そうだ!宿場町に行こう!!~旧山陽道矢掛宿訪問記~
はじめに
プロフィールに歴史好きと紹介して、日本史に関係することを少しずつ書いていますが、noteに載せている話が古代・中世・近世・近代と様々な時代なので、気になる方はあなたの専門はどこの時代、何が専門なのということを思われるかもしれません。
私の専門は、武士が活躍する中世で、交通に関することを研究していました。大学の授業では中世という時代がどんな時代なのかしっかりと学び(日本史概説・概論は古代~近代までしっかりと学んでおります。)、それ以外に歴史全般が好きだったため、中世・近世・近代の放課後古文書解読会に顔を出したり、考古学研究会の手伝いをしたり(私自身は歴史研究部に所属していた)町家に残る近世の大福帳、手紙、古記録などの古文書解読や史料保存をボランティアで手伝ったりしていたりしました。
現在は大学を卒業して社会人となっているため、趣味で細々と郷土史などを確認、調べたりしています。
そんな私ですが、ふと宿場町に行ってじっくりと本陣や脇本陣を観たいなぁと思ったので、それでは旧山陽道の宿場町矢掛町を訪問して本陣や脇本陣の説明や解説なども出来れば面白いと思い、今回の訪問記となったわけです。
宿場町矢掛
矢掛町は岡山県南西部に位置する町です。
小田郡に属していて、小田郡の中心に矢掛の町並みがあります。
「やかげ」の名称が文献に出てくるのは今川了俊の『道ゆきぶり』で九州探題に任命された今川了俊が1371年(応安4年)「やかげ」に宿泊しています。ただし、この時には矢掛に宿場町はまだ無く、どこかははっきりとわかりませんが、矢掛町内の山城の城下町に宿泊したものと考えた方がよさそうです。
矢掛の町並みは小田川の北側に沿ってに東西に広がっていて、町並みの中心部に旧山陽道が通っていました。
江戸時代の山陽道は西国街道とも呼ばれ、幕府が直轄する五街道に次ぐ主要な街道であり、大阪を起点に小倉を終点とする約128里で、その間に宿駅が52駅ありました。
矢掛宿は、その宿場町のひとつとして小田川に沿った自然堤防上に設置されました。矢掛宿が設置された正確な年代ははっきりとは分かっていませんが、1615年~1642年(元和~寛永期)のころ、備中松山藩池田氏の時代に設置され、1690年代(元禄初年頃)の幕府領の時代にかけて整備されてたものと考えられています。武家諸法度が1635年(寛永12年)に改正され、江戸と領地とを隔年に往復する大名の参勤交代が制度化されてから、街道の整備が進んでいきました。
宿場町の最も重要な職務は幕府御用の荷物(御用物)・手紙(御用箱)及び幕府御用役人、それに参勤大名らを宿場から宿場に継ぎ送ることでした。これらはいずれも公共交通を最優先する仕組みで、継ぎ送りには宿場に備えた人と馬を無賃または格安の賃金で使用することができました。人と馬とで継ぎ立てる任務のことを当時は伝馬役といい、これらの任務に対する補償として、町内の屋敷地の年貢(地子)の免除も行われていました。この伝馬役は屋敷の間口に応じて負担したため、街道に面した町並み全体が一部を除いて間口が狭く、奥行きの長い屋敷(「うなぎの寝床」といわてます)が続くという、宿場町独特の景観を作っていきました。
こうした、町並み景観は変化した部分もありますが、今日まで伝わっているものもあります。その最たるものが国指定重要文化財となっている旧矢掛本陣石井家住宅と旧矢掛脇本陣高草家住宅になります。
国指定重要文化財として本陣と脇本陣が現存して残っているのは全国で矢掛だけですし、主要な街道で残っているというのも珍しいので本陣と脇本陣を見るだけでも価値があります。
旧矢掛本陣石井家住宅
本陣とは、 江戸時代以降の宿場で、大名、旗本、幕府役人、勅使、宮門跡など身分が高い者が宿泊、休憩なとに利用した建物のことです。
原則として一般の者を泊めることは許されていませんでした。宿役人の問屋や村役人の名主などの居宅が本陣に指定されることが多かったようです。
石井家は屋号を佐渡屋といい、古市から1620年(元和6年)に現在地に移住し、1635年(寛永12年)に本陣職を命じられたといわれています。庄屋を務めるとともに元禄年間頃から酒造業も営み、矢掛町筆頭の豪商であり、大地主でもありました。
