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【歴史】佐々木道誉と八相山・蒲生野の戦い

ここまで佐々木道誉を中心に見てきたが、彼が生涯を通して数々の戦で大きな活躍を成し、足利幕府創設に多大な貢献をしたこと、バサラとして時代の先端を走ったこと、幕府の重鎮として最高権力者の一人として活躍したことなどは疑いようのない事実である。


↓佐々木道誉について

【歴史】佐々木道誉の経歴と人物|赤田の備忘録


しかし、そんな道誉であっても無敗であった訳ではなく、時には敗北を喫して逃げたり、投降したりすることもあったこともまた事実である。

そこで今回は、道誉が敗北し死を覚悟して自刃しようとした「蒲生野合戦」前後の経緯について『近江蒲生郡志 巻9』(「天正本太平記」による記述)を参考に見ていきたいと思う。


蒲生野合戦〈1351(観応二)年9月17日〉
観応の擾乱の最中に起こった戦。


↓観応の擾乱については以下を参照。

【歴史】観応の擾乱:勃発から終息まで|赤田の備忘録


1351(観応二)年2月17日、尊氏派が直義派に敗れ降伏した際、和睦の条件として高師直が武庫川で殺害された。長年の政敵を排した直義は、当時政務を務めていた足利尊氏の嫡子・義詮の補佐として政務に復帰、義詮を直義が後見する形で幕政が再開されることとなった。

両派が和睦したことでいったんは平和な時が訪れたものの、足利幕府における根本的な要因となった権力分立に関しては依然として一本化が進まず、両派の対立は再燃し始めていた。

このような状況を打破すべく、足利尊氏は自らの派閥であった近江の佐々木道誉と播磨の赤松則祐が南朝方(足利幕府と対立する存在)に離反したことにして、それを討伐する口実としてそれぞれ近江(滋賀県)と播磨(兵庫県)へ出陣することにした。つまり、近江と播磨から、京都にいる直義を挟撃する体制を整えたのである。

事態を察した直義は自派の武将を伴い京都から脱出し越前へ逃れる。そして、ここで体制を整え再び応戦すべく、細川顕氏・畠山国清・桃井常直らを将として近江へ軍を進めた。その後、近江では八相山の戦い蒲生野合戦という二つの戦が繰り広げられるが、特に道誉が死を覚悟した後者の戦は激戦を極めたという。


八相山の戦い

尊氏派…足利尊氏・佐々木道誉・土岐氏

直義派…足利直義・細川顕氏・畠山国清・桃井常直・六角定詮


直義派が陣を構える八相山に、尊氏は東南より、道誉と土岐氏は東北より攻撃を仕掛け、秋山光政を討ち取り直義派は敗北する。この日の内に、六角定詮は佐々木庄に帰陣する。


蒲生野合戦

尊氏派…京極高氏(佐々木道誉)・秀綱・高秀・六角直綱・渋川直頼

直義派(南朝)…六角定詮・儀峨知俊・高山頼貞・大原氏・蜂屋氏・原氏・上野氏


※六角氏(氏頼の子・義信とその叔父で後見の山内定詮)は直義方へ、京極氏は尊氏方へ付いたため佐々木一族内では分裂が生じていたが、六角氏頼の弟で山内定詮の兄にあたる佐々木直綱は独り尊氏方に属しており、観音寺城を守っていた。

※蒲生氏の庶流である儀峨播磨守知俊・高山伊予守頼貞らは早くから南朝方へ属して尊氏方に反抗していた。


八相山での敗北を耳にした直義派(南朝勢力含む)は、尊氏方の将・六角直綱と渋川直頼が守る観音寺城にほど近い鏡山に陣を構える。観音寺城方は尊氏に救援を求めたので、佐々木道誉父子が派遣されることになった。

9月17日、道誉父子は船岡山に陣を取ると、これを聞いた直義派は翌朝未明に東進し玉尾山を越えて船岡山の眼前の市辺村に進出、そこで隊を三つに分けて、定詮が先陣、儀峨・蜂屋・原氏等は後陣となる。

これを受けて道誉も隊を三つに分ける。高秀を将とする蒲生氏・小倉氏を含んだ軍は壤塚(市辺村大字市辺の旧名)に置き、秀綱を将とする軍は道合森(三ツ矢)へ出動させ、道誉自らは遊軍として船岡山において戦況を見る。

六角定詮はまず高秀の軍を攻めるが、高秀はこれを防ぎ切ることができずに東に敗走してしまい、定詮にこれを追撃されてしまう。そこで、道誉は秀綱の軍を合流させて、直義派の後陣と戦わせることにした。両軍は奮戦し拮抗していたが、遂に道誉は敵を破ったので逃げる兵を追って玉尾山を越えていく。

定詮は戦況を見て、高秀追撃を中止して引き返そうとすると、すでに自軍は道誉に敗れていたが、それを追撃する道誉の隊を衝き、激戦の末に道誉を破ったのである。ここに、すでに敗北した儀峨・高山の兵も合流したので、今度は逆に道誉が追撃される側になり、乱戦で兵も討ち取られてしまった。

さすがの道誉もここまでかと悟り、小脇の金柱宮の社前で自害しようとした時、わずか二騎のみで供をしていた加地二郎左衛門尉赤田次郎左衛門尉はこれを強く諫め逃げ延びるように説得したという。この二人が敵を引き付けて奮闘している内に道誉は小脇山を周り八日市方面へ抜け、その夜のうちに自らの居城のある甲良へとたどり着くことができたのである。

※この時、坂田の今井遠江守資俊も蒲生野合戦で活躍し尊氏から恩賞を得たと伝わる。


両氏は一所に戦って討死し、道誉敗北を受けた観音寺城の佐々木直綱・渋川直頼は城を出て北走し尊氏のいる八相山へ合流、直義軍の13将3万余騎は全て観音寺城に入る結果となった。

その後、道誉は仁木義長と共に観音寺城奪取を試みて着陣するものの、十月には興福寺で和議が図られ、戦には発展しなかった。しかし和議では両者決裂し、11月、直義は上杉憲顕を頼って関東の鎌倉へ下るに至ったため、近江の直義方や南朝勢力は分裂した。後に正平一統が図られ、尊氏は直義追討のため関東へ出陣。薩埵峠の戦いや相模国早川尻の戦いなどで直義方を破り、1352(正平七/文和元)年正月、鎌倉を占領し直義を降伏させる。2月26日の直義の服毒死によって事態は終息を迎える。


以上が『近江蒲生郡志 巻9』における蒲生野合戦の経緯と筆者による補筆であるが、これらの記述は『太平記』の全系統に現れるものではなく、多くは簡略化される中、「天正本」のみに詳しく描かれているものであることを示しておく。



参考文献

・『近江蒲生郡志 巻9』弘文堂書店、1980年。

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