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海部公子という生き方

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洋画家、陶芸家であり、「ゴッホの手紙」などの翻訳でも知られる硲伊之助。その弟子であり、硲の精神を受け継ぐ海部公子さんの人生をたどります。
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#石川県加賀市

#8 海部公子という生き方

#8 海部公子という生き方

 硲伊之助は1921~29年、33~35年と戦前、2度にわたりヨーロッパに滞在し、芸術の都パリを中心に当時最先端の絵画表現の潮流を学び、吸収します。中でもアンリ・マティスと運命的に出会い、生涯の師と慕い、交流を深めました。戦後はそのマティス展、さらにはピカソ展、ブラック展、そしてゴッホ展の国内初開催に尽力。ヨーロッパの近代絵画が日本の国民に広く認識される原動力となりました。今回は海部さんの目から見

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#5 海部公子という生き方

#5 海部公子という生き方

 若干16歳にして渋谷駅そばに開いたおでん屋を通じて、海部さんは生涯の師となる硲伊之助と出会います。三鷹にある硲の自宅兼アトリエに通うにつれ画家の仕事に関心を深め、また硲の人間性に惹かれていきます。そもそも海部さんと絵のつながりはどこから始まったのでしょうか。小学生のころの思い出にさかのぼります。

おでん屋をきっかけに、絵の人生が始まった 五里霧中でおでん屋をやっていた時に出会ったお客さんで、丹

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#4 海部公子という生き方

#4 海部公子という生き方

 戦後間もない渋谷駅周辺は喧噪と活気に満ちていました。誰もが生きるのに必死な時代でした。「大和田胡堂」と呼ばれる飲食店街で、おでん屋を開いた海部さん。混沌とした状況下でも、持ち前の明るさと強さではつらつと店を切り盛りしました。その大和田胡堂での思い出をもう少し振り返ってもらいます。

おでん屋の向かいにあった外食券食堂 叔父がおでん屋を始めた私を見つけ出して「お前なんでこんなことやらなきゃいけない

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#3 海部公子という生き方

#3 海部公子という生き方

16歳で親から自立。友達とおでん屋を始めた 中野の上高田で母が薬局を開いて2年くらい経ったころでしょうか、中目黒、さらに学芸大学の近くに引っ越しました。そして私は中学校を卒業して働き始めました。神田の小さな商事会社の事務員でした。新聞広告で自分で見つけたんです。目黒高校の定時制に通いながらですが、結局、学校には10カ月しか通っていません。私の学歴はそこ止まりです。

 ところが働き始めた会社が半年

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#2 海部公子という生き方

#2 海部公子という生き方

 横浜で生まれた海部公子さんは終戦後まもなく、東京に住まいを移します。父親の商売や母親の薬局を手伝い、一家の食事づくりを一手に引き受けながら十代の多感な時期を過ごします。働き手としての自覚、家族の役に立っているという自負が、やがて自立心へとつながっていきます。

自営のパチンコ屋を手伝った 出征した父は外地に行くことなく、胃に穴が開いて送還されてきました。その後回復して自動車会社を興して、最後は友

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#1 海部公子という生き方

#1 海部公子という生き方

海部公子(あまべ・きみこ)さん。1939(昭和14)年に横浜で生まれ、終戦後、東京でおでん屋を切り盛りしていた16歳ころに、洋画家の硲伊之助(はざま・いのすけ)と出会いました。23歳で硲とともに石川県加賀市吸坂町に移り、色絵磁器の表現を追求する日々が始まります。まずは横浜での幼少のころからたどります。

 神道とクリスチャンの家に生まれて

 1939(昭和14)年9月9日、母親の実家がある横浜で

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#0 海部公子という生き方~プロローグ~

#0 海部公子という生き方~プロローグ~

 毎日たくさんの新聞記事を書いているのに、ちょっとどきどきしながらこの記事を書いています。

 記者になって24年がたちました。縁あって、3年前から自分の生まれ故郷であり、自宅がある石川県加賀市で仕事をしています。

 今回noteで書いていこうと思う「硲伊之助美術館」に初めて出掛けたのは2018年の初夏のことでした。加賀市で生まれ育ちながら足を運ぶのは初めてのこと。ただ加賀市に配属になる前に、尊

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