余情 43〈小説〉
クリスマスから年始にかけて、本屋は忙しかった。包装を頼まれることが増え、また図書券もよく売れた。大量に注文を受けた図書券の包装を、手の空いた人で黙々と進めているとき、一人のスタッフが「前にいた店では何百とか頼む客がいて、残業して包んだ」という話をしていた。そこまでの数ではなかったが、いくつもの金額、個数での注文に、混ざってしまわないようにとなかなか神経を使う作業だった。売れる本の種類も、参考書やビジネス本以外の、きれいな絵がたくさん載っている本や、写真集、子供の図鑑や絵本がたくさん入荷された。それを並べながら、賑やかになっていく店の中の様子を見回すと、去年も見たはずなのに、はじめての光景を見ているような不思議な気持ちになった。
夜、店を閉める前に店長たちと手分けして季節にあった飾り付けを施した。緑やピンクのモールがあっちこっちにかけられ、レジ前には小さいけれど、ライトが点滅するツリーが置かれた。毎年このツリーの飾りを持って帰ってしまったり、壊したりするお客がいるそうだけれど、ツリーを見て歓声を上げる子供たちや、つい目元を綻ばせるお客さんを思うと、つい毎年飾ることにしてしまうと店長は言った。率先して店を率いていく店長ではないけれど、店のスタッフには慕われている人だった。
そんな店長に、私は帰り際に呼び止められた。店長は少しあらたまったような様子で、もうすぐ大学三回生になるけれど就職活動ははじめるのかと聞いた。早い人ならばもう動き出しているのを、私も知っていた。いや、そうではなくてもみんなが心の片隅でその方向を真剣に模索している時期なのだろう。けれど、私のなかの会議には、まだ一度もそのことについての議題は上がったことはなかった。一度通った道だと、それだけで注意力が落ちてしまうのかもしれない。または同じところを受ければ良いと、単純に考えていたのかもしれない。前の職場も家から通える距離というだけで決めた仕事だったけれど。またあの職場で必ず働きたいとは思っていなかったが、他に何かやりたいことがあるわけでもなかった。どうせ、勤めて数年で死ぬ人間なのだ。やりがいなどと、考える必要はなかった。
「これと言って何かはじめるつもりはありません。就活じたい始めるのも、たぶん他の人より遅くなるかもしれません」
「それは大学に残って、何か研究したいことがあるの」
質問に曖昧な返事を返す私を、店長は不思議そうに見た。仕事をまじめに進める私の姿からは、就職活動もしっかりと取り組む人間なのだろうと、想像していたようだった。考えるような顔になった店長に、私は手を軽く振りながら、訂正を口にした。
「そこまで深刻に将来を考えていないだけです」
「じゃあ、就職するつもりはあるということだね」
「そうですね」
店長は、うん、と何度か頷くと、私を真っ直ぐに見た。シャツの一番上のボタンは外され、冬でも腕まくりをしている店長の手は乾いていた。その手の平を一つこちらに開いて見せながら
「あのね、よかったらこのままうちで就職しませんか。給料はよくないけど、君は書店員に向いていると思うよ」
店長はにっこりと笑いながら言った。返事はすぐじゃなくて大丈夫だから、まずは考えてみてと。私は、はい、とくり返しながら、急な店長からの申し出に、体がふわりと浮くような心持になっていた。
帰り道の、冷たい風で頬を冷やしながら、私は考え続けていた。マフラーに鼻先までを埋め、闇の下りた住宅街を歩いた。星は冬になっても、大して見えない空の下、私はこの場所はいったいどこなのだろうと考えた。私のあるはずではなかった時間。これはいったい何なのだろうか、と。
タイムスリップにはいくつかの種類がある。私にとって決着が決まっている物語の中で、一度目と違う選択をすることに、いったいどんな変化が生まれるだろうか。その変化は、先の短い私に現れるのか、それとも私の死んだあとに、私が関わった誰かに、それは寄せていくものなのだろうか。
二人で住むアパートは、次の角を曲がると見えてくる。スニーカーのたてる微かな音は耳に馴染んで、闇夜にほのかに明るく浮かぶ気がした。
二階の窓に、明かりが点いているのが見えた。彼女はいつも自分の部屋ではなく、二人の共同スペースで私を待っていた。暑い日には、アイスティーを作って、寒くなってからはお風呂の用意をして。大体は私の方が遅くなり、朝は私の方が早い。そのために彼女が贈ってくれたキーホルダーを、鞄から取り出す機会はとても少なかった。
階段を上り、部屋のドアを開けようとすると、内側からドアが開いた。彼女だった。笑顔で私を見て、
「おかえりなさい」
と言った。私も
「ただいま」
と返しながら、彼女について中に入った。私のシフトや、帰り着くまでの時間を考え、お風呂にすぐに入れるようにしておいてくれているのだ。そこまでしなくてもいいと言っても、お風呂は二人が続けてさっさと入るのが節約になるのだと言うし、アイスティーは自分も飲みたかったのだと言い張った。やってもらっていること自体は、有り難いことには変わりないので、私は彼女が飽きるまで「ありがとう」と受け取っておくことにした。
