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息をするように本を読む58 〜中山七里「贖罪の奏鳴曲(ソナタ)」他3作〜


 この本を紹介していいものかどうか、ずいぶん迷った。
 ある経験をしたことがある人たち、あるいは直接ではなくても間近で見聞きしたことがある人たちには、どう受け止められるだろう。
 もしかしたら、嫌な辛い思いをさせてしまうかもしれない。
 そんなふうに思ったりもしたのだけれど。
 でも、私がこの小説を読んで感じたことを一度どうしても文章にしてみたくなった。
 なので、ここからはあくまで私自身の個人的な感想である。


 
 この小説の主人公はかつて残酷で凶悪な罪を犯した。そして、その罪は被害者の生命を奪ったのみならず、2つの家庭を破壊した。
 しかし、彼は裁かれることはなかった。
 なぜなら、彼は罪を犯したとき、14歳の少年だったから。

 日本ではどんな凶悪な罪を犯しても、少年であれば訴追されることはない。
 未成年は警察での取り調べで罪状が確定すると、裁判所の観護措置決定により少年鑑別所に送致されて資質鑑別が行われ、その処遇が決まる。
 
 主人公の少年、園部信一郎は、医療少年院送致が相当との処分が下された。

 
 園部信一郎は御子柴礼司と名前を変え、5年の入院を経て、退院後に司法試験に合格し、弁護士になった。
 そして26年が過ぎた。
 
 少年院出身者が弁護士? と思われるかもしれないが、これは荒唐無稽な話ではない。  
 司法試験の受験資格には学歴は不要だし、人格適性検査もない。
 かつて、実際に少年院出身の弁護士が実在したこともあるそうだ。(現在は廃業しているらしいが)

 御子柴がなぜ、弁護士になったのか、それは物語が進むにつれて次第に明らかになる。
 
 御子柴は少年院にいる間にある出会いをし、それによって生まれ変わった。
 そんな都合のいい話があるか。そんなに簡単に人が変われるものか。
 そのとおりだ。もちろんそれは、御子柴が聖人君主になったなどという意味ではない。
 
 この小説を読んで、贖罪、罪を贖うとはどういうことか、と考えた。
 そもそも罪を贖うとか償うとか、簡単に言わないで欲しい、というのが私の正直な思いだ。
 その罪が、過失とか誤解とかによるものならば理解する。
 しかし、明確な悪意を持って本能のまま、恣意的に行なわれたものであるなら、そして、それが取り返しのつかない結果を招いたなら、それを償うことなどできるのか。
 できるはずもない。

 御子柴が、少年のときに犯した罪は取り返しがつかないものだった。
 あることがきっかけで遅まきながらそれを自覚した彼は、そのとき初めて激しく後悔する。でも、もう遅い。彼の罪はなかったことには決してならない。
 悔いても謝罪しても、許されることはない。
 なぜなら、唯一許すことができる者はもういないのだから。

 御子柴が少年院を退院する前、ある人物が彼に語る。
 
 後悔などするな。謝罪などするな。
 簡単に、悔いや詫びの言葉を口にするな。
 それによって、自分の気持ちを軽くしようなどとするな。
 自分のしたことから、自分の中の獣から目を背けるな。
 罪を贖うとは、他人のためだけに生きて、それによって自分の犯した罪の穴埋めをすることだ。そしてそれには終わりはない。自身が死ぬまで続く。
 贖罪は、罪人の義務ではない。権利だ。だから、放棄することもできる。
 しかし、権利を放棄したとき、その人間は本当の意味で外道に、奈落に落ちる。
 人ではなくなるのだ、と。
 
 何をしても、彼の罪が贖われるとは私には思えない。
 彼のしたことはそれほどに重い。
 しかし、彼が人として生きていくにはこれしかないのだろう、とも思う。

 弁護士の彼の前には、幾人もの罪人が奈落の底から救いを求めて手を伸ばしている。
「真実かどうかはどうでもいい。私の仕事は依頼人の無罪を勝ち取ることだ」
 御子柴はそう嘯く。
 だが、彼らを救うのは、ときに残酷な真実。
 真実のみが彼らを救う一条の光となり、暗闇の中の灯りとなる。
 御子柴自身にとってもそれは同じことだ。
 
 御子柴礼二シリーズは、この後、「追憶の夜想曲」「恩讐の鎮魂歌」「悪徳の輪舞曲」
と続く。(最新巻の「復讐の協奏曲」はまだ単行本なので未読)
 シリーズが進むにつれて、御子柴は自らの過去とより深く対峙することになる。
 
 荊の道を進む御子柴は、罪人の唯一の権利を捨て去ることなく、一生涯懸けて贖罪に生きることができるのか。

 重苦しく辛い題材ではあるが、ぐいぐいと引き込まれ、ページをめくる手が止まらなくなる異色のリーガルサスペンス。

 4巻を読み終えて思った。やはり私には御子柴に感情移入はできない。いや、しない。
 
 どうあがいても、あなたの罪は消えない。許されることは決してない。
 そう言ってやりたい。
 でも、きっと彼は私の言葉に、いつもの酷薄そうな笑みを浮かべてこう答えるだろう。
「そんなことは言われなくてもわかっている」

 本を読むことは私には特別のことではない。生活の一部であり、呼吸することと同じことだ。

 少年の凶悪犯罪の厳罰化が叫ばれて久しい。そして、勿論、それに反対する声もある。それについてどうこう言うつもりはない。正解などないのかもしれないとも思う。
 しかしながら、罰を厳しくすることだけに意味があるかどうかは疑問だ。
 自分がした行為がどういうことなのか、それを心底から思い知ることこそが一番の罰にならなければ。
 御子柴が、自分の罪を自覚し自分の人生を贖罪に懸けることを決めたように、彼らに自らの罪に向き合うことを教えられなければ、少年法の存在意義はないのではないかと思う。

 ***

 この記事はあくまで主観に基づくものです。記事を読まれてご不快になられた方がおられましたら申し訳ありません。


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