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【歴史】六角氏の歴史まとめ
さて、これまでは観音寺城に限定して佐々木一族とその関係性を見てきた。
↓前回はコチラ。
【歴史】観音寺城における戦闘一覧|赤田の備忘録
今回からは、佐々木一族とその領国・近江について、特に佐々木氏嫡流の六角氏と庶流の京極氏、加えて16世紀に勢力を伸ばした浅井氏の3氏に焦点をあてて、歴史の流れやこれらの事跡についてより詳しくまとめていきたいと思う。
ではさっそくではあるが、これまでに見てきた佐々木氏嫡流・六角氏の全体の歴史について、(例のごとくWikipediaを参考に要約・補足しながら)大まかに確認したい。
六角氏
六角氏とは、近江源氏と呼ばれた佐々木氏の4家に分かれたうちの1家で、鎌倉時代より守護として南近江一帯を支配していた。六角氏と名乗ったのは、京都六角東洞院に六角氏の祖となる佐々木泰綱が屋敷を得たからと言われている。
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・鎌倉時代
佐々木氏は幕府創業の功臣でもあったので西日本各国の守護を任され繁栄していた。佐々木氏当主・佐々木信綱の死後、所領の多くは三男・泰綱が継承したが、1243(寛元元)年、信綱の長男・重綱の訴えを幕府が聞き入れたために、泰綱は嫡流であることに変わりなかったが、所領の一部(坂田郡大原荘)を失った。
その後、信綱の長男・重綱、次男・高信、四男・氏信はそれぞれ大原氏・高島氏・京極氏の祖となり、嫡流の三男・泰綱は六角氏初代となる。これらの庶流は鎌倉幕府に直接仕えたため、惣領家たる六角氏は家臣団化できず、六角氏の領国支配の障害となった。しかし、近江国守護職は六角氏が保持し続けた。
鎌倉幕府の滅亡時は、三代・六角時信が六波羅探題に最後まで味方し、敗れ降伏している。その後、六角氏は建武政権にも参画していたが、足利尊氏が離反した後は、尊氏方と北朝についた。
・室町幕府の成立と京極氏の台頭
室町幕府が成立すると、庶流である京極氏五代・京極高氏(佐々木道誉)が近江守護に任じられたが、後に六角氏頼(四・六代)が近江守護に任じられ、以降は幕府と対立した一時期を除いて、六角氏が近江源氏佐々木氏嫡流として近江一国の守護の地位を占めた。
しかし、京極氏は出雲・飛騨の守護に代々任ぜられ繁栄し近江国内でも守護使不入(守護である六角氏の支配を受けない特権)を認められ、3代将軍足利義満の頃には四職となり幕府の要職について六角氏と対立した。
また、国内の同族の中には高島氏・朽木氏・大原氏など奉公衆として幕府の直臣化される者もおり、彼らは幕府からの直接の命令を奉じて守護六角氏の命令には従わなかった。さらに領内には比叡山もあり室町時代を通じて六角氏の支配は安定せず、九代・六角満綱、十代・持綱父子は家臣の反乱により自害に追いやられ、持綱の弟で後を継いだ十一代・六角久頼は京極持清との対立の末に心労により1456(康正二)年に自害して果てている。
・応仁の乱と鈎の陣
久頼の跡を継いだ十二代・六角高頼(亀寿丸)は1458(長禄二)年に幕府の命により廃嫡され、従兄・六角政堯が近江守護となったが、政堯は一族の伊庭氏との抗争により1460(長禄四)年に近江守護の座を高頼(亀寿丸)に返還させられた。
応仁・文明の乱が起こると、高頼は西軍に属した。六角氏の軍事指揮は重臣の山内政綱と伊庭貞隆が執った。乱中は、東軍方の近江守護となった京極持清・六角政堯と戦い、さらに美濃守護の土岐成頼や守護代斎藤妙椿と協力して敵対勢力にあたることもあった。
1470(文明二)年、京極持清の病没により京極氏が分かれると(京極騒乱)、西軍に京極高清が加わるなど京極氏は混乱し、そのため、一時閉塞していた高頼は近江に勢力を伸ばした。1471(文明三)年には、高頼は清水城を落とし六角政堯を自害に追い込んだ。
