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【マンガ】『ゴールデンカムイ』その①鶴見中尉の謎を解きに行こう!!——小指の小さな道しるべ                 【マンガ・児童書・映画】『ゴールデンカムイ』『大空に生きる』『七わのカラス』『ディア・ハンター』『太陽の子』『ビルマの竪琴』を考える!

それは魂のための物語だ!!!


今回も前回に引き続き、2回に分けての投稿です。
ゴールデンカムイ、鶴見中尉の「小指の骨」の謎解きを。
長文です。覚悟のある方限定???いえ、ご興味あれば、どなたでも!

では、その①から、どうぞ!


累計発行部数2900万部超となった『ゴールデンカムイ』
マンガは完結、アニメは最終章の制作が決定。実写版はもうすぐドラマが始まる。

2024年9月現在

映画版の続編となるドラマシリーズ版第一弾!
WOWOW連続ドラマWで10/6(日)より独占放送・配信!!!(全9話)
   

2024年9月現在

「akiと本」は記事の性質上、常にネタバレ必至です。             
マンガを通読されていない方は、充分ご理解の上お進みください。         

主文

◯『ゴールデンカムイ』鶴見中尉の小指の骨

『ゴールデンカムイ』は野田サトル先生のマンガだ。
アイヌの少女アシㇼパと、元大日本帝国陸軍一等卒の杉元佐一が、アシㇼパ父の残したアイヌ埋蔵金の謎を解く旅をする。

その過程で巨大な壁となるのが、表題の鶴見中尉。同陸軍、第七師団の情報将校だ。彼は「北海道に軍事政権を実現させるべく、軍資金として刺青人皮及びアイヌ埋蔵金を追う*」(*「」部分はWikipediaゴールデンカムイ より一部引用) 

常軌を逸した中尉の埋蔵金への執着は、読者に不審感を与える。彼の真の目的や原動力が作中決してあらわにされないからだ。しかしやがて、肌身離さぬ「小指の骨」という核心が示され、これに伴い、中尉に心酔する登場人物たちにも猜疑心が広がってゆく(第232話「家族」)。

ところが、コトの詳細が明らかになったのちも(第265話「鍵穴」、第266話「小指の骨」)、中尉の内心のすべてが語られることはない。考察は読者に委ねられている。

この物語において「小指の骨」の本質とは、一体なんだったのだろうか?


◯同じ狩猟系で探してみよう

そういえば、思い出すだけで今でもイタい、指の思い出がある。
自分の指ではない、他人の指でもない。
本の中、しかもヒトでなく、若いワシの喰いちぎられた指の記憶だ。

『大空に生きる』。動物作家の重鎮、椋鳩十氏の作品である。
奇しくも『ゴールデンカムイ』を連想させる狩猟系物語だ。

巣立つ直前、親鳥をうしなった二羽のひなワシは、狩りの教えを受けぬまま、大自然に放り出される。なんとか生き延び、ひなワシから若ワシへと成長するが、ある日、大ギツネとの戦いで、指を一本、失ってしまうのである。

 あおむけに、ひっくりかえったのは、キツネの作戦であった。
 (中略)おそいかかってくるワシに、かみつくのにつごうがよいのである。

椋鳩十. 大空に生きる. (偕成社文庫3018). 偕成社, 1975, 48p.

巣立ったばかりの若ワシが、歴戦の大ギツネにかなうわけもない。頭を鷲掴みにしようと広げた指の一本を、喰いちぎられてしまう。

夜明けがたの空を、シュウと、飛んでいくと、朝のつめたい空気が、まだ、なまなましい指の傷にしみて、ずきずきと、頭のしんにこたえるほどの、いたみを感じるのであった。

椋鳩十. 大空に生きる. (偕成社文庫3018). 偕成社, 1975, 52p.

若ワシは腹ペコだ。身体に鞭打って狩りに出るが、ひりひりと痛む傷のために、素早い動作はかなわない。狩りは惨敗に終わる、それが、毎日続く。

まだ子どもだった私に、これはイタかった。描写があんまり真に迫っていたため、「ひりひり」は、その後私の頭の中で増幅し、「ミリミリ」と軋むほどになった。


◯とにかく「こゆび」は痛いのだ

とにかく小指は痛い。足の小指を建具にぶつけたときの痛さったらない。私だけではないはずだ。ドアに手指を挟んだ時も同じで、声を失ってしまう。
しかも、指の痛みに遭遇するたび、私の場合あの若ワシの、ミリミリとした「ゆびの切断面の痛み」が、脳内再生されるのである。思わず顔を背けたくなる、生々しさ。

身体の末端、なんの役にも立ちそうもない、ほんの小さな「いち」器官である。
なんだってこんなたった一本に、これほどまでに苦しめられてしまうのか。

◯私たちにとって「こゆび」とは?

