勉強しないと楽しめないものがある【扉と鍵の話】
「なんでアイツはあんなに楽しそうなんだ?」
「私とあの人じゃ趣味が違うんだ」
他の人が楽しそうに取り組んでいるものでも、まったく楽しそうに思えないものというのは存在する。それを興味や趣味の方向性と切り捨てることは簡単だが、もしかしたらそれは機会損失なのかもしれない。
この世の中には「勉強しないと楽しめないもの」というのが存在する。
閉じられた「扉」の向こう、楽しそうな声が聴こえるがそれがなぜなのかは理解できない。理解するためには「鍵」を手に入れてその「扉」開けなければならない。
ではどうすればその「鍵」が手に入るのか?
勉強だ。
勉強しないと楽しめないクラシックの話
僕はクラシックに興味を持ち、少し学習し始めている。
『クラシック音楽とは何か』という本を読んでいて、クラシック音楽を本当に楽しむためには知識が必要だと書いてあった。作曲家や作品の背景、楽曲の構造や楽器についてなど、さまざまな知識を得てやっと分かることがある。
初心者ながら、楽曲の構成やらを学んでいて、クラシックを聴く耳が明らかに変わった。
ぶっちゃけ興味を持って聴き始めたときはそこまで面白いとは思っていなかった。興味を持った理由は「なぜクラシックがずっと聴かれているのか」を知りたかったからで、普通にJポップの方が楽しめるタイプだったのだ。
しかしいろいろ学んでから聴くと、クラシックは面白い。
勉強することで、楽しむポイントがわかった。
勉強しないとわからないという可能性を知る
僕らは、自分が理解できないものを楽しんでいる人間を見て不思議がる。不思議がったり面白がったりするくらいならまだいいが、馬鹿にすることすらある。これが道徳的にどうというよりは、もったいないと思う。
「扉」が閉じた状態でその向こうを想像し、評価し、切り捨ててしまうことはもったいないことだ。もしかしたら一生の趣味になるかもしれない。人生を彩るものになるかもしれない。
「かもしれない」論にはきりがないし、「鍵」を手に入れるために勉強にはコストがかかる。だから、全ての扉に対して真摯に向き合い、鍵を得ようとするのは難しい。
しかし、「勉強しないと楽しめない」ものがある可能性については忘れてはならない。むやみに評価してはならない。
かつて「何がいいの? 音楽やっていない人でクラシック聴くやつとか教養人ぶってるだけじゃない?」と少しながら思っていた僕が、クラシックを学んでみて見事に聞き方を変えられた話。