埴輪バラエティ
埴輪への人気が高まって来ている中、注目が集まっている東京国立博物館の「HANIWA特別展」(10月16日から12月8日)と市原歴史博物館の「旅するはにわ展」(10月12日から12月15日)を中心に、私が興味を持った埴輪に関して触れてみたいと思います。
尚、「HANIWA特別展」は、九州国立博物館で2025年1月21日から5月11日に移動開催の予定です。また、この展覧会の目玉である「挂甲の武人」に関しては、別の記事で触れさせて頂いていますので、ご興味ありましたらご覧ください。
人物
人面付土器
人のかたちをした土器です。縄文時代の終わり頃に初生児骨や歯が納められている容器形土偶が、山梨・長野県下で製作されているそうですが、弥生時代の人面土器は、この容器形土偶の系譜上に作られたものと思われています。この市原市三嶋台遺跡からの出土土器は、高さ18センチメートルと小型ですが、穏やかに空を仰ぐような顔の表情でさ、手をハッキリと表現し、首にはネックレスのような沈線(ちんせん)による弧線文があり、顔から胴部にかけて赤色塗彩されている様です。顔の塗り分けは入れ墨などの顔面装飾を写したものかもしれません。埴輪の走り的な存在とも言われています。
挂甲の武人
群馬県を中心に同じ形態の武人埴輪が5体出土されています。この容姿は、大映映画「大魔神」のモデルであるとされています。詳細記事は以下をご覧ください。
お相撲さん
出土した大阪府高槻市の今城塚古墳(墳丘長181メートル、6世紀前半)は、「真の継体天皇陵」といわれるだけあって、国内最多の200体分以上の埴輪が発掘されている様です。その中の一体がこの「力士」です。古墳は、天皇が神に祈りをささげた祭殿とされており、大量の埴輪群は、天皇崩御に伴う厳粛な皇位継承儀礼を再現したものという説もあります。しかしながら、天皇陵とされる今城塚古墳は、戦国時代に織田信長が砦(とりで)として使い、加えて、豊臣秀吉の時代には活断層による大規模な伏見地震で墳丘が崩壊したことから、ズタズタに傷めつけられてしまっているということです。一方、現在は、今城塚古墳公園(下記参照)として整備されている様で、上に触れた祭壇の様子も一部再現されている様です。私も、機会を見つけて訪れたいと思います。
琴弾き男子
茨城県桜川市出土と伝えられる琴弾きの男性ですが、椅子に座って、膝の上にのせた琴を弾いている男性の埴輪です。頭の左右に垂れ下がる下げ美豆良(みずら)を有し、頭頂部が少しとがっているので、帽子を被っている様子を表現しているのかもしれません。埴輪像の中には、頭頂部が三角の形状であるものが多くみられますね。背筋をピンと伸ばして、膝の上に置いた琴を両手で弾いています。大腿部と膝でしっかり琴を支えられるように、両足は軽く開き、足底部を支える小さな台が付けられています。この埴輪を横から見ると、琴を弾く両手の下の腰のあたりに、腕の長さと同じくらいの太刀を左後方に向けて差しているのが見えます。
あごひげの男子
こちらも茨城県出土と伝えられており、埴輪の総高が173㎝を有しています。差三角の大きな帽子を被り、顔の脇には巻き毛のような美豆良を有しており、また、三角の顎鬚を生やしており、童話絵本に出てくる妖精の様にも見えてきます。同じ形態の顎鬚男子は、日本各地で出土しています。古墳時代にこんな顔をした日本人がいたなんて信じられません。一説では、ユダヤ人の渡来人であるとの説を唱える大学の先生もあるようです。いずれにしてもナゾの多い武人埴輪です。古墳は、近畿地方に多いと思われると思いますが、実は古墳数第1位は千葉県で、1万2000基以上があるということです。これは奈良県や大阪府よりもはるかに多い数で、また群馬県、埼玉県、茨城県などでも、古墳時代後期の多くの古墳が発見されています。今回の顎ヒゲを蓄える人物埴輪は、茨城県の他に、以下の様に千葉県でも出土されています。
