カッコーの巣の上でディーセンシーを考える
1975年製作、アカデミー賞5部門受賞の名作『カッコーの巣の上で』を観た。
ジャック・ニコルソンの“怪演”や、無名時代のダニー・デビートやクリストファー・ロイド(『バック・トゥ・ザ・フューチャー』のドク役)を観られたのは貴重な機会だった。
(以下ネタバレ含みます)
舞台は、1963年の精神病院。
ジャック・ニコルソン扮する粗野な男が、刑務所から(精神疾患の詐病で)移送されてくる。そこは強権支配的な婦長が君臨する閉鎖病棟で、ジャックはことあるごとに対立する。
最終的に、ジャックは電気ショック療法(ロボトミー手術)を施されて廃人と化す。ジャックの友となったネイティブアメリカンの患者が、ジャックを安楽死させ、自ら窓を破って病院を逃走する。夜明けの草原に男が姿を消すラストシーンで幕を下ろす。
見終えて、呆然とした。
この映画はいったい何を言いたいのか。
異分子であり革命家となりうる主人公が殺され、体制側は何一つ揺るがず、殺人犯が野に放たれる。アメリカン・ニューシネマの潮流で読み解くならば「反逆者の挫折」ということになるらしいけれど、そう言われても今ひとつ釈然としない。
「これは自ら殻を破るという、心の解放の物語」と妻が説明してくれたものの、それならばネイティブアメリカンの患者が主役の物語ということになり、ジャックの存在は通りすがりの媒介者に過ぎなくなる。(実際、原作小説ではネイティブアメリカンの患者が語り部となっている話だそうだ)
ぼくは、ラストで“反逆者の魂を継いだ解放者”を、あまり祝福する気分にはなれなかった。
当初は、自分の中のエシカリティ(倫理性)の基準で、この決着の付け方に納得がいかないのかと思っていたけれど、徐々に、提示されている問題(非人道的な精神病院)が本質的に解決していないところに歯痒さを感じているのだと思い直した。
しかし、これこそが製作陣の狙いだったらしいので、もはや世界線の違いというべきかもしれない。70年代の世相にはたしかに壮大な無力感が漂っていたのだと思う。抑圧からの解放にカタルシスがあり、反逆者が無惨に犬死にする様に強烈な“敗者の美学”があった。そこまでの文脈を考えあわせて評価すべき作品なのだろう。
つまり、ぼくはむしろこう問い直すべきかもしれない。
物語とは、そもそも「課題解決」や「秩序回復」に寄与すべきなのか。
あるいは、ぼくは(今の時代は)なぜ物語に課題解決を求めがちなのか。(今ならば「反逆者の挫折」は「体制側の秩序回復」として描かれそうな気がするのはなぜだろう)
たとえば、ミステリというジャンルは「課題解決と秩序回復」が基本形となる。事件が起きて、解決して、秩序が戻り、めでたく大団円。特に刑事ドラマは体制側の秩序維持ストーリーそのものだ。ハッピーエンドを志向する物語であれば、ファンタジーもアクションも恋愛もおおむね同類と言えるだろう。
そこにはたぶん、ポリティカル・コレクトネスを内面化するうちに、ディーセンシー(真っ当さ)の目線が偏ってしまった背景があるような気がする。
「真っ当」なのは、反逆者か、体制側か。
自分の目線はどちらに拠るのか。どちらに与するのか。
半世紀前のこの映画は、それを踏み絵のように突きつけてくる。だからまるで油断ならない。