そもそも日本において、小指は物語に取り沙汰されやすい器官のひとつだ。
「ゆびきりげんまん」や「赤い糸」。小指自体が、恋人の意味合いも持つ。

「指詰め」も日本に特有の文化で、指の切り落としだ。主に小指や薬指が選ばれる。懲罰的な理由でなされることもあれば、忠誠や愛の証として実行されることもある。

もちろん日本以外の国になると、小指の意味合いは変わってしまう。
海外において小指を立てるジェスチャには注意が必要だ。

シグネットリング(指輪印章)は、男性が左手の小指につける、紋章などを彫り込んだ指輪をいう。中世ヨーロッパに最盛期をみた文化で、社会的地位の高い権力者が、法的文書や宣言に公式性を示すため、判を押したり封蝋するときに使用した。装着に左の第五指が選ばれる理由は、その指が、宗教的・文化的意味を持たないためだという。 注1

とくに意味がないから、小指につける?小指に執着する日本人には、すこし、寂しくなるようなハナシだ。

けれど西洋にも実は、小指が大きな役割を果たす物語がある。
『七わのカラス』というグリム童話だ。


◯グリム童話『七わのカラス』の「こゆび」とは?

この短編は岩波文庫の『完訳グリム童話集』に収載されているが、福音館書店からも、ひとつの独立した絵本として出版されている。

今、絵本として手元にあるのは、フェリクス・ホフマン氏の作画が美しい、瀬田貞二氏訳の『七わのカラス』だ。一度書棚に納めたら二度と手放せない、所有を刺激される見事な作品である。

むかし。息子ばかり7人というある家に、はじめての娘が生まれた。
父親は急ぎ息子のひとりを洗礼の水汲みにやるのだが、後の6人も大騒動で追いかけて行って……もうわかるだろう……息子らは壺を泉におっことしてしまう。

ちっとも帰ってこない息子たち。父親は焦燥のあまり怒りに駆られ、呪いの言葉を吐いてしまう。

息子たちはカラスになり、家を去る。
そして何年も過ぎてから。年頃になった妹は、この事実を知って、堅い決意のもと兄たちを取り戻すための旅に出るのだ。

ところが、兄たちのいるというガラスの山にたどり着いたとき、それは起こる。山の扉を開ける鍵がない。

どうしたらいいでしょう? にいさんたちを たすけだしたいとおもっても、ガラスのやまへはいる カギがないのですもの。このやさしいすえのいもうとは、ナイフをだして、じぶんのちいさいこゆびをきりおとし、とのかぎあなにさしこみました。すると、とは、うまくあきました。

フェリクス・ホフマン(絵). 瀬田貞治(訳). 七わのカラス. 福音館書店,1971, 24p.

ああ痛い……自分で自分の小指を……なんて。
妹ちゃん、お兄ちゃんたちのこと、どうにもほっとけなかったんだね。
カラスになってしまった、兄たちを。

ただ、少し引っかかるのは、これが西洋の物語だということ。

とくに意味はない?それとも大切だった?

切り落とした小指に意味はないとか、無情にすぎる。こんなたった一本に、と言っておいてアレだけど、第五指が重視されないのは本当だろうか?贖いの文化を持つ土地の物語、「こゆび」は妹にとっても、なくてはならぬ大切なものだったと思いたいが、根拠もない。

それがついに、おっ!と思う出来事があった。

合気である。


◯事実としての小指の重要性 合気における「こゆび」とは

その日テレビから流れてきた情報は、わたしを驚かせた。小指がキモである、というのだ。

それは合気道を取り上げた情報番組で、NHKだったと思う。
小指は物を握る時に、とても重要な役割を果たす。小指を使わないと力が入らず、握った棒の引き合いに負ける、というのだ。

実際にやってみるとすぐにわかる。小指の力がないと棒は保持できない、引っ張られるとすっぽりぬけてしまう。

ネットで検索すると、合気に限らず、武道や格闘技の世界では常識のようで、考えてみれば極道の世界の指詰めも、そこを切って落とされると、刃物もロクに握れず戦闘員として役立たずになってしまう、という残酷もあるのかもしれない。

把持時における小指の事実には論文もあって、ものを掴む動作において、他の指に比べ、小指には特殊な親指との連動があるという。2022年1月18日付、scientific reportに掲載されたものだ。 注2

そう、そういうことが知りたかった。

「こゆび」は大事!


