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暇と向き合う「暇と退屈の倫理学」part4

 今回の投稿では、書籍『暇と退屈の倫理学』の第3章について部分的に触れる。
 この書籍を読み始めた際の私のテーマは「今、暇だと感じているのはどんな状態なのか?」という問いだ。
 引き続き考えたことを記録として書き起こす。

 part .1から読みたい方はこちらへ。

https://note.com/akashi_yama/n/n2c11c2a5be81

□暇と退屈の違いについて

 第3章では暇と退屈の違いを整理してから、”ひまじん”と”余暇”の社会的見方が示されている。

 まずは、暇と退屈の違いを考える。
 私自身がこれまでの記事の中で暇と退屈を区別できていなかったが、確かに言われてみれば、違う単語なのだから区別して考えるべきだろう。

 本書では、次のように区別される。

「暇」:「何もすることのない、する必要のない時間」という客観的な条件
「退屈」:「何かをしたいのにできないという感情や気分」という主観的な状態

 ここで、私が冒頭で繰り返し記載してきた「今、暇だと感じているのはどんな状態なのか?」という問いを、見直す必要がでてきた。
 ”客観的な条件”が自分の感になっているとしたら、他人の目を気にしすぎている。自分の感情パターンを「他人から見られる自分像をコントロールしたい」という欲求に支配されているからだ。

 健全な思考は、主観的な状態と自分の感情パターンが紐づいていることだろう。そうだとしたら、「今、退屈だと感じているのはどんな状態なのか?」と書き直せばよい。

 しかし、無意識とは言え、退屈ではなく暇というワードを選択したのか。これを無視するのはもったいない。

 私は自他ともに認める暇という条件を満たし、退屈な状態の輪郭を理解したいと感じたのではないだろうか。

 ここで、気になるのは本書にも出てくる次の問いだ。

退屈は必ず暇と結びついているのだろうか?

「暇と退屈の倫理学」國分功一郎 新潮文庫 p.119-120

□暇を生きる術をもつひまじん

 さて、暇がなくて退屈もしていないという状態は、労働を余儀なくされている状態である。この状態が幸せなのかどうかもテーマの一つではあった。

 しかし、今は暇があるのに、退屈をしている場合と退屈していない場合があるかが、本章の本筋だ。

 まず、暇があるのに退屈をしていないという人々の存在が指摘される。
 労働をする必要のない有閑階級がいて、暇であることを見せびらかしていたという。
 暇はステータスシンボルであるとして、退屈しないままに暇を生きる術をもっていたのだという。

 これは、私にはあてはまらないような気がする。やはり私は暇があって、かつ退屈しているのだろう。

□暇を生きる術をもたぬ大衆

 前章までに登場した、パスカルのいう”気晴らしにいそしむ人間”や、ラッセルのいう”日常的な不幸に悩む人間”が分類されているのが、暇があり退屈をしている人間だ。

 そして、この人々が”ひまじん”と違って退屈しているのは、暇を生きる術を持っていないからだという。

 なぜこのように暇を生きる術をもたないまま退屈して右往左往しているのか。それは余暇が資本主義の論理の中で、生産を最大化させるために与えられているからだという。

 労働者を使って暴利を貪りたいのであれば、実は労働者に無理を強いることは不都合なのだ。労働者に適度に余暇を与え、最高の状態で働かせること――資本にとっては実はこれが最も都合が良いのだ。

「暇と退屈の倫理学」國分功一郎 新潮文庫 p.139

 私はなんでもかんでも資本主義のデメリットとして語るポジションではない。
 しかし、私のもっている暇な時間が生まれ持ってのものだという感覚はない。さらにいえば休暇の過ごし方の最優先事項は、平日に備えてしっかりと休むことだと考えてすらいる。
 

 余暇は資本の論理の中にがっちりと組み込まれている。

 工場の外でも、休暇という形で働かなければならない。

「暇と退屈の倫理学」國分功一郎 新潮文庫 p.143

□おわりに「モデルチェンジしたという情報が好きで」

 この章では、暇をどう生きるかという問いが大切なのに、退屈に対する気晴らしを求めていることに気づくことができた。

 本書では身近な気晴らしとして、モデルチェンジしたものを買うことが例示されている。不必要な変更であっても、モデルチェンジしなければ売れないのだ。しかし、そこには不必要な変更があるだけなので、人々が消費するのは「チェンジした」という情報だという。

 これには私も心当たりがある。
 私は期間限定商品が好きである。あらゆる商品で、通常売られているものと期間限定商品とを比べて、期間限定のものを選択してきた。 

 理由は、新しいものに期待をしたからだ。
 もちろん、アタリだとほくそ笑むこともあれば、ハズレだと顔をしかめることもある。
 そして、期間が終わってしまいその商品が消えると、ひとときだけ残念な気持ちになるのだ。

 しかし、思い返してみると、毎年出ている期間限定商品など山ほどある。
 私の感じる期間限定感というのは、1年程度しか持続しないようだ。

 私は、期間限定という一定の周期でつかの間の気晴らしを繰り返すのではなく、「暇を生きる術」を習得することを見据えて本書を読み進めたい。

本書を読み進める際の私の問いを書き直すとしたらこうだ。
「今、暇と退屈を解きほぐしたとき、退屈の方の輪郭はどうなっているか?」

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