ヨーガの本質について思うこと
コロナ禍での自粛生活から普通に戻りつつある今日この頃。
というか
ヨーガ教室を再開したら前よりも多忙になり(または多忙のような気がしてるだけかも)自粛生活からの反動でワタワタしながら毎日暮らしていて、あっという間に月日が経っていた。
なぜ多忙な気がするのかというと
ヨーガに関する連続講座を始めたからである。
ヨーガの連続講座を始めてみて
これは実はコロナのおかげで開催できたと思っている。
時間があったので考えをまとめたり、テキストを作り込んだりできたからだ。
講座は前期と後期とに分けていて、前期は主に座学で(アーサナもやるけどね)基本的なヨーガの知識を学んで、後期はヨーガの指導をある程度できるような人を目指す。
今現在は前期がほぼ終わり、これから後期の指導者養成へと進んでいくところ。
前期をわたしの視点から振り返ると、想像以上に参加者の皆さんが進化/成長をしたようであった。これはわたしが何かをしてあげたからではなく、参加者自身が自分について考える時間を取ったこと、客観的に見てみた結果、だと思う。
そんな時間と機会を提供できて、良かったなぁと思い、素直に嬉しく感じている。
そこで思うことがある。
ヨーガを通して学ぶ事って何なんだろう
ヨーガの本質とか、本物のヨーガって何だろう
ということ。
ヨーガは気づきのためにある
前の記事で、ヨーガとは自分を見つめることである、と書いた。
アーサナ(ヨーガのポーズ)であっても、プラーナヤーマ(呼吸法)であっても、瞑想であっても、やる事は同じ。
それぞれを自分を見つめるツールとして使うのが、わたしが考えるヨーガだ。その方法論を学ぶのがヨーガ教室であり、教えるのがヨーガ指導者だと考えている。
なので、ヨーガ指導者は「生徒さんを変えたい」とか「生徒さんを救いたい」と思ってはいかんのだ、とわたしはわたしの先生から教えられている。あくまでも、実践するのは生徒さん自身であり、気づくのも生徒さん自身であるからだ。
ヨーガとは、気づきのための手法である。
とすると、ヨーガで学べるのは気づきのための方法とか、自分を見つめる方法とか、というところだろうか。
自分を見つめるのが難しいほど疲れていたり、精神的肉体的にしんどい場合には、手助けも必要だ。アーサナやプラーナヤーマを刺激として使い、悪い方に慣れてしまっている心身を柔らかくほぐしていく。
アーサナができるできないとか、キレイだとか、そうゆうものがヨーガではないというのがお分かりいただけるかなと思う。
ヨーガには色々な道があるけれど
ヨーガには色々な道があって、あくまでもこれはわたしが考えるヨーガの道。他のスタジオや教室では違うことを先生が言っているかもしれないが、それもまたその先生が考えるヨーガの道である。
ただここの所感じてしまうのは、様々なヨーガの道があってもいいけど、その手法ばかりを大切にしているのを散見するなぁということ。つまり、アーサナであれば、その取り方、筋肉の使い方、などを細かく伝えすぎてるんじゃないかなあと思ったりする。
細かく伝えれば伝えるほど、生徒さんは考えなくなる。現代人が陥りやすい「思考ゼロ」になってしまう。生徒さん自身が気づけたであろうところを、指導者が奪ってしまうように思う。
とまあ、わたしのような弱小の存在がこんなことを言うのも大変おこがましい事ではある。でも、ヨーガがビジネスとして成り立つようになった今、生徒さんから求められるままに、ヨーガを「すぐ効くクスリ」のように渡してしまうのはいかがなものかなあと思う。
ヨーガは対処療法ではないし、先生が目の前にいなくちゃできないのも本当のヨーガではないように思う。
ひとりでアーサナを行ない、自分を見つめて、気づきが生まれる。それがヨーガなんだとわたしは思う。
気づきの先には何があるのか。
それは、進化や変化である。
わたしたちは何を大切にするかによって、野人であったり、神人であったりする。ヨーガでいうところの、何とつながるのか、である。
正しいものとの結びつき、聖なるものとの結び付きを伝えることが指導者の役割である。
より良い方向に導かれる人が増えますように。
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