これなら、赤い糸が結ばれる理由もわかるし、切り落としが重要な器官の喪失だということもわかる。ピアノを弾く時だって、何度小指について説かれただろう。

短絡的だっていい、私はとても満足し、こう思った。

(とるに足りないから捨てたんじゃない)

そこまでして、なお取り戻したい兄たち。


「こゆび」は命や魂と引き換えのように。

テレビドラマの『恋人よ』では、プラトニックな愛の象徴として小指が扱われ、

山本周五郎の『小指』では、恋しい想いの情景となる。

映画『ピアノ・レッスン』では、官能の代償として人差し指が切り落とされ、

フィリピン・ルソン島へ渡った兵士は、亡き戦友の指を切り、焼き、遺骨として持ち帰る。

そして『ゴールデンカムイ』では、それが死んだ妻と赤子の小指の骨になる。

だけど中尉の「小指」は難しい。喪失?寂寞?何の象徴か。どんな思い故なのか。決して言葉では語られない。精神を何処かへ連れ出され、崩れた姿勢で腰掛ける。中尉の背の向こうに広がる荒涼が垣間見えるだけだ。


さあ、長い前置きだった。ここからが、本番だ。(やっと?)
鶴見中尉の小指の謎を、今から皆さんと一緒に解きに向かいたい。


◯「履歴書」と「子どもの小指の骨」という事実

鶴見中尉の過去にはモデルとなった実在の人物がいる。長谷川篤四郎という。 注3
昭和30年に72歳で亡くなったが、葬式の後、遺品の中に履歴書と子どもの小指の骨が残されていた。中尉の謎を解く為には、まず彼を知るところから始めなくてはならない。

以下に記述するのは、公式ファンブック内「野田サトル雑記コラム」に記載されている内容の一部要約になる。

長谷川篤四郎は不思議な人物で、遺族が初めてみるその履歴書には、不審な点がいくつかあった。明治36年召集をうけ、軍事訓練を受けるが、日露戦争には参加しない。突然除隊し、札幌で写真屋を開く。

これだけでも十分奇妙だが、なんとその2年後、ロシア、グラデコワで写真屋を開くのだ。5年間営み、帰国したのち、ごく普通に結婚する。だが身内のものが誰ひとり、彼のロシア時代を知らなかったというのだ。

さほど裕福な家庭の生まれではなかった長谷川篤四郎が、ロシアで営んだ写真館は実に4軒。当時の価格にして億単位の資金が必要であったという。

この謎については、執筆者である野田先生によって、緻密な考察が行われているので、未読の方はぜひご購入し確かめて欲しい。
だが結論は周知されている。私たちは鶴見中尉の過去を知っているから(第177話「長谷川写真館」、第178話「革命家」、179話「間宮海峡」)。つまりスパイだったのではないか、ということだ。家族に知らされぬも無理はない。

そして、ロシア滞在中に妻と子どもがいたのかもしれない、という想像だ。5年もの年月があれば、出会い、番い、子どもが生まれるだけの時間がある。

頑なに秘密を守り、だれにも何も語らず逝ったというのに、なぜ証拠となるものを遺したのだろう?

疑問をあましつつ、野田先生は「骨は篤四郎の子供のものであったのではないか」と、推理する。


「野田サトル雑記コラム」という枠組みで、長谷川篤四郎の記述に割り当てられたのは実に5ページ。野田先生へのインタビューと同等の分量だ。しかもこの記事には、編集の手が入っていない。

インタビューであれば、その「枠」の主導権は編集者側にある。
つまりここでは全権が野田先生に委ねられたのだ。文面は、先生の書いたままが掲載されている。

ファンブック内で異質を放つこの数ページ。
これを眺めるだけで察せられる。野田先生にとってこの逸話が重要であったこと、そして『ゴールデンカムイ』という物語を紡ぐ上で、大きな動因かつ推進力となっていたことが、窺い知れるのである。


◯『ゴールデンカムイ』 その事実は物語になる

野田サトル先生の手によって、物語となった小指の骨。

それは、創作の鶴見篤四郎を突き動かす根幹であり、実在の長谷川篤四郎が捨てきれなかった何かだ。

中尉自身にもわからない、どうしてもわからない。そこへ思考を動員すると、たどり着く前にあえなく敗退してしまう。
どうしても近づけず、混沌としている何かのために、彼は小指を捨てられないのだ。

それは、人智を超えた天のまったき謎の箱。小指の鍵は、ここにあるのに解くことができない。彼は見失っているのだ。箱をなくしたのか、それとも、どの箱であるのかがわからなくなったのか?

