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息をするように本を読む105〜米原万里「嘘つきアーニャの真っ赤な真実」〜
この作品の著者、米原万里さんは1950年生まれ。
共産党員で衆議院議員も務めたことのある父、米原昶氏に従って、1959年から1964年までチェコスロバキア(当時)のプラハで暮らしていた。
米原氏は、その頃プラハにあった「平和と社会主義の諸問題」という国際的な共産主義雑誌の編集局に勤務していた。
プラハには、世界中の共産党から編集委員が家族連れで赴任してきていて、米原氏も日本共産党から派遣された委員のひとりだった。
市街の広場に面した、やや古いが充分な設備と広さのある住宅アパートや、郊外の森の中の湖畔に立派な保養所が用意され、子女のための学校まで作られていた。
その学校の名前は、そのまんま、在プラハ・ソビエト学校。
教師たちは皆、ソビエト連邦から派遣された優秀な人材で、授業は全てロシア語で行われた。
米原万里さんは、9歳から14歳までをこの学校で過ごす。当初はロシア語が全く分からなくて授業で何をやっているのか、チンプンカンプンだったそうだ。
ソビエト学校には世界中から、多いときは50以上の国の、さまざまな言語、文化、風習を持つ子どもたちが集まり、親の政治的な立場を唯一の共通点として、人生の最も多感な時期を共に過ごしていた。
この本は、万里さんのここでの学校生活や体験を、特に仲良くしていた3人の個性的な同級生との交流や思い出を軸にして生き生きと面白く、ときにはしんみりと描いたノン・フィクションだ。
同級生はそれぞれ、イケメンでプレーボーイの兄の影響か、やたらとおませで耳年増のギリシャ人のリッツア、それと自分では全く気づかないで呼吸するように嘘をつくルーマニア人のアーニャ、妙に大人びた優等生のユーゴスラビア人のヤスミンカ。
皆、出身国はもちろん、両親の生まれ育ち、ここに来るまでの経緯、全てが違う。
当然、信じるものも考え方も。
彼女たちはその違いに、ときには呆れ、ときには驚き、それでもお互いの長所を認め合いながら友情を育てていく。
他方で、大人たちが信じる共産主義が掲げる夢と正義、そして、隠しきれない矛盾と疑問が、子どもから見た素直な視点で語られる。
やがて、万里さんは中学2年のときに、家族と共に日本へ帰国する。帰国後も同級生たちとはしばらくの間、文通していたが、受験や進学のこともあってお互いだんだんと疎遠になり、ときおりの季節の挨拶のやり取りだけになってしまった。
万里さん一家が帰国して4年後、チェコには大きな変化があった。1968年に起きた「プラハの春」。そのあまりに短い春の後、チェコは再び氷に閉ざされる。
高校生になっていた万里さんは、かつての同級生と連絡をとろうとするが、その消息が確認出来ない友人たちもいた。
心配しながらも、彼女はやがて自分自身の日々の生活に追われていった。
それから20年余りが過ぎた、1980年代の後半から1990年代初頭。
東京外大のロシア語科、東大大学院を卒業した万里さんはさまざまな国際会議でロシア語の通訳を務めていた。
その頃、ヨーロッパは新たな激動の時代を迎えつつあった。
「共産」という主張の中に大きな矛盾を抱えた巨大な体制が綻び、崩壊を始めていた。
国家間のパワーバランスが崩れ、それを利用して抜け駆けを計ろうとするそれぞれの国の思惑が絡み、人々の長年の圧政、差別に対する怒り、不満が爆発し、そこここで民族紛争が起きる。
各国に散らばった同級生たちはどこでどうしているのか。
皆、無事なのだろうか。彼女たちに会いたい。会ってそれを確かめたい。
大人になった万里さんはさまざまな伝手を辿って、かつての友人たちを探した。
私は少し怖かった。
もし、リッツァ、アーニャ、ヤミンスカ、誰かひとりでも、見つからなかったらどうしよう。
でも、そこは安心していい。万里さんは、めったとないような幸運にも恵まれつつ、無事に3人と再会できた。よかった、と私はホッとして、少し泣きそうになった。
この作品は3章にわかれていて。
章のタイトルは、
「リッツアの夢見た青空」
「嘘つきアーニャの真っ赤な真実」(表題作)
「白い都のヤスミンカ」
どの章も、前半はそれぞれの友人とのソビエト学校時代の思い出、そして後半は30年近く経ってからの再会のエピソードが描かれる。
この時代のヨーロッパでの30年は長い。
高度成長期からの多少の浮き沈みはあれど、ともかくも平和と安全を享受していた日本とは比較にならないほど、ヨーロッパ、特に東中欧は激動の時代だった。
リッツアのギリシャはまだしも、アーニャのルーマニアはチャウセスク体制が崩壊し、ヤスミンカのユーゴスラビア連邦は解体される。
そして何より大きかったのは、彼女たちのプラハでの出会いの理由であり、親たちの信奉の牙城であったはずのソビエトの瓦解。
それぞれの国で時代の激流に飲み込まれ流されながら、それを乗り超えてきた友人たち。
彼女たちからの万里さんの聞き書きという形で描かれる後半を読みながら、いろんな事情はあれど3人が無事であったこと、そのことに無信心者の私も何かに感謝したくなった。
それぞれの章のタイトルについている色。
青、赤、白。
この3色が意味することに気づいたのは読み終えてからずいぶん後のことだった。
本を読むことは私には特別のことではない。生活の一部であり、呼吸することと同じことだ。
万里さんは、2006年にまだ56歳の若さで亡くなられた。
今ご存命ならば74歳。
万里さんが現在の世界、特に東ヨーロッパや中東の情勢を見たら、何を思われただろう。
それが知りたい。