ひげの武人
この髭の武人埴輪は、九十九里の芝山古墳の中の人形塚古墳からの出土とされ、古墳時代6世紀の作とされています。この地区では多数の庇護の武人埴輪が出土しており、三角帽子、顎鬚、美豆良の姿である点が共通です。人形塚古墳の名の由来は、古くから人形をした人物埴輪が周辺でみられたためとされています。芝山古墳群では、この古墳以外に姫塚から同じ容姿の髭の武人埴輪が出土しており、このあごヒゲを蓄える人物埴輪は、上の茨城県に加え千葉県にも分布していることが知られていますが、千葉県内での分布は茨城県に比べて少ないとのことです。
冠帽の男性
三角の環帽を着けた男性の埴輪は、市原市山倉1号墳の出土で古墳時代後期6世紀の作とされています。 市原市の養老川を見下ろす台地縁に築かれた前方後円墳では、この後にも触れる色々の人物埴輪が出土しています。 一方、この山倉1号墳出土の埴輪とは、そっくりな人物埴輪が埼玉県を中心で見つかっていることや、使われている土の分析から、埼玉県鴻巣市にある埴輪窯群生出塚(おいねづか)遺跡で焼かれ、そこから運ばれてきたとされています。加えて、最近になって、埴輪の表面につけられたハケの跡が、生出塚遺跡のものと一致することが確認できたことから、そこで作られたことが確実であると、市原歴史博物館 特別展でも説明されています。円筒埴輪や形象埴輪を含め多数の埴輪が、80キロメートル以上の距離を運ばれてきて、この古墳に配置されたということになります。この当時、この地域では、埴輪を作る人たちの属する集団が存在し、支配者同士の友好な関係から、文化的な交流が形成されたとの説があるそうです。何れにしろ、古墳に関わる技術集団が存在していた可能性を示しています。
ちょっと話が脱線しますが、この古墳から南西に20kmの金の鈴が出土した木更津氏の金鈴塚古墳に設置されていた石室内で、埼玉県の長瀞渓谷付近からもたらされたと見られる緑泥片岩で作られた組み合わせ式の石棺の存在も知られており、埼玉付近の首長と東京湾沿岸の首長との密な関係性が伺えます。
振り分け髪の男性
人物像は、首飾りと耳飾りをつけ、美豆良(みづら)を結って、両手を腰に置いていますが、腰に剣は付けていないので当時の男子正装による文人像であるとされています。こちらも、埼玉県鴻巣市にある埴輪窯群生出塚(おいねづか)遺跡から同じ形態の埴輪が2体出土しているとのことで、同じ展示会にもやってきていました。そっくりでした。
頭巾をかぶる男性
この人物像は、頭巾状の帽子をかぶり、首飾りと耳飾りをつけ、美豆良(みづら)を結って、両手を腰に置いていますが、腰に剣は付けていないので当時の男子正装による文人像であるとされています。この埴輪は、埼玉県鴻巣市にある埴輪窯群生出塚(おいねづか)遺跡の出土で、上記までの3種類の人物埴輪と同じ工房、同じ技術集団により作成されたと考えられています。
鷹匠
鷹匠の埴輪は、群馬県太田市のオクマンヤ山古墳の出土で、古墳時代後半の6世紀のものとされています。飼いならした鷹を放って鳥等を捕える男性(鷹匠)を表現している様です。推定復元した部分もありますが、高さは約147cmで、左手には尾に鈴を付けた全長15cm程の鷹を止めています。巾広の鍔(つば)のある帽子をかぶり、肩まで垂らした美豆良(みずら)を結っています。裾縁に鋸歯文(きょしもん)を施した袴をつけ、腰には大帯をしめた格好で、正装した人物は高い地位にあったと考えられています。これは、その後の社会に照らし合わせても、鷹狩りが支配者層の狩猟行事であったことを物語っています。人物の表現の出来もさることながら、鷹、鈴、鞆(とも)、餌籠に至るまで巧みに造られていると思われます。
