千葉雅也『オーバーヒート』についての覚書
千葉雅也のアカウントをフォローしていて、ほぼ毎日ツイートを読んでいるから、いわゆる古典と比べると作品との距離感がなかなか掴めなくて、読書メモ程度であってもそれっぽい枕が思いつかず、ふーむとあれこれ考える。
ツイッターにポツポツ投稿してみようかとも考えたけど、自分で後から見返せなくなっちゃうので、やっぱりnoteに記録することに決めた。
「僕」は空間的にはこの世界に存在しているのに「僕」の両親(そしておそらく帰省した後のなっちゃん)のように異性間で「フ◯◯ク!」して子供を産み育てて生きていくわけではない
そういう「普通」から逸脱してしまっている人生を生きることは、ネガティブな意味で浮世離れしていることであって、その「普通」を生きられない生をそれでも生きざるを得ない困難や不安はしかし、おそらく意図的にサラリと描写されている
だからスッと入ってくる
男性同性愛者の「僕」の世界が僕と重なるような錯覚を覚える
そこには同級生とダラダラ遊んだり、家族と過ごした家の記憶やらが配置されていて、そのとき「僕」の世界は同性愛者というフィルタが存在しないかのように読めてしまう
でもじっさいは生活の細やかなディテールにまで「僕」が男性同性愛者であることを示すモノやエピソードが散りばめられているのも事実だ
僕が「僕」と同じ視点でモノを見て考える
そういう共振が始まったと思った矢先に、僕は「僕」とは異質の存在であることを思い知らされてしまって、さっきまでの共振はなんだったのだろうかと突き放されてしまう感じがある
ノレるようでノレない
乱拍子なんかを取り入れたポップミュージックのような感覚
僕は男性同性愛者ではないけれど、〆切がデフォで存在しない世界線の人間だから、「僕」の不安といおうか、先が見えない生のおそろしさみたいな感覚は把握しているつもりなんだけど、僕は同性愛者ではないという決定的な違いによって作品世界から最終的にはつき放たれてしまっているのではないか
という本質的に(と言ったらどこかから怒られそうだけど)異なるセクシュアリティを抱えた僕と「僕」は永遠に交わることのない世界線でいきているのかもしれない
とくに好きなシーンが2つ
ひとつはラストのワンフレーズ
男女のカップルが一世一代のプロポーズを、なんてちゃちなもんじゃないんだよあれは
先が見えない男性カップル、いつまでかはわならないけれど、その時が来るまで愛撫し合ってなんとか生き延びようとする2人の男が、そんな状況を一歩前に進めようとするひとこと
そのひとことは短いけれど、こわくて、それでも相手を信頼して、それで思い切って掛ける
そのフレーズに込められた想いには心打たれるものがある
もうひとつは「僕」がなっちゃんをメチャクチャに犯してやりたいと書かれたシーン
帰省していいひと探しますよ!と言うなっちゃんを目の前にした「僕」は激しく欲情する
それはなっちゃんみたいな普通のセクシュアリティを持った女というものが、フェミニストがなんと言おうと、男性にペニスを挿入されて気持ちよさに喘ぎたいという本能的な欲求を持っていると「僕」がそう確信しているから
「僕」は、そんなふうにして地元の男に挿入されて身体の中に精液を注ぎ込まれるなっちゃんの姿を想像して興奮する
興奮のあまり「僕」が痛いほど勃起するのは、男の野生的な性欲のはけ口にされるなっちゃんを自分自身に置き換えて考えるからだ
なっちゃんの身体を犯すことで、男の男性性をその極限まで昂進させる「僕」は、同時に男の激しいセックスを求めるなっちゃんの身体でもあるから、「僕」は「僕」に犯し犯されるのである
その循環はしかし実際には不可能なわけであり、なっちゃんのような女性が男から精液を注がれるのと同じような当然さによって「僕」が他の男から、たとえばいずれなっちゃんの身体に腰を打ちつけるその男が、なっちゃんに対するのと同じような欲求を持って「僕」をセックスの相手とするわけがないという事実を前にしたとき、そこに「僕」はなっちゃんにたいする憧れと憎しみを抱くのであった
まだ書きたいことあるけど、これ以上なにか書けそうにないから今回はここでおわり