他人の心がわからないのではなく……
信用していた人との行き違いは何とか落ち着いたのですが、私が放った言動や態度が私が思うのとは全く違って、相手を傷つけていたことがわかりました。
もちろん相手の側の過剰反応も大きかったので、その言動がまた私を傷つけ、さらに攻撃するという応酬だったことがわかりました。
相手の気持ちがわからないから、相手を傷つけるようなことを言ってしまう
それならば黙っているしかありません。
けれど今回は、相手の気持ちが分かるからこそ、何とかしてあげたくて、先走ったアドバイスをしてしまったことが原因でした。
相手の側は、感情の大波にいっぱいいっぱいになっているのに、さらに「○○してみては?」とアドバイスされて、○○すら出来ない自分は情けないと感じてしまったのだそうです。
相手の気持ちがわかる?
私が気持ちがわかると思っていたのは、その状況だったら自分はどう解決するのか?という『自分なら』という発想を勝手に持ってしまったことを勘違いしていたのでしょう。
つまり相手の気持ちを、自分ならという発想に置き換えて理解したつもりになっていたのです。
この線引きはとても難しいとい思います。
根本的に、人は他人の気持ちなど理解できるはずが無いのです。
単純に、転んで怪我をしたら痛いだろうということは察することができます。
けれどその痛さがどれほどのものかを理解することはできません。
怪我をしても痛みを感じない人もいれば、一般の人が想像できないほどの苦痛を感じてしまう人もいます。
怪我をして痛いはず…‥だから我慢できるのか、病院に行くのか、麻酔を打たなければいけないくらいなのか、その加減は、相手が言わなければわからない。相手が言っても完璧にはわからない。
すると、自分だったらどのくらいの痛みを感じてどう対処するかを、自分の経験から想像するしかないのです。
相手の立場に立って……だから何?
立場に立てないのに、立ったつもりになるのは偽善でしかなく、さらに自分の考える対処を押し付けた場合は相手のペースで解決していく過程や権利を侵害したことになります。
そういうところに、今まで気づいていなかったんです。
思い返せば、仕事でトラブルになり、普段優しい人が逆上したり、呆れるような顔をされたりしたことを、私はパワハラと受け取りました。
しかし上記のような分析をしてみると、逆上した相手は私に何かを『強要された』と取っていたのかもしれない。
私は「こうだったら良いのに」くらいのつもりが『絶対こうでなくてはいけない!』と強く押し切られた感じがしたから、必死に対応した。それなのに、私はそのことを忘れていたので怒り出したのでしょう。
その後別の人からも、「akbalに○○しなくちゃいけないと言われたのを苦痛に感じる」と言われました。
例の逆上した人が私を呼んで「あなたの今後のためにも、どうしてそのようなことを言われたのかよく考えてください」とお茶を濁すように言われて、悶々としていました。
どちらにも共通点は無いから、対処のしようがない。あの人は私に悪い印象を持っているから、今回同じような拒絶をされた私に『ざまあみろ。俺が正しかったじゃないか』と思っているに違いないと思い込みました。
実際には大きな共通点があったのです。
それは、私が単に相手の状況から想像した私の気持ちを、相手もそう望むはずだと勝手に思い、相手の気持ちが分かった気になっていたことでした。
家族ですら本心などわかるはずはないのです。
個人が、どのように思考しようとも許されるのは、当たり前のことです。
ただ、その内容が「こうであるはずだ」と他人が勝手に憶測するのは、相手の領域に土足で踏み入るような行為なのです。
でも……
そういえば私は、自分の気持ちを勝手に憶測されて嫌な思いをすることがあるでしょうか?
実はあまり無いことに気づきました。
憶測されて私の領域に踏み込んで来られたとしても、あまり苦痛を感じないか、感じても相手のアイデアの方が素晴らしいからそれに従っておけば良いや、と諦めてしまうことが多いです。
私の領域に踏み込んで来るな!と拒絶したら、みんなから総スカンを喰らうのが怖いのです。
だからいつも、ヘラヘラして、?と思うことも受け入れてしまいます。
下手に対立して我を張っても、自分のやり方に絶対的な自信が無いためにきっと言う通りにしておかないと損をすると思ってしまうのです。
ああ、そうです!
毒親が「私の言うことを聞いていれば間違いないのよ!」と自信たっぷりに言っていたことは、未だに「黙って誰かに従っておく方が身のためだ!」という思いを強めているのです。
だから自分のために決断できないからこそ、誰かのために決断してあげたいという思いが強すぎてしまうのだと思います。
とんだ責任転嫁です。
拭いていいのは自分のおしりだけ!
なんか下ネタっぽくなっちゃいますが、イメージがピッタリな表現なので、このまま使わせていただきます!
人のおしりを拭こうと必死になっている私は、まるで変態のようです!
毒親は、親であることを良いことに、私のお尻を拭き続け、結局「自分のお尻も拭けないなんて、ダメな子ね!」と見捨てたのです。
結局自分のお尻を拭く加減がわからないから、他人のお尻を見て回っている。
それはさりげなくトイレットペーパーを差し出す行為とは全く別物の迷惑行為です。
その根底にあるのは
「あの人はきっと、自分のお尻を上手く拭けないだろう」という思い込みと蔑み。
結局他人を信用していないから、問題のあるシーンを見かけたとしても、他人が他人のペースで解決するはずだと信じることができないのです。
そして、拭いてくださいと言われたわけでも無いのに、突然お尻を拭いてあげる。
恥ずべき行為をしていたのです。
とはいえ、幼い頃から『気が利かない』『頼りにならない』と言われ続け、でも自己判断で何かすると親の機嫌を損ねてしまうことに恐れを抱いてきた私は、自分の状態を客観視して、自分が何をすべきか、何をしたいのかを捉えることが、とても難しいのです。
自分が人に依存しないと生きられないと思っているので、他人にも自分に依存して欲しいんですよね。
多くの人が上手な自己主張を身につけている今の社会では、私は用無しどころか、余計なことをして余計に相手を苦しめてしまうのです。
だからときどき、私って何のために存在しているんだろう?と、無力感に苛まれることがあるのです。
今回のトラブルは、とても複雑な要素が絡み合った問題でした。
トラブルが起きてようやく、なぜ自分の(無邪気な)振る舞いが人に迷惑を掛けてしまうのかが分かってきたのです。
ただ、ちょっとの行き違いだけでも、自分の心がこんなダメージを受けるとは思いませんでした。
それは勘違いしている自分こそが、自分の本当の姿だと『勘違い』していたからです。
心が弱い、人に依存しやすい、自力で考えることが苦手……
こんな自分がより良く生きていくには、やはり自分が自分のやりたいことやなりたい姿を遠慮しないで思い描き、その実現を信じて力を傾けるしかないのだと思います。
自分のことで忙しければ、他人のことなど気になりません。
自分を見られないでいるうちは、やっぱり他人のお尻が気になって仕方ない変態にしかならないのでしょう。
厳しさとは、自分を曲げることではなく、自分を生かすために全力投球することだ。
この発想の大転換が私には必要です!