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暇と向き合う「暇と退屈の倫理学」part2
今回の投稿では、書籍『暇と退屈の倫理学』の第1章について部分的に触れる。
この書籍を読み始めた際の私のテーマは「今、暇だと感じているのはどんな状態なのか?」という問いだ。
引き続き考えたことを記録として書き起こす。
part 1から読みたい方はこちらへ。
□退屈は不幸へ向かう
第一章では退屈に関する過去の遺産をたどる。
最初はパスカルだ。
パスカル曰く、退屈するということは人間のすべての不幸の源泉である。
退屈する人間は苦しみや負荷をもとめる
そんな悲しいプログラムが人間の中で稼働しているのと思うと、絶望してしまう。
退屈した人間は、気晴らしのために狩りやギャンブルに熱中する。
その気晴らしには、「ウサギに出会えないかもしれない」とか「お金を失うかもしれない」という負の要素が必要だというのだ。
確かに私も心当たりがある。退屈が原因で、誰にも読まれないかもしれないという負の要素を含んだnoteの記事作成という気晴らしをしている。
パスカルはそうした人間の運命を「みじめ」と呼び、解決策は神への信仰だという。
ブックマークしていたネットの投稿者がパタリと投稿をやめてしまった場合、神への信仰によって退屈から遠ざかった可能性がある。
□退屈の反対は快楽ではなく興奮
次は、イギリスの哲学者ラッセルだ。
ラッセルは退屈を次のように考えた。
退屈とは、事件が起こることを望む気持ちがくじかれたものである
ここでいう「事件」とは、今日を昨日から区別してくれるものである。
人は同じことの繰り返しに耐えられないし、この先も同じ毎日が繰り返さ れていくのだと未来を想像することにも耐えられないのだという。
この章を読むまで、私は平穏な日々を愛する人間であり、日常を狂わせるような「事件」は起きないにこしたことはないと考えていた。しかし、ラッセルの主張を読んでいくと、一つの考えに思い至った。
人間いつかは死ぬという大前提がある限り、昨日と区別できない今日が続くというのであれば、それ以降はいつ寿命を迎えようともそのタイミングに差異はないのではないか。
つまり、私は平穏な日常を愛していながらも、平穏な日常には価値がないと思っているということだ。
さらに、ラッセルは退屈について次のように定義する。
退屈の反対は快楽ではなく、興奮である
楽しいことであれ、不幸であれ、興奮できればいい。どっちでもいいのだ。芸能人のスキャンダルでも、SNSの炎上でもなんでも興奮できれば人は退屈しないわけだ。
そこで、ラッセルは解決策を次のようにまとめた。
広い関心をもつように心がけ、友好的な熱意をもてる人や物といった対象を見つけるべしというものである。
しかし本作品では、ラッセルの解決策に対して問題点を見出す。
そうした人や物がいったい何なのか、どこにあるのか分からない。そして、また外部から与えられた熱意に暇を搾取されることとなる。
□おわりに「与えられた新時代」
外部から与えられた熱意の中にいると感じることがある。
キーワードは「令和」、「次世代」、「新時代」である。
漫画ワンピースの世界では、主人公のルフィ達は「最悪の世代」と呼ばれている。海賊の世界の世代交代を象徴するような、ドフラミンゴの台詞がある。
急いで準備を整えろ!!!
本物の海賊だけが生き残れる世界がやって来る!!!
力のねェ奴ァ逃げ出しな!!!
手に負えねェうねりと共に豪傑共の…!!
”新時代”がやってくるのさ!!
ワンピースの世界では、ルフィが退屈している様子など微塵もないため、盛り上がる展開だ。
これと同じような熱意の煽られ方に、日常の中で出会う。しかし、私はルフィのように中心にいるわけでもなければ、麦わらの一味のように組しているわけでもない。
この与えられた流行の熱意に乗り切れず、半端な気晴らしをするばかりで興奮できていないことが私の退屈の要因ということが、一章を読むことによってみえてきた。