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息をするように本を読む108〜東野圭吾「聖女の救済」〜
東野圭吾さんといえば、押しも押されもしない人気作家さんだ。
本好き、特にミステリーが好きな方々でこの名を知らない人はいないだろう。
中でも、湯川学という物理学者が主人公の「ガリレオ」シリーズは絶大な人気を誇り、短編、長編合わせて10巻。映像化もされた。
私も大好きなシリーズだ。
この中で、無理矢理に1番を決めるとしたら、やはりシリーズ最初の長編にして直木賞受賞作品の「容疑者Xの献身」ということになるだろうか。
私もそれには絶対的に同意する。
でも、個人的にどれが好きかと問われると、私はこの「聖女の救済」をあげるだろう。
この作品は、他の長編と比べると少し地味かもしれない。ドラマ化されたこともあるようだが、原作とかなり違っているところもあったらしい。(ドラマの尺的に、とか、他にも諸事情があったためと思われる)
この物語では事件が起こる前から犯人が誰なのか、読者にはわかっている。何が使われたかもわかっている。
ただ、その方法がわからない。
よく言われる、ハウダニット、というやつなのだけど、最初におそらくこうだろうと思わせておいて、読み進めるうちにだんだんわからなくなる。
あれ? と思ったら、もう完全に作者の仕掛けた罠にはまっている。
事件の被害者は、真柴義孝。IT関連会社の若き経営者。
死因は毒物による中毒死。当時、家にひとりでいた(と思われる)被害者が自分でハンドドリップでいれて飲んだコーヒーに亜砒酸が混入していたらしい。
裕福で自信に溢れ、スマートでイケメンで、女にめっちゃモテる。そして、忌々しいことにそのことを自分でも充分過ぎるほど理解している。
自殺の可能性は限りなく低い。
捜査員たちの調査が進むにつれ、彼の妻、綾音が義孝から一方的に離婚を切り出されていたことがわかり、綾音は最重要容疑者とみなされるが、彼女には鉄壁のアリバイがあった。
ここまでは、まあ、よくある展開。
いつもなら、捜査員たちが彼女のアリバイを崩そうと靴底を擦り減らすがなかなか埒があかず、そこへ颯爽と湯川学、我らがガリレオが登場して快刀乱麻を断つ、ということになるのだけれど。
今度ばかりは、そう簡単にはいかない。
綾音のアリバイはもちろんだが、それ以前に、まず、いつ、コーヒーに毒物が混入したかが全くわからない。
亜砒酸は、彼が飲んだコーヒーカップとドリッパー内に残っていたコーヒー、お湯を沸かしたケトル以外からは検出されていない。
つまり、義孝本人が自分でケトルに毒物を入れてお湯を沸かし、それでコーヒーを入れて飲んだことになる。
たとい自殺をするにしても、そんなまどろっこしいことをするだろうか。
誰かが予め毒を仕込んでいたとしても、いったいどこに? そして、いつ、どうやって?
捜査が進み、いろんなことが明らかになればなるほど、毒物の混入は不可能に思われる。
もしかして被害者は家にひとりだと思われていたが、実は誰かがいて、その人物が犯人なのか?
もしそうだとして、その人物は絶対に綾音ではあり得ない。綾音のアリバイは完璧だ。
捜査員たちやガリレオ先生、そして私たち読者さえも、頭を抱える。
そう、実はこの事件の犯人はこの綾音、のはずなのだ。
これはネタバレではない。さっきも書いたが、物語の冒頭5ページ目には彼女が犯人だと明記されている。
しかし、読み進めるにつれ、それもだんだん怪しくなってくる。読めば読むほど、綾音にこの犯行は無理、なのだ。
これは、いったいどういうこと?
もしかして私たち読者は、最初から著者に騙されていたのだろうか。
……このくらいにしておこうか。
この物語、このトリックを荒唐無稽だと言う人もいるかもしれない。
こんなことは実現不可能だという人も。
が、私はそうは思わない。犯人の確固たる意志と多少の運があればあり得ないことではないし、第一、実現可能か不可能か、そんなことは、この作品においてはこの際どうでもいいことのような気がするのだ。
本の帯には「ガリレオが迎えた新たな敵、それは女」と書いてあった。
この言葉にものすごく頷いてしまった。
昨今、こんなことを言うと多方面からひんしゅくを買うかもしれないが、これは全てにおいて「女の犯罪」なのだ。
やり方も動機もそこに至るまでの経緯も。
被害者の義孝は決して極悪非道の悪人ではない。だが、有体に言えば、人間のクズだった。殺されて当然、とまでは言わないが、控えめに言ってもロクでもない男だ。
でも、非常に残念なことに、ロクでもないクズ男が、女性から見て魅力的でないかと言うと、そんなことはないのだ。
沼にハマった女性が、よく言うではないか。
そんな男だから好きになったわけではない。
好きになった男がそんな男だったのだ。
犯人が義孝の正体を知ったときはもう、義孝を好きになってしまった後だった。
そのことに絶望しながらも、彼女はわずかな希望を繋ぐ。
愛情と憎しみの狭間で。
もしかしたら、私が彼を変えることができるかもしれない。
他の誰でもない、私ならば。
彼が変わってさえくれたら、それでいい。
これこそが、まさに「女」だ、と思うのは私の偏見だろうか。
「聖女の救済」。
読み終えて、このタイトルの意味するところを知ったとき、やられた、と声に出して言ってしまうのは、私だけではないと思う。
本を読むことは私には特別のことではない。生活の一部であり、呼吸することと同じことだ。
この物語のもうひとつの読みどころは、ガリレオの相棒、草薙刑事の柄にもない恋バナ。
最後のオチも利いている。
ただ、湯川学先生がこんなこと、言うかな、ちょっとドラマ主演の某イケメン俳優さんのキャラに引っ張られていないか、などと思ってしまったのは、内緒。