表の間口17間に及ぶ現在の間口に拡大されるのは1775年(安永4年)頃で、これ以後の早い時期に本陣施設が整えられていったと考えられています。
1832年~1855年(天保3年~安政2年)にかけて再建された本陣施設のお座敷と主屋を合わせた規模は約130坪に及び、日光街道などの主要な街道の本陣規模とほぼ同じとなっています。
矢掛本陣と関係する人々
毛利敬親
毛利家としては、32回訪れていますが、その内の21回にわたり本陣に訪れています。(内19回は宿泊しています。)
遠山景晋
文化10年(1813)10月9日、文化11年(1814)8月17日、本陣に宿泊しています。
阿部正弘
天保8年(1837)3月6日、本陣に宿泊しています。
島津斉彬
天保から安政にかけて7回矢掛に訪れています。(内6回宿泊しています。)
頼山陽
1797年3月19日 、19歳の時に「発(發か)矢掛」という七言絶句を作っています。
頼杏坪
裏門「清音亭」からの風景の漢詩を衝立に残しています。
天璋院篤姫
嘉永6年(1853)9月17日宿泊。海で江戸に向かったとの説もありますが、矢掛宿石井家文書に、篤姫一行(総勢259名)が矢掛本陣に宿泊(本陣に53名宿泊)した記録が残っています。
バーナード・リーチ
本陣の南側にある嵐山に登り、本陣の絵を残しています。
犬養毅
「健行徳」の書を残しています。
十返舎一九
『方言修行 金草履 二六編』(東海道中膝栗毛とは別のシリーズもの、長崎からの帰路(西国陸路)を描いています。)に矢掛に宿泊し、石井家本陣の番頭スズヤリンスケ(銑屋林助:ズクヤリンスケの間違い)とのやり取りが記述されています。
旧矢掛脇本陣高草家住宅
高草家は屋号を東平田といい、1758年(宝暦8年)に現在地に居を構え、代々金融業を営みました。そして、1798年(寛政10年)頃から庭瀬藩の掛屋(会計方)を、後には札場(札元)として藩札(藩内通用の紙幣)の発行にあたりました。1816年(文化13年)から矢掛村庄屋を後に小田郡大庄屋をつとめるなど、本陣石井家とともに矢掛を代表する豪商、大地主でした。高草家が脇本陣に指定されたのは江戸時代末期と考えられます。同家に残された宿札によると、1864年(元治元年)の長州戦争に出陣する竜野藩主や岡山藩家老などが宿泊しています。このことから少なくとも同年までには指定されたものと思われますが、表屋と主屋などを新築した1845年(弘化2年)頃から脇本陣として利用されていたのではないかと推測されています。
間口17間、奥行き24間に及ぶ敷地は本陣に次ぐ広大なものとなっています。
おまけ
本陣と脇本陣の建物を見ることが目的だったのですが、他にも面白い建物が見れますし、町家の鬼瓦、出桁造り、虫籠窓(むしこまど)、袖壁などに注目して散策すると楽しめます。
佐藤玉雲堂さんのゆべしはオンラインショップでも購入できますので紹介しておきます。
映像資料
おわりに
今回の山陽道矢掛宿訪問記いかがだったでしょうか。
山陽道に関係する宿場町ということで矢掛宿をとりあげましたが、宿場町は日本全国様々な場所にあります。
この話を読んでいる皆さんの近くにもきっと素晴らしい宿場町はあるはずです。
その宿場町に興味を持っていただきたいと思うのです。
そして、その身近にある宿場町を調べてみると有名な方が過去に足を運んで宿泊しているかもしれませんよ。
最後になりましたが、写真撮影を了承していただいた関係者の方々と最後まで読んで下さった皆様に感謝を申し上げてお話を終わります。
参考文献
著者渡邊和夫・矢掛町教育委員会編 2009年03月
『石井家「御用留帖」』(全三五巻)矢掛町
矢掛町教育委員会内矢掛町史料編纂委員会編 1982年
『矢掛町史』本編、資料編 矢掛町
矢掛教育委員会 2012年
『宿場町矢掛を歩く』矢掛町
武泰稔 他 2002年
『矢掛の本陣と脇本陣』日本文教出版
半田隆夫 2008年12月
『薩摩から江戸へ篤姫の辿った道』海鳥社
バーナード・リーチ 2002年
『バーナード・リーチ日本絵日記』講談社