「シン・お年玉」~餅起源説を歴史・文化的観点から再考してみた~
前回の記事で、正月飾りや小正月のどんど焼きが年神信仰であることを知り、地方に残る正月行事の原形のような「トシドン」による子どもへの歳餅を贈る風習を知ることで、日本の原風景を想像することができた。このように調べていくと、必然的に気になるトピックに出くわす。
お年玉である。
自分も当たり前のように子どもの時にはいただいてたし、子どもを持って親戚づきあいが増えれば、甥っ子姪っ子などに贈るようになったわけだが、この風習は一体なんなのか、今まで誰も説明してくれなかったなと思い、子どもたちに渡すときには恩着せがましくうんちく言ってやろうと、調べ始めてみたタイミングで、隣のおじいさんに話を聞く機会があった。
白寿近いお歳のおじいさんは昭和一桁の時代にこの山村で幼少期を過ごしているだけに、どんな風習がここで行われていたのか、興味深い答えが返ってくるかと思いきや、
どこかでお年玉は戦後の風習だと聞いたこともある。では一体どうしたらほぼすべて(90年代支給率100%)の日本の子どもが大金を手にすることができる風習がこの短期間で根付いたのだろうか。このままお正月の痛い出費に耐え続ける必要はあるのだろうか。
かくしてお年玉の真相を明らかにすべく沼にハマりはじめたのである。その記録をよかったら読んでください。
お年玉=餅説を再考する
ネットを検索すると、お年玉とは、もともと年神が魂(タマ)を込めた「鏡餅」を家長が切り分けて、子どもたちに配ったのが始まりだった、という情報が大半を占める。
それを家族でそろって雑煮にして食べて、一年の健康を祈願した、とか。
ところが1950年代以降、日本の経済が豊かになってきた時代に人々が農村を離れて都会に住むようになった結果、人々にとって価値あるものが田んぼからカネになり現金を渡すようになった、という説明が各所でされている。
お年玉が餅だった、という言説はわりとよく聞く話であり、正月行事の原形のような甑島のトシドンが「歳餅」を子どもたちに授ける、という古き風習を見ればこれは確定だろう。
なるほどと合点したのも束の間、次の説明を見て、んん??となった。
お年玉はもともと「御歳魂・お年魂」であった。
お年玉の語源としてこの説は多くのネットメディアでも流布しているだけでなく、多くの神社も公式に発信している。がどの情報にも全くと言っていいほど出典が書かれていない。確かに魂とタマと読ませることは古語辞書でも確認できる。でもなんか、強引じゃない??
そんな直観に導かれて、お年玉について歴史や文化の観点からもう一度調べなおしてみたら、お年玉=餅説・魂説と断定しがたい、現代のお年玉につながる3つの流れを見出した。
お年玉を形成した3つの流れ
①農村での年神信仰
一旦お年玉は置いておいても、稲作を営む多くの地域で古くから年神を対象にした祭祀が行われてきたことは確かだろう。自分の地域でも年に数回神社で祭祀があり、神社本庁の定める様式に従って執り行われる。もちろんお正月には年神を祀る神事が大晦日から元旦にかけておこなれる。自分も集落のお役目として宮司の補助をする神事係を数年経験した。この祭祀では神様にお供えしたコメや酒、餅、海のもの山のものなどを、参拝者で分け合い食する、直会(なおらい)が行われる。そして最後に供えた鏡餅を割って、「餅投げ」をして参拝者に配り祭祀は完結する(これは正月に限ったことではなく季節ごとの祭祀に共通する)。
お正月に年神に豊作を願い、その恵みをわかちあうという文化自体は古くから認められるものである。お正月に贈られるものとしてお年玉にこれらの年神信仰が関係づけられたとしても不思議ではない。ただし年玉が餅であるかについては、トシドンの歳餅が手がかりではあるが、明確に歳餅が年玉、歳魂であると示すものは確認できなかった。
