雑感104:生き延びるために芸術は必要か
数か月前にボケっとNHKのラジオを聞いていたらこの本が紹介されていた。ラジオで何を話していたかは、正直よく覚えていない。
正確に言うと、安い車なので防音性が低くてラジオの音がよく聞こえない。では、なぜ私はラジオを流していたのだろうか?
それはさておき、何となくタイトルに惹かれてしまって、ラジオを聞いた後にすぐに買おうと思ったのだが、紹介された直後だったからかamazonでは在庫切れ。しばらく経って思い出したかのように購入。本日読了。
結局、「生き延びるために芸術は必要か」どうかは私には分からなかった。ただ、「生き延びる」の主語の入れ替えに挑戦したり、明治、令和(コロナ禍)、17世紀のスペインなど、それぞれの時代において生きるとは何か?その時代において芸術とは一体何なのか?を筆者がとても純粋に、素朴に、正面から向き合いながら語っているのが印象的でした。
これが読者を説き伏せようとする「人生論」ではなく、人生論「ノート」を謳っているポイントなのかなと思いました。元祖『人生論ノート』は相当読みにくいようですが。。
とりわけ印象に残っているのはコロナ禍の無観客の展覧会。
別の章で出てきた表現ですが、芸術は「商品」ではなく「作品」であることに立ち戻す、学びの場としてのパンデミック。
あと、スペインの画家、ゴヤとベラスケスの絵画をテーマに、その時代を芸術家はどのように生き延びたか、言い換えるとどのように自己を表現したかに関する考察が興味深い。
結局、美術館に並ぶ絵画は私にとって今も「よく分からない」のですが、当時の時代背景や、熱狂、権力構造を思い浮かべながら「この絵画は何を伝えたかったのか?」「何を表現したかったのか?」・・・もっと突っ込むと「どのように時代に抗ったのか?」に思いを馳せること・・・この奥深い世界を少し覗いた気がします。ある意味で考古学的アプローチなのでしょうかしらん。
最後に、ものすごい私の身の丈に合った感想を書くと、旧劇のエヴァは「作品」に近く、新劇は「商品」に近いのかなと思いました。芸術よりマンガやアニメに触れてきた時間の長い私はふとそう思います。マンガやアニメも芸術でしょうか。
芸術家は「作品」を造ります。
では、漫画家やアニメーションの監督は「商品」を作らなければならないのでしょうか。「作品」と「商品」の間を揺れ動いているのか、そんなことを思いました。
さらに余計なことに考えを及ばせると、荒木飛呂彦先生の連載は、「作品」と「商品」を「昇華」させているようにも見えます。そういう意味は、新劇も一種の「昇華」なのかもしれません。
・・・何を言っているのか自分でもよく分からなくなってきたので、終わります。
(未完)
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