捧げものをする女
大阪府高槻市の大王墳である今城塚古墳の出土で、古墳時代後期の6世紀のものです。その手には盃の様な小さな皿を持ち、前に捧げだしています。頭上には、髪を模した粘土板をのせ、その中央を粘土紐で結び緒が表されている様子で、古墳時代の巫女とされる姿と予想されます。祭祀の中心的役割を果たす巫女は、「意須比(osui)」と呼ばれる袈裟衣に似た幅の広い祭服を着ている様ですが、下半身には広く広がったスカート状の裳が特徴的です。一方、足は素足で、足の指まで描かれています。
飾る女性
この埴輪は、群馬県伊勢崎市豊城町横塚出土のもので、古墳時代後半の6世紀とされています。髪は、島田髷(しまだまげ)を結い、また、耳飾・首飾・腕飾で装った盛装の女子とされています。丸襟の上衣は袖なしで上下2ヶ所を紐で留められ、下半身には、襞(ひだ)のあるスカートをはいている様です。盛装し儀式に参列する女子の全身を写し取ったものとされています。
踊る人
見た目に軽妙で笑いを誘う埴輪ですが、埼玉県熊谷市の野原古墳の出土で、古墳時代後期の6世紀のものとされています。省略的に表現されることが多い埴輪の中でも、この2体はより大胆な省略の施された埴輪です。いずれも腰から下が表現されない半身立像で、先を丸めて頭部を表した寸胴な円筒形を基調に、左腕を上に掲げ、右腕を前方斜め下にすえることで、正面から見ると両腕を逆S字形に構えたように見える仕草をしています。口と目の部分はほぼ同じ大きさの円形にくり貫かれ、目を見開き、口を大きく開けたかのように表現されていますが、失礼ながら軽妙な表情に見受けられてしまいます。この形態から、まるで踊りながら歌っているようにもみえ、踊る人と称されて来たようです。最近は、これから解釈が変わり、馬引きの姿を模したものであるという説が有力となっています。これらの埴輪は、片手を挙げ、もう片方の手を下げたポーズをとっており、馬の手綱を引く姿を表現していると考えられる様になってきたとのことです。
ひざまずく男子
右の男子は、群馬県太田市の塚回り4号墳の出土とされています。髪の毛が中分けで描かれ、垂れた髪を輪に巻いて紐で結んだ「美豆良(みずら)」の髪型です。左の男子は、茨城県桜川市青木の出土とされており、帽子を被っている様子ですが、垂れた髪を輪に巻いて紐で結んだ美豆良(みずら)の髪型であることが分かります。両人とも、両手には、腕巻きを装着しており、当時の正装なのでしょうか? また、脇には刀を携えています。何れにしろ、顔の描写も含めて、細部まで力が入っています。大王に礼を尽くしている様に見えます。
生活の周辺
王座
立体的な装飾を施した埴輪の椅子(いす)は、群馬県伊勢崎市 赤堀茶臼山古墳出土とされています。腰掛(こしかけ)部はU字形となり、肘掛(ひじかけ)用の丸縁が付いています。背もたれの上縁は2つの円が並んだような形となり、貴人にかざす翳(さしば:日除け)を表現したともされています。古墳時代の椅子の埴輪は出土が少なく、首長や巫女(みこ)といった特別な地位の人が座った椅子を模したと考えられています。
城壁
この埴輪は、見た目には、王の屋敷=城を模写しているのかと思いましたが、導水施設埴輪だそうです。この埴輪は、大阪府藤井寺市道明寺にあった狼塚古墳からの出土とされています。5世紀の作成とされています。この埴輪は、全体としては一辺1.2メートルの方形を呈し、上部に鋸歯状の飾りを有する箱形の埴輪で構成され、この箱埴輪大小8点を一辺2点ずつ組み合わせて方形の箱庭的な造形が形成されています。方形内部には角がとれた岩石片の石を敷き、中央には柄杓(ひしゃく)状の土製品を置いたとされています。この導水施設形埴輪のモチーフをめぐっては諸説ある様です。これまで、大王(天皇)や豪族による「水の祭祀場説」が主流となっていたそうですが、最近、死者を長期間安置する殯(もがり:通夜のようなもの)に関わる「殯の施設説」が登場したということです。実際の遺構としては未確認の施設ですが、その可能性が論じられている様です。
