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友がみな、われよりえらく見ゆる日よ
夜。妻と近所を散歩している。ふたりともそれぞれの理由で肩を落として歩いている。
妻は、来週のコンサートのリハーサルで思ったような仕上がりになっておらず、落ち込んでいる。
ぼくは、自分の文章を書くことに対して十分にがんばりきれていないことに、落ち込んでいる。
「20年も取り組んでいるのに、こんなレベルなのかと自分でがっかりする」と妻がいう。
「よその人のことは見ないようにしていたのに、たまに“当てられる”と自分に引き戻してがっかりする」とぼくがいう。
力不足ゆえに、結果が伴わないことへの苛立ち。こんなはずじゃないのにという思いが積もる。人けのない住宅街に、行き場のない声がそっと落ちる。
友がみな
われよりえらく見ゆる日よ
花を買ひ来て
妻としたしむ
石川啄木のこの短歌が昔から好きだったけれど、独身のころは最後の一節に絶望を味わっていた。(ちなみに、「妻と親しむ」というのは古語解釈では性行為を暗示しているそうで、なおのこと絶望的な格差を感じさせられた)
これまでは、他に弱音を吐ける人もおらず、誰かを頼りにすることもままならなかったけれど、今はそうでないことに一抹の救いと成長を感じる。
よく「女性は愚痴を聞いてもらえるだけでいいので、解決策を提示しようとする男性は疎まれる」と言われるけれど、女性はそうかもしれないものの、男性のぼくとしては解決策がほしくなる。(ついでに言うと「女性の共感脳」と「男性の課題解決脳」という単純な説明自体をあまり受け入れたくない)
実際のところは、「解決策」は自分自身で見出さないと「自分事」にならないので、他人から与えられるものでもない気はするけれど。
ぼくは、人に「助けて」と言うのが昔から苦手だった。
うまくいかないことだらけでも、自分で打開しなくては一人で気負いがちだった。
「友だちとは、弱音を吐ける人」と数えるならば、ぼくに友だちは一人もいなかったことになる。
でもこれからは、もう少しうまくなりたいと思う。
ひとまず、現状の自分の実力を思いしれたということは、いったん出せる力を出す挑戦だけはできたと捉え、静かに言い聞かせている。