見つめた。
準備は出来たことを、確認する。
私は時計を見た。
あの日、私の自殺は成功していたのだろう。それならば、同じ場所を選ぶべきかと考えたけれど、どうしても私の頭には違う場所がちらついていた。
私は移動に必要な分の金額だけを財布にいれて家を出た。九月に入ってはいても、まだまだ日は長く、熱気がコンクリートから立ち上っていた。
私はバスに乗り、あなたを最後に見た葬儀施設へと向かった。
私が最初に自殺を考え、そして約束のために思いとどまった場所。あなたの死に対面した帰りに、足を運んだ歩道橋。そこを目指して、私は歩いた。歩きながら、今日は母に会わないままだったことを思い出していた。最後の日に、いつもはしている挨拶をしなかったことを後悔する人の話をよく聞くけれど、私は家に戻ってからも、ほとんど母と直接顔を合わせるのは夜くらいだったのだから、その後悔は残らないだろう。なんて見当違いだと自分でも呆れるようなことを考えて安心しようとしていた。
私が歩道橋を見つけ、そこに上るころには汗が額に浮かび、流れた幾本かを手で拭った。交通量の多さは相変わらずだと、欄干に腕を絡ませながら下を見た。夕方に近付くと、帰宅ラッシュがはじまる。家に帰る人、どこかへ向かう人、彩りというほどの色はない景色を眺めながら、ふと、ここで死ぬことはあまり良いことではないかという気持ちが湧いてきた。私の死に、巻き込むことの偲びなさと、もし私以外の人の人生を狂わせることになるということが頭に過ぎったのだ。本当なら、こんなことはもっと早く頭に思い浮かべるべきだったのだ。それが出来ないほど、私は浮かれていた。もしくは、焦っていたのかもしれなかった。
私は財布の中のお金が僅かしか残っていないことを思い出した。ここから一番近い、死ぬのに適した場所はどこだろうと考えた。傾いてきた日差しが、目に入る。その眩しさに私は顔を顰めた。
眩しさから、陰影のおかしくなった視界のなかで、私は自分の目を疑った。私が上がってきた階段の方から、彼女がやってきたからだ。
彼女は白いワンピースを着て、肩で息をしながら真っ赤な顔でこちらへとやってくる。私の前まで来ると、彼女はぐっと力を込めて、呆然とする私の腕を握った。その力の強さと素早さに、たじろぐ。そして彼女の目に渦を巻く感情量の多さに言葉を失った。
直感的に分かった。彼女は、分かってここへ来たのだ。確証があったのだ。私の手をこれほど強く掴むほどに、決定的なものを抱えて、今日に目覚めたのだ。
申し訳ないことをした。そう感じていた。そしてこの手を早く解かなくてはと。
「どうしてここに居るんだって思ってますか」
「そうだね」
正直そんなことはどうでも良かった。彼女の掴んだ手が熱く、その肌の色が常では見たことがないほど真っ赤になっていた。それが痛々しく、はやく室内に入った方がいいのではないかと考えていた。それと同じくらい、癇癪を起こしてしまいそうな自分に怯えていた。
「今日の日付は覚えてました。毎年のことでしたから。私記憶力はいいんです。なので、この突然の引っ越しや仕事を辞めてしまったことで、ああ、今年なんだと思いました。私が気付いていることを感付かれたら、日を変えてしまう恐れがあったので、何も言いませんでした。今日、この手を捕まえていなくてはと思っていました。最初は何度か付けていった病院に行きました。歩き回って、焦りました。ここで命を絶つつもりではないのなら、どこだろうと考えて、闇雲に歩いてもみましたが、思いついて先輩のお母さんに電話したんです。そうしたら、先輩の想い人の親類の方に繋いでくれました。ちょくちょく会っていた人って、彼女ですよね。連絡をすると、驚いたようでしたけど、すぐに事情を飲み込んで行きそうな場所、死に場所に選びそうな場所を教えてくれました。その中にここがあったんです。正確にはこの近くの施設を教えてくれたんですが、人が居る場所では死なないだろうと思ってました」
荒い息をくり返しながら、彼女は目と手の力を強めていった。言葉を放つ度に、力がこもっていく。
「すごい勘だね」
「勘じゃないです。言いましたよね。毎年付けてたんです。毎年、今年なんじゃないか、この日に死んでしまうんじゃないかって、考えてました」