②宮中文化の拡がりと武家・町人文化への浸透
平安時代には宮中で正月を迎えると、天皇や貴族が家臣などに贈り物をしていたという。この際、贈るものは太刀、すずり、酒、金銭などだったとされる。この風習は武家社会にも引き継がれ、1604年の日葡辞典にもオランダ人向けに「toxidama」として紹介されている。江戸前期の年中行事解説書である『日次紀事』の「およそ新年互いに贈答の物、総じて年玉と言う」という記述も見られる(下川雅弘)。
自分でも古文書データベースで調べたところ、慶長6年(1601年)の高野山文書『又続宝簡集』の中で「足十疋慈尊院カモン所ヘ下ス、年玉也、返礼等アリ、」という文章を見つけることができた。これをGPT-4で現代語訳してみると、「慈尊院の政所に十疋(ひき)の布を与える。年玉(としだま)である。返礼などはある。」となり、年玉が寺社への贈答品として書かれていることになる(あくまでAIの訳文なので正確なものかわからない)。
この行事はやがて江戸時代に町人の間にも広まり、「年玉」として得意先に贈り物をする慣習となった。ここで年玉となったのは太刀や馬や服、扇、樽酒、昆布・干鱈・するめなどの海産物、ごぼうやこんにゃくなどの農産物、凧、さかずき、てぬぐい、お金など、、、身分に応じて様々なものが贈答されていた。さらに使用人には小遣い、子どもには折り紙や手毬などをあげていたという文献も残り、ひっくるめて「年玉」とする習慣は明治時代にも確認できる。そのうち子ども向けのものをお年玉、大人同士の贈答をお年賀とするようになった、とされる(下川)。
ただしここでも年玉と年神・餅の関係については確認できなかった。年神の魂であるとするには、贈与されるものが年神に供えられたものでなければならないが、そのような学術的記述を探すのは難しかった。
③中国からの影響
お年玉と同じように、正月に金品を送る風習のある国を探してみると、その起源はやはり中国にあるようだ。
伝説では、毎年大晦日に村を襲い、子どもを一人連れ去っていく龍がおり、ある年魔除けとしてコインを赤い袋に入れて子どもの枕もとに置いたところ、龍が退散していったという。このことから、今でもお正月には「圧歳銭(ヤースイチエン)」として子どもに赤い袋にコインを入れて渡す文化が残っている。
これはベトナムなどでもみられる文化であり、お守り的な意味合いが強い。金銭を送ることは何も現代の日本に限る話ではない。
中国では大人同士、上司から部下などにも「紅包」というご祝儀をお正月に渡す文化もあるという(AraChina)。
また中世中国における「歳幣」という慣習も見過ごしがたい。これは時代時代の中国王朝が支配下にある周辺国に毎年金品を贈って和親をはかったというもの(旺文社世界史事典)。
中国の文化を積極的に採り入れてきた中世の日本が、これらの慣習に影響を受けたとも考えられる。子どもにお守りを渡す文化が中国から採り入れられたかまでは定かでないが、可能性がないわけではなかろう。
というわけでまとめると、
①豊作祈願の祭祀 ②町人の贈答文化 ③子どものお守り
という3つの流れがあり、それぞれの中には
①信仰(家族や地域の安寧) ②贈与 ③お守り
という意味合いが見られる。
それぞれの関連性は明確でなく、どこでつながっているのかは定かでない。が、現代のお年玉の中にそれぞれ見られる要素である。
ということは現代のお年玉はこの3つの流れが習合した形になっていると見たのだが、いかがだろうか。それも割と最近に。
図に示してみた。
お年玉がほぼ100%現金になったことについては確かに戦後の現象であろうが、餅が金に替わったわけではなく、他に年玉として子どもに贈っていた小物が経済的豊かさを受けて金になった、アジア圏のお正月文化の中で違和感もなかった、という説明でよいのでは?