動物
飛ぶ鳥
木製の飛んでいる姿の鳥の副葬品はある程度存在する様ですが、埴輪の飛んでいる鳥は数少ない様です。この鳥は、和歌山市大日山35号古墳から出土されており、古墳時代6世紀のものとされています。鳥の埴輪は体長約50センチ。ずんぐりした胴体で短い首を前方に伸ばし、目的地に向かって真っすぐ飛んでいるような格好で、丸い頭に小さなくちばしが付いている姿は、かわいらしい雰囲気で、非常に興味をそそられます。右の翼しか見つかっていないとのことですが、両翼を広げた長さは、約60センチとされており、どんな種類の鳥をモデルにしたかは分からないということでした。
水鳥
市原市山倉一号墳の出土で古墳時代後期6世紀の作とされています。これも、埼玉県鴻巣市生出塚(おいねづか)遺跡の窯で焼かれ、はるばる運ばれてきたこととされています。頭部、脚部、尾羽などの破片が出土しており、幅広のくちばしと水かきのある脚の特徴から水鳥で、コハクチョウなどの渡り鳥をイメージしたものとされています。水鳥の意味としては、見知らぬ遠方との往来を葬送という「移動」に重ねたとの意見もあります。
ムササビ
ムササビ形埴輪は、成田市南羽鳥正福寺一号墳の出土で、唯一の出土例とされています。その姿は、飛膜を広げ空中を滑空する姿や手足の二股に分かれた爪を有しており、口の両端が後ろに裂ける形が、リス科の特徴をよく表わしているとされています。顔はちょっと軽妙で、一見、コウモリにもみえますが・・・・
鶏
この鶏の埴輪は、成田市南羽鳥正福寺一号墳の出土とされています。頭部には控えめにトサカが付けられており、胴体には縦横の線が入れられています。朝になると一番に鳴き声を上げることから、当時の人々にも興味ある存在であったのではないでしょうか?
魚
成田市南羽鳥正福寺一号墳の出土とされている魚の埴輪ですが、魚を模した埴輪は非常に少なく、加えてボラと判明している埴輪は大変貴重だそうです。ほかの魚に比べて胸ヒレの位置が高い、尾ヒレも中央から二つに割れている点と全体の断面の形が円形に近いなど、ボラの特徴をよく表現しているとされています。私には何となくクジラに見えてしまいます。
馬
群馬県内出土された馬の埴輪で、古墳時代後半の6世紀のものとされています。高さ71.2㎝を有し、その胴体には、4つの鈴で飾られた馬の埴輪です。鞍と鐙も綺麗に造形されており、加えて、目が横長で、他の馬型埴輪に比べて精悍な佇まいです。群馬では、古墳時代後半の非常に多くの埴輪が制作され、馬の産地であったことがうかがわれる様に、350点以上の馬の作品が見つかっている様です。詳細は、下記の「群馬の埴輪」の記事をご参照ください。
犬
多くの埴輪を出土している千葉県芝山町の殿塚古墳からの出土で、軽く口を開けており、単純な穴で鼻の穴と目を表現しています。足は省略されて、前足と後ろ足が、二つの台状で表現されているのが面白いです。耳は小さく立って、尾は上に巻き上げている様子から、日本犬の特徴を良く現わしているとされています。
埋葬施設
巨大円筒