1477(文明九)年に応仁の乱が収束すると、翌1478(文明十)年に高頼は幕府に帰参し、9代将軍・足利義尚により近江守護の座を与えられた。しかし、高頼は寺社や奉公衆の所領を押領したため、1487(長享元)年に足利義尚自ら率いる幕府軍の遠征が開始された(長享の乱)。
高頼は甲賀山中に逃亡したがそこでゲリラ戦を展開したため、戦線は膠着状態となった。足利義尚は近江守護の座を側近の結城尚豊に与え遠征を続行したが、1489(長享三)年、近江鈎の陣中で病死し遠征は中止された。
・六角氏と明応の政変
1490(延徳2二)年、土岐氏に庇護されていた足利義材(のち義稙)が10代将軍に就任し、六角高頼は赦免された。しかし、六角氏の内衆が寺社本所領の返還を拒絶したため、翌年4月に再び幕府軍の遠征が開始された(延徳の乱)。
高頼は再び甲賀に逃れたが敗北を重ね伊勢でも北畠氏の軍勢に迎え撃たれて逃亡した。足利義材は近江守護の座を六角政堯の遺児である六角虎千代に与え、1492(明応元)年12月に京に凱旋したが、直後の1493(明応二)年4月、河内遠征中に管領・細川政元が足利義高(のち義澄)を擁立し権力を失った(明応の政変)。
11代将軍となった足利義高は六角虎千代を廃し、山内就綱(佐々木小三郎)を近江守護に任じた。高頼はこの機に乗じて蜂起し、斎藤妙純らの支援を受けて山内就綱を京都に追い返し、1495(明応四)年、足利義高からの懐柔を受け近江守護に任じられた。
高頼は、細川政元と共に美濃で起こった船田合戦に介入し、翌1496(明応五)年に美濃斎藤氏・京極氏・朝倉氏による侵攻を受けたが、高頼は伊勢の軍勢や蒲生氏の支援を受けてこれを撃退し、斎藤妙純を討ち取った。
11代将軍・足利義高を擁立した細川政元らと敵対していた10代将軍・足利義材は、1498(明応七)年9月に越中から越前に移り、更に河内で兵を挙げた畠山尚順に呼応して1499(明応八)年11月に近江まで南下したが、高頼は坂本で足利義材の軍を奇襲し敗走させた。
1508(永正五)年、大内義興の上洛により10代将軍・足利義材が復権すると、高頼は11代将軍・足利義高を庇護した。しかし1511(永正八)年、船岡山合戦で足利義高を擁立していた細川澄元が敗北すると足利義材に恭順した。その後、高頼は伊庭貞隆との対立に勝利し、六角氏の戦国大名化を成し遂げた。
・六角氏と三好氏の攻防
戦国時代中頃には六角定頼(高頼の次男)が登場した。定頼は第12代将軍・足利義晴(義高の子)や第13代将軍・足利義輝をたびたび庇護し、天文法華の乱の鎮圧にも関与した。近江蒲生郡観音寺城を本拠として近江一帯に一大勢力を築き上げたのみならず伊賀国や伊勢国の一部(北勢四十八家が支配する北伊勢地域)までにも影響力を及ぼしたとされ、六角氏の最盛期を創出し、阿波国から畿内に進出した三好氏と度々争った。
しかし定頼の死後、跡を継いだ六角義賢の代においても、畿内の覇権を握った三好長慶と度々争ったが、1560(永禄三)年に野良田の戦いで浅井長政と戦って敗れるなど六角氏の勢力は陰りを見せ始める。
・観音寺騒動とその後
義賢の嫡男・六角義治(義弼)は家督を継いだ後、1563(永禄六)年に重臣の後藤賢豊父子を殺害したが、これを契機に家中で内紛(観音寺騒動)が起き、六角氏式目への署名を余儀なくされ、六角氏当主の権力は弱体化した。このように六角氏は六角義賢・義治父子の時代に大きく衰退し、1568(永禄十一)年、織田信長率いる上洛軍と戦って敗れ、居城である観音寺城を去ることになった(観音寺城の戦い)。
→詳しくは以下にて
・観音寺騒動
【歴史】観音寺騒動について|赤田の備忘録
・観音寺城の戦い
【歴史】観音寺城落城の真相~織田信長と足利義昭~|赤田の備忘録
↓次回はコチラ。
【歴史】京極氏の歴史まとめ|赤田の備忘録
本文の内容はほぼウィキの丸パクリだが、私の勉強用のメモであるのでご容赦いただきたい。