部分と全体の関係と「文章」【解釈学的循環を学んで】
今日、「解釈学的循環」について学んだ。
解釈学というのは、「解釈」や「理解」などについての体系的に考えるもので、哲学のひとつだ。
解釈学的循環は、解釈学をまとめ上げ、一般解釈学を成したシュライエルマッハー(Schleiermacher)が唱えたものである。
「全体と部分の関係」についてのアイデアだ。
そしてこれは文章にもめちゃくちゃ関係してくる(そもそも解釈学がよく文章を対象としている)。
というわけで、解釈学的循環と文章の関係について考えてみた。
解釈学的循環
例を2つ出す。
まずは推理小説。
貴方は文章を読んでいき、キャラクターやその行動、さまざまな手がかりを見つけていく。これは部分だ。
最後まで読み、トリックと犯人が判明する。全体が理解できるわけだ。
この時、部分を読んでいかなければ全体を理解することはできない。
(キャラクターたちの行動やてがかりがあったから最後、全体がわかる)
しかし一方で、全体がわかることで、それぞれの部分の意味がわかるのだ。
(その時点ではわからなかった行動や手がかりの意味がわかる)
①「全体」を理解するためには「部分」が必要
②「部分」を理解するためには「全体」が必要
→循環している
これが解釈学的循環だ。
もう一つの例を出そう。
外国語を翻訳する時
外国語、例えば英語を日本語に翻訳する時、どうやるだろうか?
もちろん順番に単語を読んでいき、意味を解釈していくわけだ。
(部分→全体)
しかしながら、全体の構造がわかってくるにつれて、前に出た単語の解釈が変わった経験はないだろうか? より適した訳が見つかることがあるはずだ。
(全体→部分)
これも解釈学的循環である。
”全体は部分の総和ではなく、連関である”
部分が繋がっていくことで出来上がる全体だが、それは部分の総和ではなく関係性や文脈と言えるものだ。そして文脈と部分は相互作用を与える。
またここでいう「全体」はあくまで一つの「全体」にすぎず、より大きな「全体」を当てはめることもできる。そうするとまた「部分」の意味が変わってくるのだ。
文と文脈
全体と部分の循環の話から、文章の作り方について考えてみる。
まず、語や文の意味やイメージは文脈によって決まる。
次の二つの文を、情景を思い浮かべながら読んでみてほしい。
汗をタオルで拭い、自分たちが建てている家を見上げながら、男はコーヒーを呷った。
アルマーニのスーツにしわがないかチェックし、満足したのか、男は英字新聞を片手にコーヒーを口に含む。
どちらも「コーヒー」という言葉は同じだが、貴方の頭の中に浮かんだコーヒーはそれぞれ異なるはずだ。前者が缶コーヒー、後者がカップに入ったコーヒーをイメージしてくれていれば僕の想定通り。
文脈によって語が規定されている例だ。
さらにこれは「日本人」という全体の中で機能している(外国のことは知らない)。
言いたいことをまとめよう。
「部分→全体→部分」の話だ。
一つ目
文章ほど、部分で構成していくものはない。この辺はこちらの記事を参照。
僕らは文章を書いていく時、つまるところ文脈をつくっているのだ。文字と語と文を積み上げていくことで、一つの(もしくは複数の)全体をつくるのだ。
これがまず「部分→全体」である。
そして、その文脈によって、後に出てくる語や文を規定していく。
つまり、今書いている文は後に書く文のためにある。
二つ目
そして話はこれで終わらない。
覚えているだろうか?
循環だ。
読者の頭の中に部分が積み重なっていくことで文脈が形成されていく。
そして形成後に、形成前の文を読むことによって新たな意味を得られるのだ。
これは読者の方の行動ではあるが、これを書き手が設計しておくと味わいのある文章になる。
小説だと伏線というやつだ。
つまり、後の文を前の文を規定するために書いてもいいのだ。
もちろんこれは読み返しを前提としているものではあるが。
循環する文章を書きたい
二つ目に書いたこと。
これはたぶん難しいことだと思う。
でも循環する文章が書ければ、読者はより深くその文章を読んでくれるかもしれない。
わかりやすさ、スピードが重視されるこの世界で、あえて循環し、噛みしめるように読める文章が在ってもいいと思う。
学習のアーティストを目指してます。学習ノウハウの体系化・学習体験のコンテンツ化を通して、学習者のレベルアップを手伝います。現状、お金よりも応援がほしい。