彼女の目から涙が一粒零れた。横から差す、明るすぎる太陽に照らされて、それは宝石のように輝いていた。それは彼女の生きる強さそのもののようだ。
「ねえ、この手を放してくれない。痛いんだけど」
「死なないって、約束してくれますか」
静かで、鬼気迫る声だった。あの日から私に絡みついたままの赤い視線を、追ってここまで来たのだと言われても、まったく不思議には思わなかっただろう。
彼女が約束という言葉を使わなければ、私は頷いたかもしれない。嘘をつくことに、それほどの罪悪感を持たないまま。約束。その言葉でさえなければ、苦しくはない。
「できない」
彼女の顔が悲痛に歪んだ。今しかないと思った。瞬間に決心はついていた。私は彼女の中に湧いた絶望の一瞬につけ込んで、腕を大きく振り払ったのだ。加減のできなかった力は、彼女をよろけさせた。それを目に止めながらも、私は彼女に手を伸ばさなかった。崩れる彼女を置き去りにして、来た方とは反対側へと走り出していた。
彼女が悲鳴を上げた。その声から逃げるように、私は走った。
体力の落ちていた私は、足を何度ももつれさせた。喉を、脇腹を、焼くような痛みが走った。それでも止まることは出来なかった。土地勘があるわけではなかったけれど、ただ体が傾く方へ走った。大きな道を外れ、商店の少ない道を選んでいくうちに、飛び出した先に川があった。
ほうら、やっぱり。
心の中で、私は笑い声を上げた。
一度目と同じ場所にやってくるのじゃないか。
導かれているのだ。私の運命は、ここで終わりだから。
昼の光とは違う反射で煌めく川面を目指して、私は走った。喉の奥が切れているのか、口の中は血の味でいっぱいになっていた。気持ちが悪く、目眩がした。それでも、足はちゃんと動いた。十年を二回もくり返したのだ。今日のために。今日がやってくると信じて、私は自分の心を説き伏せてきたのだ。
私は橋の真ん中へと走った。大きな川だった。その真ん中に、私は走った。
「待って」
背後から、彼女の声が聞こえた。悲鳴のようなその声に、私は思わず振り返った。彼女は泣いていた。幾筋も流されたその線に、光は容赦なく照りつけていた。それは今まで、幾度も私が流した涙だった。夜の中、早朝の暗闇の中、自分の部屋の中で、たった一人で抱えてきた涙だった。それを彼女もまた流してきたのだ。
足を止めた私から、数歩はなれた場所で彼女も止まった。息が互いに切れ、息をするのも苦しいほどだった。
行き過ぎる車の窓から、私たちを見ている人の目が一瞬合っては通り過ぎていく。橋の下の整備された遊歩道を散歩する人が、犬と共に私たちを見上げて居た。
「もう、私は十分待った」
私は叫んでいた。眩しくて仕方なかったけれど、精一杯に目を開けた。傾ぐ体のために掴んだ欄干の熱が、手をじわじわと焼いていく。皮膚のやわらかな部分が、熱に浸食されていく。足が、体が痺れていくのを何とか支えながら、私は彼女へ叫んだ。
「十年と約束した。私はその約束を果たしたの。もう楽にしてほしい。あの人がいない時間は、これ以上はいらないの」
「そんなの知りません。私と生きて下さい」
負けじと叫び返す彼女は、ゆっくりと私に近付く。一歩を引き摺るようにしながら、彼女が迫ってきた。世界は、色数を抑え、光の中にあった。大きな鳥が飛んでいくのが、地面に落ちる影で分かった。
「できない。私は、約束したの。十年を生きることを。それは果たした。私は、あの人の願った時間以上は生きない。あの人がいない世界には生きない」
彼女の顔が歪んだ。その手が、それでも私の方へ伸びてきた。その熱さや、力強さを知っていた。映画を見ながら私の腕に絡めた、彼女の腕を思い出した。彼女のほっそりとした腕。私の爪に色を塗った手。そのやさしい触り方が、私の体中で思い出された。
それを私は、全て、泣きながら振り払った。そしてそのまま、川へと落ちた。彼女が駆け寄って橋の上から顔を覗かせていた。落ちていきながら、彼女の目を見た。まだ諦めていないその目を見ていた。
「ごめん」
川面に体が叩きつけられるほんの僅か前、私は零した。この世界に残していく気のなかった言葉。彼女が飛び込もうとするのを、誰かが押しとどめていた。それが目に残った映像の最後だった。そして私は川の中に飲み込まれていった。
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