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映画『システム・クラッシャー』

を観ました。
目を背けてはいけない現実です。
公式サイトによれば、

ー  システム・クラッシャーとは、あまりに乱暴で行く先々で問題を起こし、施設を転々とする制御不能で攻撃的な子供のことを指す隠語。 ー

だそうです。

映画の中だけの話ではないのです。
私はすでに4人の、このような子どもに会っています。
予備軍のような子どもには、もっとたくさん会っています。
どの子も小学生でしたから、その前の生育歴で何があったのかはわかりません。
映画の中では父親の虐待が原因という設定でした。

私の出会った子どもたちも、何があったのかを知ることはできませんでしたが、虐待的なエピソードをチラホラと聴きました。
ある子どもは、学校で物を破壊しまくる。友達に危害を加える。危険なところに登る。教師を口汚なく罵る。懐いた支援員や教師に対しても、突然暴力を振るうという、まさにシステム・クラッシャーでした。
その子は母子家庭でしたが、母方の祖母が厳格な人で、毎朝電話を掛けてきては1時間お説教されるというのです。
もしかしたら、暴れる子どもが手に負えない弱気な母親に代わって祖母がしっかり躾なくては!と責任を感じていたのかもしれませんが、異常なのは祖母の行動だったのです。
こうして、外からは見えない家族・親族の『異常行動』が本人の問題行動を引き起こしているだろうことは、関わる人にとっては暗黙の了解でした。

その子たちは、いつでも攻撃的で人を寄せ付けないのではなく、とても甘えん坊で優しい面も見せるのです。
しかしその行動が不安定なために、大人に抱きついてきたかと思えば噛み付く、といった予測不能な行動を取ることが多いのです。

映画の中では、主人公が凶暴になった原因を父親の虐待とし、憎い父親と別れられず、別れたと思っても自分を引き取ろうとしない母親への強烈な愛着障害として、はっきりと原因が描かれます。

現実には、守秘義務があるので家庭の内部事情などを探ることはできません。
学校や支援する側は、その行動の原因すら知らされず、ただただ意味不明な行動に振り回され、時に命の危険すら感じながら対応しなくてはならない。
いくら当人を救いたいという意志があったとしても、限界に陥ってしまいます。
もしもその子が暴れる原因を突き止めることができたら、行動を変える足がかりになる。
私はそうもどかしく思っていました。

映画では、本人の生育環境や母親の性格という原因がはっきりしています。

『原因が分かれば解決する』

私の浅はかな期待に対して、映画は「そんな甘いことではないよ!」と警告するかのように、主人公ベニーは次々と大人を仰天させる行動を取り、大人を手玉に取っていきます。

そうです。
原因がどうであれ、彼女は人生の初期に生きる権利を徹底的に奪われたのです。
命綱である『唯一の大人』によって。
それが原因だと周りが気づいてあげたとして、すでに人間への恐怖が『刷り込まれた』彼女の行動を変えることは困難なのです。
彼女としては、あらゆるモンスターと戦って命を守ろうとしているのですから。

以下ネタバレです。

※※※※※

あらゆる医療行為や、児童支援の制度や人員を使っても、連携しても、彼女を救うことができないと判断した大人たちは、彼女を『国外追放』させようと画策します。
確かに大人の側としては、万策尽きてそれしか方法が無いということがわかります。
しかし本人にとっては、家庭からも居場所を追われ、施設からも学校からも追われ、国からも追われるという『制裁』なのです。
何の落ち度もない無垢な子どもが、大人の都合によって追い詰められて行く様子に愕然とします。
ヨーロッパ(ドイツ映画です)だからこそ、こんな解決法があるのだというカルチャーショックを受けますが、これは『死刑宣告』にも等しい処置。
あまりにも残酷で。
しかしそれしか残された方法がない状況に、決断した大人たちを責めることもできないのです。
「それは酷い」
と抗議する人が居たら
「じゃあ、あなたが面倒みなさいよ」
と言われるのが関の山でしょう。

私は、上記に書いた子とは違う、ある子の家庭に『自粛』を求めたことがあります。
とにかくその子が暴れ始めると手が付けられず、職員どころか他の子にも危険が及ぶので、「見切れない」と正直に親に伝えたのです。
すると親は激昂して「他のところを探す!」と辞めていきました。
私は、その子が暴れた時、落ち着いてきたらその行為をすることによって何が起きたかを説明し、次からどうしようかと一緒に考える姿勢で向き合ってきました。
まだ低学年だったその子はベタベタと甘えてくることもあり、その時は「良い子だね」「優しいね」と、良いところを褒めながらスキンシップをはかりました。

自分でも暴れる自分をどうして良いのかわからない。
本当は優しい良い子なのに、一度暴れてしまうとそれがすべて黒塗りされてしまう。
幼いがゆえに限度を知らないために、その危害は限りなく危険なものになってしまう。
全ての不幸が小さな体に覆い被さっているようでした。

その子と最後に会った日、なぜか私と2人で遊びたがりました。
部屋の隅に積み木を高く高く積んで、自分だけのお城を使っていて、私の手を引いて一緒に積んでほしいと言ってきたのです。
その時遊びながら「akbalさん、ありがとう」と何度も言うのです。
本人には、暴れてしまうどうしようもない時間を抜いて考えれば、一緒に遊んで楽しかった思い出がいっぱいあるのだと気づきました。

希望を言えば、
幼いうちに自分の感情や行動をコントロールできない子どもも、必ず大人になります。そして自分の振る舞いに気づける時が来ます。
大人になった時、自分にどれほどの大人が真摯に関わってくれたかという実績が、「あの時は酷い状態だったけど、いろんな大人が自分を守ってくれた=愛されていた」という実感につながり、自信を持って社会に出ていく基礎になるのだと思います。

たくさんの地雷を持った子どもが、周りの人や自分の命を奪わないように慎重に見守りながら、理性の芽生えを待つ。

それは1人の力では到底無理で、あらゆる制度を駆使しても、とてもとても難しいことなのですが、その過程ひとつひとつが、その子の生きていく糧になることは間違いないのだと思います。

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