謎が解ければ、彼は解放され、小指を地へ埋め、思いを昇天させられるのに、それがわからないので、彼はなぜ小指を捨てられないのかがわからない。

彼は哀しむことを奪われている。その剥奪があまりにむごく、非人道を極め、加えてあいまいであったために、彼はよりいっそう回避不能なぼんやりとした深みにはまり込む。それは状況の残酷という緩慢な拷問だ。

骨という骨、肉という肉がミリミリと軋む。痛みに目が眩み、声も出ない。

苦しみのあまり彼は逃げ回っていて、常に別の何か、数々の常軌を逸した行動で賄おうとするが、それはむだな抵抗なのだ。
哀しむこと、哀しむこと。
彼の存在を確かにし彼を形成した社会、その中に生きる人間として、愛するものたちを弔い、自らの哀しみを実行するということ。それ以外、彼に救済の道はない。

彼は家に火を放ち、供養の真似事をするが、そんなものが喪の儀式になるとでもいうのか?(第179話「間宮海峡」)

鮮烈な映像は、私たちに誤解を与える。社会あっての人間だ、ヒトの最期には社会的儀礼に則った死を与えなくてはならない。それすら妻子に与えられないという無力、自分こそがこの結果を招いた元凶であるという苦渋、そしてそれらを連れてきた男への憎悪。業火は弔いではない、鶴見篤四郎の内面そのものの描写だ。

スパイであること、秘匿せねばならないということ、日本軍という逃れようのない巨大組織の隷属下にあるということ。自らも罪を負っているということ。

妻子の死を語り合うこともかなわない。絶対の封じ込め。彼の個としての存在は、実社会から完全に置き去りになっている。冠婚葬祭から叩き出された人間はヒトと言えるのか?どんなに彼が有能であっても、どんなに突き抜けた知性を備えていても、この不可能性には断じて歯が立たない。正当な弔いの不在に、かれの悲嘆は行きどころを失い、魂の浄化の手段をなくす。

そうして中尉の精神は半永久的に迷宮を彷徨う。

それは最初から決まっていた、彼が召集され、使命を帯び写真館の主人あるじとなり、異国の地に潜伏することになったはじめから、いっときの寄り道もなくまっしぐらに、その残酷へ向けて突き進んだのだ。その茫々とした最果ての孤立は、彼の魂への殺人的暴力に等しい。

悲嘆と向き合えないことでとどこおった巨大な力は、轟音とともに突破口に向けて発出される。喪の作業は通例の形から変容し、いびつな有り様に成長する。
その力学はあまりにもあからさまで、内面を曝け出すことを好まない鶴見篤四郎にとって、自身を気恥ずかしく思うほどだ。

しかし、彼の極度に発達した前頭前野、複雑に入り組んだ精神構造、行きすぎた洞察力、あまりありあふしたたる知力などのために、それらの力は豪胆な酒、近所に憚られるほどの慟哭など、わかりやすい代償行為へは変換されない。

思考は自閉的な妄想へとひずみ、やがて制御が効かなくなる。彼は静かに冷徹に膨大なエネルギーを軍事政権の確立という場へ注ぎ込み、ついには平易を保ったままおかしくなる。
その後どのような形で、自らの狂気の渦に周囲を巻き込んでゆくのかは、物語に示されているとおりだ。

彼は前頭葉を吹っ飛ばされるずっと以前から、死場所を求めるように、その形を希求する。それが彼の望みにぴったりだったため、彼は吹き飛ばされた脳の一部という欠損を嬉々として受け入れる。その危ういかたぶきは、魂の際どい綱渡りをしてきた部下たちにとって、渇水を満たしてくれる無二の存在。震えるほどの恍惚の中、彼らは篤四郎を愛してやまぬ。