円筒埴輪は、前方後円墳に多く見られますが、この様に大きなものは、初めてお会いしました。奈良県桜井市のメスリ山古墳出土で、古墳時代・4世紀とされており、高さ2mを超える日本最大の円筒埴輪だそうです。このメスリ山古墳は、墳丘長224mの前方後円墳です。ヤマト王権の中心地である大和(おおやまと)古墳群の南端に築造された、王墓とも呼ぶべき大きさの4世紀の古墳です。後円部の中央には埋葬施設があり、その上には石垣で長方形の壇がつくられ、その周囲には円筒埴輪が2重に立て並べられていたそうです。ここまで密に円筒埴輪を並べる理由としては、聖域として区画したい意図があったとされています。使用された円筒埴輪は、高さが約2.5mもあり、大和に君臨したヤマト王権の力の大きさを示していると思われます。高さ2.5mと非常に高いにも関わらず、胴の肉厚は2cmほどしかない薄さにも注目で、高度な制作技術が伺われます。棺の強度を上げるために胴体に帯状の突帯が8段ありますが、均等につけられています。
棺
香川県高松市 本堯寺北1号墳古墳出土とされていますが、古墳の痕跡は、今はありません。埴輪を利用した棺で、作成は4~5世紀とされ、長さ134㎝、径45~48㎝であります。通常の円筒埴輪を転用したものと、最初から棺桶のために特別に作られたものがありますが、その形状から、この棺は、円筒埴輪に突帯を多く巡らせて強度をもたせた形状であるので、後者ではないかと思われます。
御棺
古墳時代も終わりの7世紀のものとされる岡山県美作市野形での出土品です。前方後円墳の終焉後、畿内地方に集中する横口式石槨墳を中心に、アジア寺院建築等の影響を受け、発達したとされています。形態は亀甲形と家形があるということですが、これは亀甲型で、底部には低い中空円筒形脚が多数付いています。出現の背景には窯業技術の発達があるとされており、近畿・中国地方に多く出土しているそうです。かなり大型ですが、変形も無く出来上がっています。
底部穿孔壺
この底部穿孔壺(ていぶせんこうつぼ)は、市原市にある古墳時代前期(4世紀ごろ)の円墳「辺田(へた)1号墳」から出土とされています。辺田1号墳の埋葬施設の周囲には、畿内の前期古墳の多くに見られる排水溝を思わせる区画溝があり、周溝内からは壺形土器を中心とする土器が多く出土することが多く、土器の大半が、底部に孔があけられている底部穿孔土器であることから、被葬者を埋葬する際、あるいはその後に何らかの祭祀が行われていたと考えられています。この壺形土器の底部にも作成時に掲載された穿孔を観察することができます。
盾埴輪
写真は、模造の盾形埴輪ですが、原品は奈良県の佐紀陵山古墳出土とされています。作成は、4世紀と古く、大王墓域と目される佐紀古墳群、その中で最初に築かれた巨大前方後円墳である陵山古墳より出土した埴輪の模造だそうです。
古墳群の西寄りに位置する全長207㍍の前方後円墳で、幕末まで神功皇后陵とされていたそうですが、明治の初めに垂仁天皇の皇后、日葉酢媛命(ひはすひめのみこと)陵に認定されたそうです。この盾は大きく、「目」とされる字状に区画されており、木製の盾を模したものと考えられています。ヤマト朝廷の武力を強調していたのでしょうか?
扇状盾
この盾形埴輪は、531年に没した継体大王の真の陵墓と考えられている今城塚古墳の出土で、非常に面白い形の盾を模しており、表にも裏にも鹿の姿が描かれています。ほぼ同じ形の盾形埴輪が、山口県下松市指定史跡「天王森(てんのうもり)古墳」からも今年出土された様です。全形が上から下までほぼ残っている出土された2体の盾形埴輪が報告されています。この時代でも、ヤマト朝廷と山口県との繋がりが浅くないことを示していると思われます。
感想
さて、博物館の展示品を見ていると、埴輪の種類の多様さに驚かされます。ここでは、29例をもって記載させて頂きましたが、同じテーマでも、当時の作り手によってその出来上がりは様々で、見ることに飽きません。今後も、機会を設けて、開催される展示会、各地の博物館へ通いたいと考えています。気になったものがありましたら、記事を掲載させて頂きたいと考えています。