101号室 お酒のまにまに
初めて酔っ払いになる過程を見た話。
私はお酒は好きだ。
香りと後味に浸って呑むのも、度数の高い激物を勢いに任せて流し込むのも、どちらも等しく好きだ。
しかし、私は酔っぱらったことがない。酒が強いからとか、その類の話ではない。どのような状況でも、酔うほど己を見失ってしまうことに、強い恐怖を覚えているのだ。幸運なことに、私はその類の人と接したことは、あまりなかった。だからこれも、未知に対する恐怖なのだろう。
そして私が初めて、お酒に呑まれた人を見たときに、私の脳内にある諺がよぎった。
「酒は百薬の長である」
人は酔っぱらってしまうと、どうやら本当に呂律が回らなくなってしまうようだ。思考回路があまりにも抜けてしまうため、本能的に、そして感情的になってしまうので、反射的にしか会話ができなくなってしまう。
平衡感覚が失われた頃には、幸福感が絶頂に達してしまうため、本能のままに交わす会話が幸福感へとつながり、その忌み嫌われた開放感に呑み込まれてしまう。そして、その幸福感に完全に沈んだ時、抜け出すタイミングを見失ってしまった時に、人は今見ているその幸せな夢を続けるため、己の全てを投げ打ってしまう。幸福の絶頂にまで辿り着くと、人は、えも言われぬ万能感に包み込まれるようになり、自身が本来発散したい事柄と、心の中に隠していた解けない感情を発露してしまう。ソレにより幸福感はさらに高まり、陰り切った幸せのスパイラルが完成してしまう。
そのスパイラルを過ぎた後には、理性による後悔と、自分の中身を覗かれてしまった恥ずかしさに苛まれ、一時期は気持ちが沈むが、もう一度感情や内心の発露のために、同じ状況を求めてしまうだろう。
やはり安心感が大きな要素になってしまうのだろうか。同じように安心感を得られるタイミングであれば、また同じことを繰り返してしまう。たとえ、始める前にもう二度と同じ失敗をしないことを誓ったとしても。
それは本心そのもの発露か、はたまた演繹による発散か、ソレは人によって大きく変わっていくが、心の奥底には何かに対する空虚と不足が埋まっていることに変わりはない。としかし、その言動全てが本心というわけではないと思う。しかしその言動が行き来しているときに覗かせる表情が、言の葉が、絶えず生み出された波の形こそが、その本心の片鱗が垣間見える唯一の場所だ。ソレはもしかすると、我々の普段の言動と、本質的にはさほど変わらないのかもしれない。ただお酒によって、と本来なだらかであろうとする「理性」という名のガラスの水槽が、悲しくも飲み込まれてしまっただけなのだろう。その濁流が治るまで、そしてある程度の排水ができるまで、ソレは止まることそ知らない。酒とは、やはり百毒の長である。