分けて理解する-その先【連続と離散】
僕らは世界を分けて、それぞれを名付けることで理解しようとする。
ソシュールはその言語論の中で「分節」という概念を見出した。
イヌとかネコとかの分類は人間による勝手なものだ。チワワとトイプードルも同じである。
自然は本来、連続的なものである。
しかし僕らはそれを離散的に捉えることで理解しようとする。
分けて理解する
世界は僕らにとっては複雑すぎる。
だから僕らは世界を区切って、構成要素に分けることで理解しようとする。
「わかる」とは「分かる(分ける)」ことなのだ。
バラバラにしてそれぞれの個を理解するだけでは、全体のシステムはわからないので、次に統合する。要素同士の関係を明確にし、システム全体の振る舞いを理解していく。
しかしこれも離散的なプロセスである。
分かたれた要素を分かたれた状態でつないでいっているからだ。
だがそうでなければ僕らの理性は理解できない。
その意味で僕らと自然の間には大きな隔たりがあるように思う。
しかし自然をその身に持っているかのような人々もいる。
達人たちの感覚
熟達者、いわゆる達人たちは「自然」を持っていると思う。
武道。まずは一つ一つの動きを分解し、統合し、マスターしていく。
職人。一つ一つの工程、道具の使い方を理解し、馴染み、統合し、究めていく。
しかしその先、達人たちの領域は離散状態を脱し、再び連続状態になっているのではないだろうか。
僕らは連続=自然を理解できないので、彼らの動作を見て即座に理解したり学んだりすることはできない。だからまた彼らの動きを離散的にして理解するプロセスが必要となる。
つまり、達人とは自然と同等の存在といえる。
考えるに、究極まで分節した離散的プロセスは連続に近づいていくのかもしれない。
連続体である目の前の団子を、ちぎり続け、粉になるまで分解していけば、それらをつなげたものはもはや連続体となる。
職人芸とは、細かな感覚の違いを、常人では到底及ばないレベルまで分節した結果、連続体にまで至ってしまった技術なのだ。
連続→離散→連続
「自然」の体得が一つの境地だと思う。
しかしこれは連続を目指す(感覚でやる)プロセスではなく、離散的プロセス(分節し理解する)を限界まで突き詰めた結果、もはや連続と変わらない場所に至ることである。
流行気味の言葉でいうと「解像度を上げる」ことにほかならない。
解像度というのはデジタルな概念だけど、最高レベルの解像度はアナログにまで至る。
落合陽一のデジタルネイチャー、計算機自然はまさにそういうことなのかもしれない。
一流に至れない人の多くは、解像度の限界がはやい。ここまで分けたからもういいだろうと思ってしまう。
超一流はある意味要領が悪いので、そんな限界を見ない。どこまででも分節してしまう。そうして連続にいたり、「自然」を手に入れる。
僕も「自然」を得た人間を目指す。
=毎日更新100日、達成!= ←*超・離散的