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暇と向き合う「暇と退屈の倫理学」part5

 今回の投稿では、書籍『暇と退屈の倫理学』の第4章について触れる。
 この書籍を読む際の私のテーマは「今、暇と退屈を解きほぐしたとき、退屈の方の輪郭はどうなっているか?」という問いだ。
 引き続き考えたことを記録として書き起こす。

 part .1から読みたい方はこちらへ。

https://note.com/akashi_yama/n/n2c11c2a5be81

□本当に私は暇か

 さて、第3章では暇と退屈を区別してその関係性を追った。
 そして、同じように暇であっても、退屈している人と退屈していない人がいることから「暇を生きる術」の存在に手を伸ばそうとした。

 このまま進んでもよいのだが、一つの疑問が残っていた。
 暇ではない人は、必然退屈していない。このような理屈は飲み込みやすい。しかしながら、暇ではないのに退屈している人もいるのではないか考えてしまう。

 私は過去の自分と比べると暇になった。
 多忙な仕事を辞めたことで労働の時間が減少して暇になり、離婚をしたことで共同生活やコミュニケーションの時間がなくなって暇になった。

 しかし、暇にも関わらず、積んでいる本は読み進めないし、記事の下書きは下書きのままである。
 これはなぜなのか。
 意志薄弱で行動しない人間の言い訳かもしれないが、もしかしたら私は忙しい(暇ではない)のではないか。

 本書の4章を通じて、暇ではないが退屈しているというケースについて理解を深めよう。

□消費社会の疎外

 4章では「疎外」というキーワードを中心にして、問いが立てられている。疎外とは非人間的状態であるという。

 私は、非人間的状態とは、文字通り人間らしい状態ではないことを意味すると読み取った。

 本書では、疎外された状態にあるときの考え方に注意を促している。

戻っていくべき本来の姿などないことを認めたうえで、「疎外」という言葉で名指すべき現象から目を背けないこと。

「暇と退屈の倫理学」國分功一郎 新潮文庫 p.226

 人間らしい状態を考えるとき、「本来性」というものを考えがちだというのである。

 「本来性」を考えてしまうことで、誤った疎外の解消方法に導かれてしまうという。
 「本来性」は存在しないのに本来の姿を考えてしまうのは、社会的に作られた本来の姿という像があるからだ。

 本来性から出発した思考では、一人ひとりが個性的であることを理想としてモノや時間や概念を消費していく。

問題はそこで追及される「個性」がいったい何なのかだれにも分からないということである

「暇と退屈の倫理学」國分功一郎 新潮文庫 p.172

□ゴールなき消費

 「個性」を求める道には誰もがわかるゴールなどない。
 ある人はレアなトレーディングカードを集めることで希少性を消費している。そして、ある人は労働のような生産的活動でも、余暇の非生産的活動でも何でもかんでも生き甲斐として消費している。

 そして、ゴールがないためにどこかのタイミングで、ふと自分が疎外されていると考えるのだ。 

 消費社会の疎外は自分で自分のことを疎外している 

「暇と退屈の倫理学」國分功一郎 新潮文庫 p.191

 ゴールなきゴールを目指して必死に消費しているから疎外され、暇ではないのに退屈がもたらされる。

□おわりに「本来の姿からはなれて」

 この章では、疎外という状態は存在するが、本来の姿とは結び付けずに考える必要性を学ぶことができた。

 私生活の中でぽっかりとあいた暇な時間に、私は知らず知らずのうちに「仕事に熱心に打ち込む人」や「休日に個性的な趣味を楽しむ人」という概念を消費しようと必死になっていた。

 それ以外に社会的な共通符号としての「個性」が思いつかなかったからだ。

 仕事のことを四六時中考えてみたり、休日に人に誘われて飲みに行ったりすることでは、私の退屈はなくならなかった。

 私の一番苦手な質問は「休みの日は何をしているか」である。この質問が苦手な理由に、今回思い至った。
 個性的な応答ができるか試されている感覚が嫌いだったのだ。

 今回は暇の方の輪郭が以前より掴めたと思う。
 再度、転職と離婚によりすっぽりと暇になった感覚を思い出し、自分の感じている退屈について輪郭を探っていく。
 もちろん「本来の自分は個性的な人間だ」という個性的ロマン主義から一度距離を置きながらだ。

 4章を読み終えた時点では、退屈は生きている限り続く広大なものではないことを願うばかりである。

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