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息をするように本を読む24 〜小川洋子「博士の愛した数式」〜


 もうずっと以前のこと、次女が中学生3年のとき、採用2年目の若いJ先生が担任になった。
 受験年ということもあって、年若い先生の担任に不安を感じる保護者の意見も聞かれたが、熱心な佳い先生だったと私は感謝している。

 次女が通っていた中学校には、当時スクールダイアリー、略してSDというものがあった。
 明日の予定や連絡事項を書き込んで持ち帰り、自宅でその日1日の授業内容や感想、日々思うことを生徒が書き、翌日提出する。 
 担任はその日の授業の合間に目を通して、帰り際に返却する。
 
 早い話が、小学校でいうところの、あのね帳とか連絡帳とかいうようなものである。

 毎日のことで、ほとんどの生徒たちは感想などはあまり書かない。面倒だし、書くことも思いつかないらしい。
 
 ただ、次女は題材の決められた作文は嫌いなのに、徒然に思ったことを書くのが大好きだった。
 毎日、授業を聞いていて考えたこと、教室でのやり取りで感じたこと、時事ネタなどをツラツラとよく書いていた。
 チラッと読ませてもらったが、紋切り型の感想文と違って適度に毒も笑いもあり、ちょっと生意気で、そこそこ面白かった(多分に親の欲目があると思う)。

 1年生の担任(この時はベテランの女性の先生だった)から、懇談の際、次女のSDが職員室で面白いと話題になり回し読みされていると聞かされ、恐縮した。

 この1年のときも2年のときも、それぞれの担任の先生は次女のSDに毎回短いコメントを書いてくれていた。
 3年で担任になったJ先生も同様にコメントを書いてくれていたが、ある日のコメント欄には相談事が書かれていた。

 次女が読書が好きで、わりとたくさん本を読んでいることは学年の先生方は皆知っていた。
 J先生は、ガチガチの理数系(担当科目は数学)で、小説というものを今まで読んだことがないと言う。(理数系でも小説好きな人はいるのではないかと思ったがそれは置くとして)

 1冊くらい読み切りたいと思っているのだが、いつも途中で投げ出してしまう。こんな自分でも最後まで読めそうな本をお勧めして欲しい、というものだった。

 次女に相談され、私は「博士の愛した数式」がいいのではないかと言った。

 小川洋子さんの小説で、第一回本屋大賞受賞作。
 あまり長さもないし、難解なストーリーでもない。何より、数学の先生にはぴったりだと思った。

 
 シングルマザーの「私」は、家政婦をしながら、小学生の男の子を育てている。
 ある日、新しい派遣先で「博士」と出会う。
 博士は数学をこよなく愛する、根っからの学者で、少々頑固だが穏やかな紳士である。

 ただ、博士には、ひとつ大きな問題があった。
 十数年前の交通事故の後遺症で、博士の記憶はその事故の直前のまま、更新を止めてしまった。
 短期記憶が80分しか、もたなくなってしまったのだ。
 
 博士がいつも着ているジャケットには、メモ用紙がいくつもクリップで止められている。  
 難しい数式や意味不明な単語に混じって、おそらく一番古いメモにはこう書かれている。
「僕の記憶は80分しかもたない」

 博士は、毎朝、目覚めてこのメモを見る。そして、毎朝毎回、自分の置かれている残酷な現実を知らされ、その度に絶望する。
 もう何回、何千回、博士はそんな朝を1人で迎えてきたのだろう。

 最初、私と博士のやり取りはとてもぎこちない。
 でも、唯一自分に残された、愛してやまない数学というものを媒介として人とコミュニケーションを取ろうとする博士を、私はだんだん理解し、共感するようになる。

 やがて、私と博士、それから私の息子を加えた3人は、まるで家族のように心通わせるようになった。
 そのお互いがお互いを思いやる時間は淡々としてとても優しい。
 
 博士は、私の息子に「ルート」という呼び名をつけた。頭のてっぺんが、ルート記号のように真っ平らだから、らしい。
 
 翌日になったら、もう博士の記憶からルートは消えているはずなのに、会うたびに博士は「初対面」のルートにあらん限りの愛情を注ぐ。
 
 その、幼き者に対する博士の思いやりと愛情は、読むほどに切なくなる。

 幼い頃に無条件に注がれた深い愛情は、人の心にいつまでも大切な宝物として残る。
 博士の心には残念ながら、私のこともルートのことも残ってはいないだろう。
 でもルートの心には博士との思い出がずっと残り続け、この先、ルートが人生で迷ったときの道標になるだろう。

 博士の一番新しいメモには「新しい家政婦さん と、その息子10歳 ルート」と書かれていた。

 この作品は映画にもなった。
 深津絵里さんと寺尾聰さんが役にぴったりで、とてもよかった。


 J先生の話に戻る。
 次女から聞いた話だ。
 彼女がSDで「博士の愛した数式」をJ先生にお勧めしてからしばらくのこと。

 J先生は数学の授業の合間に「こんなのを知っているか」と黒板に2つの数字を書いた。
 
 220        284

 この2つの数字は友愛数と言って、ある特別な繋がりがある。こんな数字の組み合わせは滅多にないのだ。
 と、ちょっと得意そうに語ったそうだ。

 この友愛数を巡るエピソードは「博士の愛した数式」に出てくる。
 どうやら、J先生は無事に読了を果たしたようだ、と次女と2人、安堵した。
 

 本を読むことは私には特別のことではない。生活の一部であり、呼吸することと同じことだ。

 3年間、次女のSDにコメントを書いてくださった先生方、そして、「私」と「博士」に深く感謝する。

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