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息をするように本を読む122〜今村翔吾「塞王の楯」〜

 先日、米澤穂信さんの「黒牢城」を読んだ感想文を書いた。

 その「黒牢城」とダブルで直木賞を受賞したのが、この今村翔吾さんの「塞王の楯」。
 偶然なのか必然なのか、どちらも戦国時代が舞台の歴史小説。ただ、こちらのほうが、やや後になるか。

 学生時代の古典の授業で習う中国の故事成語がなぜか好きだった。

 杞憂とか、四面楚歌とか、助長とか、矛盾とか。
 
 矛盾。矛と盾。
 全ての防御を貫くこの世で最強の矛と、全ての攻撃をはね返すこの世で最強の盾が対峙したとき、いったい何が起こるのか。
(以前、こんなキャッチフレーズの番組があったような気がする)

 いつ終わるとも知れぬまま、長く続く戦乱の世。
 その只中で、幾多の戦場に鍛え磨かれ、ふたつの恐るべき技術が完成した。
 
 最強の盾、穴太衆の石垣。
 最強の矛、国友衆の鉄炮。

 穴太衆とは。
 近江国の穴太(あのう)に代々根を張り、石垣造りを生業としていた技術集団。
 20を超える「組」で構成されていて、それぞれに屋号がある。諸大名や寺院からの依頼を受け、その地に赴いて石垣の建築、修理補修を請け負う。
 その出自は定かではないが、古くは古墳時代に大和へ朝鮮半島からやってきた渡来人の子孫ではないかとも言われている。
 彼らは、野面積みという、切り出した石や割れ石をほとんど加工せずにそのままの形を生かす積み方を得意とする。この積み方はぱっと見には雑く見えるが、石と石の間に隙間が適度に空いていることによって、水が内側に溜まりにくく、雨による土砂崩れが起きにくい特性がある。そして、その石と石の間の遊びによって、柔軟性を保ち、振動や衝撃に強く、より崩れにくくて頑丈なのだそうだ。
 穴太衆の積んだ野面積みの石垣は、穴太積みとも呼ばれ、数十年どころか、100年、200年、もしかすると1000余年、もつのが当たり前に作られていると言う。

 国友衆とは。
 同じく近江国の国友村を拠点とする鉄砲鍛冶の集団である。
 16世紀の半ば、種子島に漂着した中国の難破船。その船に乗っていた1人のポルトガル人が持っていた2丁の火縄銃によって、戦国の世は大きく変わる。
 そのうちの1丁がときの室町幕府の将軍足利義晴に献上され、最終的に北近江の名家京極家領内の国友村の鍛治にその複製が命じられた。そこから、国友衆の鉄砲鍛冶としての歴史が始まる。
 日本の鉄砲といえば教科書では堺が有名だが、実際には当時の鉄砲の大きな産地は、信長に滅ぼされた紀州の根来を除けば、大坂の堺と、近江の国友と日野。その中で最も性能が良く生産能力も高かったのが、国友だった。
 
 戦国最強の盾と矛。それがふたつとも琵琶湖畔に在するなんて、なんという歴史の皮肉だろう。

 今しも、誰もが知る有名な関ヶ原の合戦が始まろうとしている。
 その前哨戦ともいうべき大津城の戦いで、この両者が激突した。

 戦国最強の石垣職人たちを率いて大津城の石垣を守るのは、穴太衆の中でも天才と言われ「塞王」の名を持つ飛田組の頭領、飛田源斎の後継、飛田匡介。
 かたや、恐ろしいほどの性能と破壊力を誇る最新鋭の鉄砲を引っ提げた国友衆の若き頭領、国友彦九郎。
    
 関ケ原の合戦は、今でも「天下分け目」と言い習わされている。それぞれの大名たちのさまざまな思惑はあれど、おそらくこれが戦国時代を終わらせる最後の大戦になるであろうことは、誰もが知っていた。
 いや、きっと誰もがこれで終わりにしなければと、思っていた(と思いたい)。

 そして、それは武将たちだけではない。
 石垣を作る匡介も、鉄砲を作る彦九郎も思いは同じ。こんな、戦いのみに明け暮れる時代は、早く終わらせなければならない。
 願うのは、戦のない世の到来。
 
 より強い石垣を組んで守って守って守り抜き、いくら攻めても意味がないと思わせることができれば、戦は無くなる。
 
 一発で恐ろしいほどの威力がある鉄砲があり、攻めたらたちまちにこちらが倒される、絶対に敵わないと思わせることができれば、誰も戦をしなくなる。
 
 2人はそれぞれにそう考える。

 しかし。
 いくら攻めても落ちない城では長期の籠城が可能になる。それはかえって戦を長引かせ、犠牲者を増やすだけではないのか。
 恐ろしい威力の鉄砲が完成したとして、その威力を示すためには一度でも撃たなければならない。そのときに出る死者の数、犠牲の数はいかばかりか。
 
 そのことに、2人とも気づいている。
 自分のやっていることは、果たして本当に戦乱の世を終わらせることに役立っているのだろうか。むしろ、さらに争いに拍車をかけていないだろうか。
 まさに矛盾した思いを抱え、悩み迷う2人には一切の斟酌もなく、やがて戦の火蓋は切って落とされた。
 
 ここからは、次々と繰り出される守と攻のせめぎ合い。あらん限りの技術と気力、心理戦さえも駆使しての展開が、実に面白い。
 その先に2人の探す答えは、あるのか。
 息をつく暇もなく、ページをめくる手がとまらない。まさに一気読み。

 本を読むことは私には特別のことではない。生活の一部であり、呼吸することと同じことだ。

 新しい技術の開発への人類の欲求は、時代に関係なく、留まることを知らない。
 そして、新しい技術が発明されるたび、それらは人の生活を便利にするだけでなく、必ず、何らかの武器兵器に転用される。
 いや、むしろ、そうするために技術開発に血道を上げているところもある。

 大勢の研究者や技術者の血と汗の結晶が、争いを助長しているとは思いたくないが。
 
 とても残念なことなのだけど、それが人類の持つ業なのだろうか。
 

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