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お金がない楽しさ


お金なら余っている。
昔から努めて、そう口にしていた。
決してお金持ちだったのではない。
欲しいものが多くなかっただけだ。あるいは欲しいものが高くなかったのだ。

20代は実入りの少ない会社員だったが、仕事に忙殺されてプライベートな時間がほとんどなかったので、お金を使う機会もなく着々と貯金ができた。同僚からは不思議がられたが、なんのことはない、プライベートライフが皆無だっただけだ。

失ったものも山のようにある。飲み会や恋愛経験や海外旅行などの人生経験は若いころにもっと積んでおければよかったし、その後も結婚や育児にかけるべきコストを払ってこなかったので、いつまでも「独身のままライフステージが変わらない」焦燥感に付き纏われた。
今にして思えば、そんな痩せ我慢も高じて「お金なら余っている」と口にしていたのかもしれない。

今は遅い結婚を果たし、当時に比べると経済的な余裕も出てきたので、お金はますます余っているとも言える。(といっても、スーパーマーケットやレストランの会計時に、特に額面を見ずに支払いができる程度の余裕にすぎない)。
断じて富裕層ではないけれど、生活するのはいくらか楽になってきたので「お金は生活を助けてくれる」ことを実感している。経済的な余裕と精神的な余裕がとても近いところにあることも実感している。お金のありがたさが身に沁みる。

それでもどこかで、「お金がない楽しさ」を忘れたくないとも思う。

そう考えるときに、思い出すエピソードがある。
ある音楽評論家の若いころの話だ。昔はレコード盤がとても高価で、月に1枚を買うのがやっとだったという。毎日、クラシックの新譜カタログ一覧を穴が開くほど見つめ、楽曲と指揮者と楽団の文字列を一つずつ吟味し、譜面を横目にレーベルの志向性から曲想を頭の中で夢想する。すると演奏の様子が仔細に耳に響き出すという。「この指揮者ならここはこう盛り上げるに違いない」「この会場での録音ならこういうふうに響くはずだ」。その上で選びに選んだ1枚をレコード屋で買い求める。そして自分の中の演奏と答え合わせをする。

こんなに濃密な音楽鑑賞があるだろうか。
もちろん実態としては涙ぐましい話である。ほとんどカタログの文字を見つめているだけなのだから。禁欲を余儀なくされているというか、痩せ我慢そのものだろう。でも、これは最高の贅沢だと感じた。(何が贅沢なのかと言えば、1枚のために費やした時間と最大限に想像力を駆使した知性だろう)
羨ましいと言えば語弊があるものの(清貧として美談にするのも好みではないけれど)、当時のぼくには純粋に「楽しそう」に映ったのだ。現に音楽評論家は、今は毎日レコードが買えたとしても、あのころのような聴き方はまるでできないという。

これは弱者の逆転戦略なのだろう。お金がなければ知恵を使うしかないので、その制約がゲームのような楽しさを生む。「不便を楽しむ」ようになる。
ぼくもかつて、炊事・洗濯・掃除を淡々とこなしてライフコストを抑え、顕示的欲求を軽侮し、リア充に背を向け、「足るを知る」を合言葉に、雌伏のときを「楽しもう」としていた。

「お金がない楽しさ」を見出す(お金がもたらす楽しさに服従しない)発想は、人生をいくらか救い、慰めてくれたような気がする。
「お金がない」ことは選べずとも、「楽しさ」は選べるのだと、今も思っている。

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