寂しい子どもの破壊力
ときどき、きゅーっと、自分のやるべきことを考えていて、苦しくなることがあります。
そもそも、自分自身が大人としての責任を果たせていない人間だという負い目と、大人としての最低限のマナーやルールが守れていないのでは?という不安があるので、今自分が歩いている道が本当に実在しているのか、わからなくなる時があるのです。
難しい仕事をこなすのは難しい。
簡単な仕事ーなど無いと思うけどーだとやり甲斐がない。
そんな風に、自分の役割がわからないまま、いろんな仕事を転々としてきました。
結局まともに、一つの仕事、一つの職場に落ち着くことができないので、経験が確かな実績になることはありません。
何もかもが中途半端なことをわかっているから余計、これまでの経験を「実績があります!」と堂々とアピールできなかったり、面接の時に堂々としてしまって、その後ガッカリされてしまうのが怖くなってしまったりする。
『自分』という人間が『身の丈の自分』であるこのが嫌で仕方ないのです。
全ての経験が、その人の実績である。
人生には、歩むべき道筋があり、迷ったと思ってもそれが失敗であるとはいえない。
頭の中ではわかっていて、これまでの職歴や生活経験は、私にしか無い強みにもなると思う部分もあるのですが、突然、母に見捨てられた寂しい子どもが出てきて、
「自分の経験値や実績をアピールしても、所詮は集団の中にうまく入れないでしょ?」
と意地悪なことを言うのです。
寂しい子どもは、ある意味全てを諦めている子どもなので、何をやっても怖くありません。
全てを諦めているので、建設的なことをしようとは思いません。
建設的なことの結果を見るには、時間と労力と根気が要ります。
諦めている寂しい子どもは、そんな結果を待っていることができないし、そもそも結果を得られるとは考えないので、無駄なことに力を使わないで、早めに見切りを付けるようにささやきます。
こうやって、全てをバサバサと切ってきた結果が、今の自分です。
それでも諦められない自分が、「今度こそは!」と新しい環境に飛び出していく。
しかしやがて、最初のモチベは薄れていき、惰性と倦怠感が大きくなっていきます。
すると、整っていない職場環境とか、性格の合わない人の言動とか、上司の嫌な部分ばかりが目についてきて、「ここは私の居るべきところじゃない」と思うようになっていくのです。
そして諦めた子どもがダメ出し。
「さっさと辞めた方が身の為だよ!」
「このままそこにいると、みんなが迷惑するよ!」
寂しい子どもは最終的に、自分を透明にしたいのです。
透明になれないなら、最も周りに影響を与えないような生き方をしたいのです。
つまり自分の主体性を潰したいのです。
つい最近まで、私はこの『寂しい子ども』のささやきに抗えませんでした。
前の記事に、電車でお年寄りに席を譲るのを迷っていて、隣の人が立ったので慌てて自分も立ってしまったという話を書きましたが、その時も寂しい子どもは私に言いました。
「ほら、お前は全く役立たずだ。必要な時に気づきもしない」
それから、私のような人間は席に座るものではない。と、空いていても席に座らないようにしていました。
寂しい子どもは、諦めている子ども。
諦めているだけに、卑屈になっている。
卑屈になればなるほど、実は周りへの負の影響力が増し、自暴自棄がゆえに、その破壊力は膨大になってしまう。
私が、自分に自信を無くして途中で投げ出した仕事を、実は誰かが後始末しているんですが、自分では、早めに身を引いたので、被害が最小限で済んだと勘違いしているのです。
生きていくということは、自分をアピールしていくことではなく、自分の出来る役目を見出して、きちんとその役割をこなしていくことなんだと思います。
それは別に、ブラック企業に入って盲目的に従うようなことではなく、今、今日、自分がやるべきことを自覚して生活していくことなのでしょう。
透明になることはできないのに、透明になりたい寂しい子ども。
でも自分を透明にするというのは、実は周りに多大な影響を及ぼしている。
そして、透明に塗りつぶす(そもそもそれこそが矛盾している)ために、破壊も辞さないという強い負のオーラを持ってしまうのです。
人はかけがえのない存在。
私という人間がここにいることで、人に会おうが会うまいが、人に混じろうが混じらなかろうが、すでに影響を与えている。
寂しい子どもには、それがとても苦痛なのだけれど、実はそれはそんなに苦しいことではないし、むしろ出るだけ出てしまえば、楽しくなるかもしれない。
破壊よりも創造!
母の養育態度によって生まれてしまった寂しい子どもは、そう簡単に考えを変えることは出来ません。
これからも、寂しい子どもが言うことを信じないように闘っていくしかないのかもしれません。