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息をするように本を読む90〜カズオ・イシグロ「私を離さないで」〜
この作品の話をするのはとても難しい。
私の持っている文庫本の解説者の方もそんなことを書かれていた。
物語の根幹を成す、ある重要な部分に全く言及せずにこの作品の解説をするのは困難だ。ともすれば、いわゆるネタバレになってしまう。
著者のイシグロ氏は、ネタバレは全然構わない、何なら本の帯の紹介に「この物語は〇〇の物語である」と書いてもらってもいい、と言われているそうだ。著者にしてみれば、そこがこの作品の肝ではない、というところなのだろう。
そもそも、この物語はミステリーではないし、謎とされる部分もほとんどは物語の中盤より前に、思いがけないやり方でいきなり明らかになってしまう。
だが、やはり、全く知らずに読みたかった、と言われる人もいるだろう。
思い切りネタバレになるようなことは書くつもりはないが、全くの白紙の状態で読みたい、と言われる方々はここからは作品を読んでからお読みいただきたいと思う。
この物語は、キャシーという31歳の女性が
現在と子どもの頃の思い出話とを交互に語るという形で進んでいく。
彼女の思い出話は、主に彼女が育った、イギリスのどこかにあるヘルーシャムという施設とそこで一緒に過ごした仲間たちのことに終始する。
昔ながらの寄宿舎学校?とでもいう雰囲気だろうか。周りを森に囲まれた自然豊かな地域、別の意味から言えば、他から隔絶された場所、にある。
思春期の入り口にある子どもたちが集団生活をしていると当然、よくあるであろう揉め事、いじめ、友情、競争、嫉妬、小さな、でも当人たちにとっては大きな問題が次々におきるが、あくまで文章は静かで穏やかで、淡々としている。無知で純真無垢で、だからこそ残酷だった子ども時代のノスタルジーに満ちた物語。
だが、なんだろう、この感じ。
ごく普通の話をしているようで、ずっと何かしら、違和感というか、ふわふわしたもどかしい感覚がある。
読者は、彼女や他の登場人物たちが当たり前のこととして認識している何か、だけど一般社会とは違う何かを知らされないまま、彼女の話を聞かされている。しばらくして、それに気がつく。
その何かは、今では特別に珍しいものではない。
いや、現実の世界でというわけではなく、フィクションの題材としてはという意味だ。同じような設定の物語を私はいくつか見た、あるいは読んだことがある。
中でもずっと前に見たアメリカ映画「アイランド」の中で主人公たちが置かれた状況に、キャシーとその友人たちのそれはとてもよく似ている。
イシグロ氏のこの作品も「アイランド」も同じ時期の作品なので、どちらが先とかいうことではない。もしかしたらこの頃からこのテーマが世界に周知され、フィクションの題材によく使われるようになっていたのかもしれない。
この2つの作品の大きな違いは、まず「アイランド」では、この小説の中での前提が悪者たちによる違法行為とされていること。
「アイランド」の主人公たちはその悪に立ち向かい、戦って自由を勝ち取り、ハッピーエンドとなる。
しかし、「私を離さないで」の世界ではその前提は違法ではない。誰もそれについて、悪だとか非人道だとか糾弾しない。ただただ、あるものとして受け入れている。いや、山のようにある問題点や矛盾からは顔と心を背け、受け入れるふりをしている。
だからと言って誰もが何も感じないわけではない。ある者たちは悩み葛藤し、やがて諦めていく。当事者たちもそれを見守る者たちも。それが何とも残酷で不条理なのだ。
同じテーマで物語を作っても、こんなに違うものなのか。ただ単に、イギリスの小説とハリウッド映画の違い、と言ってしまうのも単純すぎる気がするが。
傍目に見たらとんでもないことでも、それが違法と認められない場所、時代では当たり前になる。
物語の最後に、ある人物によって今まで小出しにされていた事実、恐るべき仕組みが何もかも明らかになる。淡々と語られるがゆえに余計に際立つ、目を背けたくなるような残酷さ。
私は、どちらの立場にもなりたくない。なる勇気がない。
本を読むことは私には特別のことではない。生活の一部であり、呼吸することと同じことだ。
正義や倫理などいくらでも変わる。いや、それと意識せずに変えられていく。自分たちに都合のいいように。
それは歴史を眺めてみればわかることだ。
でも、それに直面する人の気持ちには、大きな違いはない。当たり前かもしれないが。
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