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「母性」とは何なのか

今日、湊かなえさん原作の映画、「母性」を観てきました。

公開前は、けっこう乗り気で見ようと思っていたのですが、
なんだか少し気持ちがぐらついて足を運べずにいました。

それを観ようと思い立ったのは、
最近はじめたオラクルカードの占いの結果を見たからです。

私は、母との関係、もっと言えば家族との関係をうまく築いてはいけませんでした。
それは私の感性のためでもあり、
父の性分のためであり、
母の生き方の為であったと思います。
誰かのせいだけではなかった。
だけれど、子供の身分ではどうすることができたんだろう、と今も考えることがあります。

私と母は見た目はそこそこ似ているのに、
感覚が全く合いません。
母は人とを待たせても平気。
私は人との約束の15分前にはいないと心苦しい。
母は自分の食べたいものは情熱をかけて作るけれど、
私の食べたいものを聞いてくれたことはほとんどありませんでした。
それは私が野菜しか食べられず、母は肉が大好物だという違い故だったのだと思います。
私のおかずの多くは、母が肉を食べる付け合わせに切ったキャベツでした。

母に感謝していることもあります。
私の他の人とは違う感覚を気にしないでいてくれたことです。
手首を切っても、学校を休んでも、友人と夜中の散歩へでかけても、
何も言いませんでした。
(手首を切っていたのを隠したことはなかったのですが、スクールカウンセラーに言われるまで気づいてなかったと言い張っていました。はてさて)

そんな私と母の関係は、母と父の離婚の愛憎劇(+長年の義理兄、姉からの報復)で一気に壊れました。
私は母のことを“母親”だと思わないようにすることで、
なんとか一緒に暮らすことができる状態でした。
口を開けば恨み言を永遠に吐き続けそうで、それがしんどくて、
「母親ではない。他人だから、仕方ない」
と思うことでくっきりとした線を内側に引きました。

だからかもしれませんが、
「母性」で永野さん演じる主人公の母親(戸田恵梨香さんが演じています)が、自身の母親にたいしてどこまでも無邪気に愛を引きずり出す姿が、どこか滑稽で、それなのに羨ましくも感じてしまいました。
愛されている、という出発点がなければあんな風にはなれない。
ああ、この人はいつまでも自分を一番に愛してほしい相手として“母親”を選んだんだな、と清々しいくらいでした。

だからこそ、
彼女はあの火事の場面で娘の手をとったんだろう、と。
娘を愛したわけじゃなく、
もう母親自体が手遅れならば、彼女の言った、彼女を「未来に繋ぐ」存在の娘だけは失ってはいけないと手を伸ばした。

そんな母親の娘に生まれ、
そして自身の母の愛への渇望を自覚しながら今も母を慕っている主人公に、愛情深さを通り越して恐怖を覚えました。

母親は子供を愛さないといけないのでしょうか。

私は、
占いで母とのこれからをどうしたらいいのかを訊ねてみました。

そこで出たカードは“受容”と“解放”でした。

受け入れる。
そして手放す。

そのカードを見つめながら、
私は自分はきっと母に
「母親になってほしい」
「私を守って欲しい」
「私を導く存在であったり、助ける存在であってほしい」
とどこかでやっぱり思っていたのだと知りました。

「彼女は他人だ」
そう言い聞かせながら
「いつかどこかで母親に戻って欲しい」
と思っていたんだと。

あーあ。
もうがっかりです笑

でも、それはきっと無理な話で、
私の気持ちはいつまでも掬い上げられることはないでしょう。
なので私はそれごと受け入れることにしました。
丸呑みです。

母は、母の人生が一番に輝く生き方を選ぶ人です。
人を助けることには興味があっても、
娘の手助けを無償ではしません。
他人へは無償を語れても、
家族へは見返りを手を出して示す人です。

良き人であると信じている。

そんな彼女が私の母です。

私は彼女のその生き方のままで、母親なのだと認めます。

生き方が万別あるように。
私が私しか生きられないように、
母親になったって、自分をやめられるはずがないのです。

だから、
『母性』の主人公の「清佳」が最後に見つめる新たな「娘」との関係も、
二人だけの母娘の関係を築いていくのだろう、と。

対照的な祖母の姿も、結局は違う「母性」の姿に他ならない。
清佳の母親の「母性」もまた彼女だけが持ったかたち。

受け入れて、解放していく。
母親と娘の関係はそうしていつまでも螺旋階段のように続いていくのかと、
なんだか遠い気持ちでエンドロールを見つめていました。



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