「今日はまた寒かったですね」
お風呂から上がった私に、彼女は冷えた豆乳を差し出した。買い物はお互いに行ける方が行くようにしている。彼女は慣れ親しんだ豆乳を、好んでよく買ってきた。どうせ二人しか飲む人間はいないのだからと、私は牛乳ではなく豆乳を家に買い置くことに了解した。どうしても飲みたい時は、牛乳に限らず、自分の分だけを買ってきて飲むだけのことだった。
「ありがと。おかげで暖まったよ」
「私も入ってきますね」
入れ替わりにお風呂に立つ彼女を見送って、私もまた自室には戻らず、共同図ペースに置かれたクッションの上へと腰を下ろした。冬はフローリングだと足下が冷えるので、お互いに足首までを包み込む部屋履きを揃えていた。最初は抵抗のあったけれど、今では素足にあたるもこもこの感触にも慣れてしまっていた。
引っ越してきた時から増えたものは、今のところ殆ど無かった。安くなっていたホットプレートは、朝のパンを焼くのに便利で買ったが、役に立つだけではなく、きれいな赤色で部屋の中にいい色味を足してくれていた。フライパンよりもよく使うくらいだった。私も彼女も、今のところ料理の腕前は大して上達していない。お総菜だけではなく、混ぜて焼くだけのものも活用すれば、それほど料理の腕がなくてもなんとか飽きない夕食をよういることが出来ていた。今夜の夕食も、帰りに買ってきた割引済みの総菜と、彼女が切っておいてくれた野菜、そして買い置きしている味噌汁だった。テーブルの上に二人分のそれを並べながら、私は彼女が風呂から上がってくるのをぼんやりと待った。
誰かと食事を共にすることも、挨拶を交わしあうことも、順番を決めてお風呂に入ることも、互に役割をもって、生活をまわしていくことも、はじめてのことだった。一度目の人生では捨ててきたものだった。手にできたかは分からないけれど、差し出されていたとしても、見向きもしないままだっただろうもの。
とても不思議だった。この世界は、私は、どこに行き着くのだろう。私は死ぬことが分かっているのに、こんな生活を送っている。この状況は、どこにも影響しないのだろうか。一度目にはなかったもの、持っていなかったもの、考えもしなかったものが、今私の周りには溢れている。どこにも、何にも影響しないでることなど出来ないほどに、今の私は一度目の私とは違う位置に立っている。そのことを、私は認めないわけにはいかなかった。
彼女がドライヤーを使う音が聞こえてきた。タオルで水気を吸って終わりにしている私からは、なんて手間なことだと感じるが、彼女にしてみれば私の適当さが驚きなのだという。
ドアが開いて、彼女が入ってきた。先ほどまでのセーターにジーンズ姿から、トレーナーにハーフパンツというラフな格好に変わっていた。私の向かいに座り、蒸気した頬をふっくらと持ち上げて笑った。
「今日もお疲れ様です」
「お疲れ様」
先に食べていていいと言っても、私のバイトの終わる時間の方が総菜を安く買えるという理由で、私たちの夕食は九時を回って始まる。テレビのない部屋のなかで、互いのお喋りと、時計の音、冷蔵庫の稼働音や隣の子供の上げる笑い声がちょうど良く周りを包んでいた。
私は今日、バイト先で言われたことを彼女に話した。彼女は大袈裟なほどに喜び、自分の分の本も社員割りで買ってきて欲しいと言った。彼女はもちろん私がこの話を受けるだろうと考えていた。私も、いい話だとは思っている。家族を養うわけではないし、私一人が生活していくお金を稼ぐだけでいいなら、安いといえども十分な金額だった。ただ、どんどんと変わっていく道筋だけが、じわじわと私を不安にさせていた。
考えなければいい。そう思いそうになっては、それでも、あの十年を生きたあと、目を覚ましてあなたの病室の前に立った時の気持ちを思い出した。あの時、目にした確かな奇跡を、私はどうしてもまた目にしたかった。それが叶わなくなるのではないか。今更、その正解に答えてくれるものは無いのだけれど、ふと眠り損ねた夜、考えは夜と夜の狭間に落ちたように暗く、私の胸を塞いだ。
「まあ、まだ時間はあるから」
私が濁した答えを、彼女は素直に受け取ってくれた。遅い夕食を終え、片付けを二人でし、決まっている範囲でのスケジュールのすりあわせをして、私たちはそれぞれの部屋へと引き上げた。
自室のドアを開けると、どれだけ分厚い靴下を履いていても、冷え切った床から這い上がってくる冷たさに怯んだ。
明かりを点けると、私はいつものようにあなたのくれた本を手に取った。この表紙を撫で、もうすっかり暗唱することが出来る詩に目に通す。そうやってやっと、私の今日は終わりと区切ることが出来るのだ。
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