ちなみに、お年玉=餅説・魂説について、文献的な記録の有無について精査し批判的に述べているサイトがあったので、ご紹介する。匿名でのブログだしこれをソースとするわけではないが、相当数の文献は調べられているぽいので、参考にさせてもらった。
こちらは駒沢女子大学日本文化学科下川雅弘教授によるもう少しマイルドな見解だが、民俗学的見解と歴史学・言語学的見解に分けて考察されている。
一応自分でも調べてみようと、御歳魂、御歳賜、御年魂、御年賜など、お年玉=年神の恵みの起源とされているワードを「東京大学史料編纂所データベース」他いろいろなデータベースで検索しても、該当するものは全くヒットしなかった。もちろん、その結果だけが全てではないが、御歳魂いつから御歳魂説が言われているのか、全く不明のまま。「年玉」「年だま」については、江戸から明治時代の文献が見つかるが、その中に餅についての記述は探せなかった。
年玉=餅説はロマン主義?
想像するに、お年玉が現金となったことを拝金主義的と憂う人々がトシドンのような現代に残存するプリミティブな風習の中に、子どもへの歳餅の贈与を目にし、民俗学的なロマンあふれる解釈の中でお年玉=餅へのアイディアにつながり、「御歳魂」として説明を試みたのではないだろうか。もしくは、そのような想像として語ったことが、伝言ゲームのように事実化していったか。
年玉として贈られたものの中には餅も含まれていた可能性はあるが、元来金品の贈与も含まれていたことを脇に置いて、年玉=餅そのもの、という解釈は少なくとも自分の調べた中ではやや強引さを感じる。魂説についても、明文化されていない伝承として受け継がれてきた可能性を明確に否定はできないが、言い切るには根拠が弱いと感じる。
さて、このような時に頼りになるお隣の爺さんがに再びご登場願うことにしよう。
なんとなく辻褄が合ったのではないだろうか。
これからもお年玉が続いていくために
もちろんこれまで検証してきたことも、オレなりのストーリーへの誘導が入り込んでいるはずで、調べた範囲も僅かだし、憶測の範囲を超えないことは承知している。万が一御歳魂の可能性も消えたわけではない。
だが、先行研究の乏しい分野であり、出所が見当たらない情報が独り歩きしている状況でもあり、このまま既成事実化していくのを眺めているのも、学問的にも社会的にもある種の偏りが生じてしまうのはなんとなく避けたい、という思いでここまで書いてきた。
しかしだ。とはいえ、現代のお年玉に付された、年神の恵みのわかちあい、という意味はこの先さらに確固たるものになっていくだろう。その出所は怪しいものだが、決して悪い意味が付けられたわけではないし、儀式や風習の意味付けなどは土地や歴史の中でいくらでも変わっていくわけだから、元の意味にこだわってばかりいるのも息苦しい。
大事なのはお年玉には大人から子どもにいろいろな思いを込めて贈っているのだ、ということをどちらも知っておくことだと思う。これは自分が渡す側になったからこそ感じることでもある。
いろいろな思いとは、つまりこれらの3つの流れから導き出せるわけで、次のように言えるだろう。
これらの想いを込めてお年玉を渡していけば、むやみに大金を子どもに預けるようなことでなく、子どもたちのやりたいこと、楽しいことを応援しようという良い文化として残っていくことが可能だろう。
最後にお年玉文化を持つ、ベトナム人の言葉を紹介したい。
元々社会主義国家であるベトナムならではの言葉かもしれないが、何主義であろうと、そこに暮らす人々の「分け合う、助け合う」という気持ちが自分も含めて地域の暮らしを支えることは確かだろう。
お年玉でここまで掘り下げてお腹いっぱいです。
ということで息子は親戚からいただいたお年玉からプレステとグランツーリスモを買いましたとさ(オレも遊ばせてもらってます)。
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