しかしこれらの様式は、決して人生の謎を解くための鍵たりえない。中尉は、小指の骨が浄化への確かな道標であることから目を背け続ける。けれど、彼の無意識の直感が、それを捨て去っては、もう二度と解にたどり着けないと知っているため、捨てる、という行為には及ばない。


月島は激昂する、無意識だろうがなんだろうが、知るものか、救済の道しるべをこっそり持っていたなんて。自分だけ密かに何十年も懐に忍ばせていたなんて。

語らないという嘘っぱち、ひとことの弁明もなされなかったという大罪だ。極悪非道の大悪党、大嘘ツキの大ペテン師だ。利用された、利用されたのだ。たったひとつのヨスガと引き換えに忠誠を誓った、すべてに目を瞑り、偉大な男の夢について行くのだと信じてきた、なのに。あの手この手で捨てさせておいて、捨てさせておいて、何だこいつ。

広大な理想の地図を掲げる勇壮の御姿、完全無欠に作り込まれた虚構の御影みえいは崩れ去り、謎の小箱を求めてやまぬ餓鬼の姿が露呈する。
それは姦通の数千億倍に匹敵する裏切りであり、万死に値する。

ただならぬ殺気が月島から発せられ、それは鯉登少尉のすぐ傍らで咆哮してしまったのと同じだ、少尉は月島の異様に凝然とする。(第265話「鍵穴」、第266話「小指の骨」)


中尉は捨てない、決して捨てない。物語の最後の最後まで。彼の魂は小さな小指の骨とともにゆき、小さな小指の骨とともに散る。(第313話「終着」)

その瞬間、掴み取った権利書はもはや意味を失う。小指の霧散に立ち会った中尉の物語はここで終わりを迎える。野田サトル先生による弔いの絵図は、鶴見篤四郎という人物の壮大な狂気狂乱を通過して、これこそが彼の求めた形であったと私たちの腑に落ちてゆく。その映像が、一瞬静止したかに見える中、ゆっくりと、ゆっくりと。

彼自身、気がついていなかったであろう、そのかたち。

『ゴールデンカムイ』の物語を生きた人々の、それぞれの思いがそれぞれに交錯する混沌の激戦の中、小指とともに弔われ、散ってゆきたかったというのか。ひとに還ってゆくために。

こうして鶴見篤四郎は到達した。この杉元との相打ちののち、肉体が生きて残るかどうかは問題ではない。小指の骨とともに鶴見中尉の魂の長い長い旅路はここで終わる。生死にかかわらず彼のその後は描かれない。もし描かれるとしても、小指の骨による同一性は失われているはずだ。私たちの知る『ゴールデンカムイ』の鶴見中尉ではなく、まったく別の人物になっているだろう。

だが杉元は違う。杉元には、彼が魂を保てるヨスガが残っている。

若かりし頃の水蜜の時を失い友を失い、愛しいひとからも離れ、容姿も匂いも変貌し、それでもなお生きのびる杉元に、小さなカギを見出みいだし手渡す者。

アイヌの少女、アシㇼパさんが。


***


◯酒席の前に ひとつささやかな小噺を

実は私の小指は、片方がもう片方に比べて僅かに短い。
大人になってから、ふと気がついたもので、もちろん切り落としでなく、遺伝的なものだ。
だが最近になって、私にはどうにも、この小さな異形が、ここに書き並べたいろいろと、関連づいているような気がしてきたのである。

木っ端微塵の体験のあるものたちに共通するであろう、ひとつの感覚に思いを巡らせる。

小指を噛みちぎられて、大空でプイッと吐き出され見失い、以来、カギがない、カギがない、と、ヒリヒリする痛みとともに、探し回っている感じ。
それを身体の真芯から知る人々には、この彷徨える魂の物語を、もうなんども、あきるほどに目撃してきたと思うに違いない。

もし小指と小箱が見つかって、そのカギを開けることができたなら。

人々はもう一度人間に戻れるかもしれない。


もしも、人間にもどれたなら。

なによりも一番にしたいと思うことがあるだろう。


たった一度でいい。
ヒトであるという確信の中で涙を流すということ。

その破壊を受けるに至った理由がわからないのなら、せめてただ、ゆるされていると感じたい。

いつか、この身を活くるにぴったりの、似合いの小箱を見つけだし、かそけきなぞをときたいものだ。



さあ、ここで終わりにしてもいいのですが、
もう数点作品を加え、さらに深掘っていきます。
迷走しても何とか辿りつきたい「akiと本」

まだ先へ進める方は、その②へ、どうぞ!



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