遥かなる星の国 vol.11 〜半世紀前のシンガポールに住んでいた〜 ⭐︎シンガポールアパート事情3
水回り事情
浴槽にゆっくり浸かる習慣は日本だけのものなのだろうか。海外でも大抵のホテルにはユニットバスが付いているようだが、あれは湯を溜めて浸かるためのものではないのかな。
45年前、私たちが住んでいたシンガポールのアパートの浴室には浴槽がなかった。というか、そもそもあれは、浴室と呼べるものだったのかと今にして思う。
その、いちおう浴室と呼んでおこう、それがあるのは、台所の奥にあるスペースだった。屋根はあるが、ほぼ壁一面は戸のない素通しの窓。床は台所と同じでテラスに敷いてあるようなタイル。つまり普通は、ベランダ、と呼ぶべき場所だ。
そのベランダは畳3枚分くらいの広さで、前述した洗濯物を干す竿を外に出すのはここからだ。窓には目隠しとスコール避けのためか、太い竹製のごついスダレが下げられていた。紐で巻き上げて上げ下げできるようになっていたが、スダレがおそろしく重いのと上げると中が丸見えになってしまうのとで、普段は下げたままだった。ここに浴室とトイレがあった。
浴室とトイレはコンクリートの壁で仕切られていて、どちらにもトタンみたいな扉がとりあえず付いている。きっちりと閉まらないし、扉の上は50センチくらい下は20センチくらい隙間があいていた。
特注の浴槽
浴室には昔懐かしい瞬間湯沸かし器が設置されていた。ホースが長めにしてあってその先にシャワーヘッドがつけられていた。これでシャワーをしろということらしい。
今の若者は湯船に浸かるのが面倒くさいからシャワーだけでOKという人も多いかもしれないが、当時の日本人だ、こんな海水浴場のシャワーブースみたいなところで毎日シャワーだけというのは堪えられない、という人が多数いたようで、会社に対し、何とかしてくれという要望が出された。
それからしばらくして、このアパートに住む、父と同じ会社に勤める日本人宅全部に湯船が配られた。我が家にも巨大な木製の桶のような浴槽がやってきた。父には言わなかったが、映画やドラマで見たことがある、江戸時代の棺桶のようだ、と密かに思った。時間がかかったのはおそらく特注品だからだろう。
この浴槽に湯沸かし器で湯を溜めて入った。今考えると、湯沸かし器のそういう使い方はいかがなものかと思うのだが、とにかくほぼ屋外、あっちもこっちも素通しだ、不完全燃焼や一酸化炭素中毒の心配はなかったのだろう。
これでシンガポールでも湯にゆっくり浸かれることになったのだが、ひとつ困ったことがあった。湯を抜いた浴槽(底にゴム栓が付いていた)を次の日の朝、浴室にそのまま置いておくわけにはいかない。
放っておくと浴室も浴槽も湿気がとれない。掃除もしないと、床がヌルヌルになる。
乾燥させるにしても日光にあまり当てると乾きすぎて、文字通り、タガが外れてバラバラになってしまう。
結果、なるべく直射日光が当たらない場所を選んで干した。浴槽はすごく重くて移動させるのは結構な労力が必要だった。
私たちが帰国したあと、あの湯船はどうなったんだろう。その行方は知らない。
ヤモリとムシ
先ほども書いたように、浴室があるベランダはほぼ屋外だった。そのベランダは台所の奥にあるのだが、その間に仕切りがなかった。いや、いちおう扉はあったのだけど、やはりきちんと閉まらなかったので、だいたいが開けっ放しだった。
そんなわけでいろんなものが入り放題だった。幸い、9階だったので蜂とかハエとか蚊とかの飛ぶ虫は入ってこなかった。入ってきたのは、まずはヤモリ。
街に住んでいる人はヤモリが鳴くのをご存知だろうか。ケッケッケッというか、キッキッキっというか、そんな声で鳴く。コンクリートの壁におそろしく響く。最初聞いたときは何か分からなくてちょっと怖い思いをした。
風呂でもだが、寝室でも鳴いていた。寝室には窓ガラスは入っているが、前に書いたように窓枠が歪んでいるので隙間がある。ヤモリは自由に出入りしているらしく、一晩中、閉めたカーテンの向こうで鳴いていた。
初めのうちは気になって眠れなかったが、馴れとはすごいものだ、そのうち、部屋の中まで入ってこなけりゃいいや、と開き直るようになった。
開き直れなかったのが、日本でも台所などで出る、例のあのムシだ。(名前を書くのも嫌なのでムシで通す) ほんとうにあいつはどこにでもいるのだ。
何せ、どこもかしこもイケイケなのだから、いくら掃除していても入ってくる。しかも年がら年中。しかも、よく育ってデカイ。(いま思い出してもゾッとする)
ただ、とてものんびりしている。
日本では敵影を目撃してから殺虫剤や古新聞など武器を探しに行って戻ってきたら、大体いなくなっていることが多い。
シンガポールでは戻ってきても、さっきと同じ場所に同じ態勢でとどまっていたりする。
ひょっとしたら、大騒ぎしてすぐに処分しようとするのは日本人だけなのかもしれない。
なんにせよ、私はこれでだいぶ鍛えられた、と思う。(続く)